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【つの版】日本建国07・日本書紀

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

712年に古事記、720年に日本書紀が完成しました。歴史を追うのはここまでとして、これらの歴史書はどのような意図で、どのような過程で編纂されたのでしょうか。まさにそれを探る新書もありますので、これを読めばだいたいわかります。Wikipediaの日本書紀の記事にも書かれています。

◆歴◆

◆史◆

日本書紀

日本書紀の編纂については、この記事で先に触れました。引用します。

ところで、日本書紀に使用されている暦は2種類あります。月朔干支(月初の日の干支)の計算から、安康3年(456年)以後持統5年(691年)までは、554年に百済から輸入された劉宋の元嘉暦(宋での使用期間は455-509年)を用いています。持統天皇は697年孫の軽皇子(文武天皇)に譲位しますが、日本書紀の記録はそこで終わっています。持統6年から11年まで(696年)、及び文武元年(697年)に始まる『続日本紀』では、唐の儀鳳暦(麟徳暦、唐での使用期間は665-728)が新たに使われています。持統4年から11年までは元嘉暦から儀鳳暦への移行期間で併用されていましたが、文武元年からは正式に儀鳳暦が採用され、元嘉暦は廃止されました。
しかし、神武天皇が東征に出発する年(西暦紀元前667年)から安康2年(西暦455年)までは、元嘉暦ではなく儀鳳暦で計算されています。百済は元嘉暦を用いていましたから、百済系の史料に拠ったであろう雄略以後が元嘉暦なのはわかりますが、それより前が唐代の暦なのは時代錯誤です。
日本書紀の和歌・訓注仮名の読みも、雄略紀から崇峻紀(456-592年)、皇極紀から天智紀(642-671年)までは唐代の正音(漢音)ですが、安康以前や推古・舒明紀(593-641年)は百済系の呉音です。文体上も両者の差は大きく、編纂・述作の担当者が途中で代わったとしか思えません。
要するに、天武天皇による国家事業として国史が編纂された時、雄略天皇の即位から書き始められたのです。しかし途中で担当者が代わり、神代から安康に至る記述が後から加えられ、儀鳳暦採用後の文武天皇の時代に編纂されたわけです。チャイナの史書、百済や新羅、高句麗、任那の史書、倭国改め日本の先行史書も参考にされたでしょう。ただ暦のすり合わせを訂正するまでには至らず、ちぐはぐな状態で完成してしまったのです。

森博達氏の『日本書紀の謎を解く』によると、そういう感じです。付け加えるならば天武紀は倭風、持統紀は漢風です。漢風のものをα群、倭風のものをβ群とすると、こうです。

β群:巻1~13  神代から安康 儀鳳暦
α群:巻14~21 雄略から崇峻 元嘉暦
β群:巻22と23 推古と舒明 元嘉暦
α群:巻24~27 皇極から天智 元嘉暦
β群:巻28と29 天武 元嘉暦
α群:巻30   持統 儀鳳暦

皇極から天智はα群ですが、乙巳の変・大化の改新の部分は倭風が強く、加筆修正された雰囲気があります。それぞれの部分は主に誰が担当していたのでしょうか。

唐音編史

森氏の推測によると、α群は唐人の続守言薩弘恪が編纂しました。

斉明紀に引用された『日本世記』によると斉明7年辛酉(661年)11月、天智紀では天智2年(663年)2月、百済復興運動の指導者である鬼室福信は、百済王子豊璋の帰還と引き換えに唐人の捕虜100余名を倭国へ送りました。その中に続守言がいました。

続とはやや珍しい漢姓ですが、『春秋左氏伝』に晋の大夫として続簡伯がいますし(姫姓孤氏で続という地に食邑があったためそう呼ばれます)、近くは西晋と後趙に仕えた漢人の続咸がいます。『晋書』によると彼は幷州上党郡(山西省長治市)の出身で、杜預に師事して春秋と鄭氏易を学びました。西晋では郡太守まで出世しましたが、のち石勒に捕まって理曹参軍に任じられ、後趙の廷尉(司法長官)にまで出世して97歳で薨去しました。出身地からして晋人に違いなく、続守言はその子孫でしょうか。

彼ら唐人の捕虜は筑紫から倭国の畿内へ護送され、近江国・美濃国に遷されましたが、続守言は同じく渡来唐人の薩弘恪(来歴は不明ですが続守言と共に渡来したのでしょう)と共に朝廷に仕えました。

持統3年(689年)6月には「大唐の続守言・薩弘恪」に稲を賜り、各々差があった、とあります。また持統5年(691年)9月には「音博士」の続守言・薩弘恪、書博士の百済末士善信が銀20両を賜っており、持統6年(692年)12月には「音博士」の続守言・薩弘恪が水田4町を賜っています。音博士とは儒教の経典を音読する時、同時代の唐の発音(漢音)で読むための音を教授する役職でした。この時期に褒賞されたのは、持統3年に飛鳥浄御原令が発布されており、その撰集に関わっていたためと考えられます。

『続日本紀』によると文武4年(700年)6月、刑部親王(忍壁皇子)・藤原不比等らに命じて律令(大宝律令)を撰定する勅令が下されましたが、この時のメンバーに「勤大壹の薩弘恪」がいます。勤大壹は天武天皇の定めた諸臣48階のうち上から17番目で、勤の位階では最上位にあり、大宝令による位階では正六位上に相当します。昇殿が許されない地下人で、下国の国司や国府の次官(介)に相当し、さほど高位ではありません。また続守言はメンバーに名を連ねておらず、既に逝去か引退していたものと思われます。661年から40年も経つのですから寿命でしょう。薩弘恪もこの記事を最後に現れなくなり、大宝律令完成前に逝去したものと思われます。

こうした状況に基づく森氏の推測によれば、まず天武10年(681年)に中臣大嶋・平群子首らによって帝紀・上古諸事等が筆録され、『日本書紀』の原史料となりました(遡れば推古朝でも『天皇記』等の史書が既に編纂されています)。飛鳥浄御原令を編纂していた続守言・薩弘恪は、持統3年以後に次の仕事として『日本書紀』の編纂を命じられます。二人いるので手分けして行い、続守言は雄略紀から舒明紀まで、薩弘恪は皇極紀から天武紀までを担当することになりました。

なぜ神代や神武や継体からでなく雄略からかといえば、彼の時代に百済が一旦滅び(475年)、それに関わる多くの百済系史料が残っていたからです。またチャイナの権威を離れた治天下大王と称したのも彼からのようですし、天智・天武兄弟の共通の祖先である継体天皇の即位までを語るには、前政権である雄略や武烈らについて(なるべくこき下ろして)書かねば筋道がわかりません。卑彌呼や崇神、応神や仁徳からでもいいのですが、伝説的で文字資料が乏しく、また前政権の功績やチャイナへの朝貢を国史に記録すると、現政権の正統性やチャイナからの独立性に対する問題が後世の読者にまで及び、うまくありません。そうした忖度の結果でしょう。雄略以前については後で付け加える予定だったと思われます。

しかし続守言は既に高齢で、崇峻紀の終了間際に逝去したようです。薩弘恪は天智紀まで完成させましたが、天武紀はほぼ同時代史で忖度すべき人が多すぎて書きにくく、大宝律令の編纂にも参加していたため多忙を極め、残りを編纂する前に逝去してしまいます。

倭音編史

文武天皇は後任を求め、山田三方(やまだの・みかた)を撰述担当者に任命します。彼は史(ふひと)のカバネを持つ古い渡来帰化系氏族出身でした。『新撰姓氏録』には山田氏は周の太子晋の子孫とか魏の王昶の子孫とか書かれていますが、和泉国の山田造は「新羅国天佐疑利(アメノサギリ)命の子孫」とあり、新羅系ないし任那加羅(弁韓)系だったようです。

三方はかつて僧侶で、新羅に学問僧として留学した後、持統6年(692年)に還俗して務広肆(48階中32階)を授かっています。先祖伝来の古い漢文知識はあったものの唐に留学しておらず、倭化呉音と倭化漢文、仏典知識により述作を行いました。また天武紀も作られる一方、雄略以前も加上されます。天武紀に神武天皇の陵の記述があるため、天武10年時点では神武の伝承も存在したと思われますが、上述のように元嘉暦でなく儀鳳暦に基づいて暦が計算されています。そこまで気が回らなかったのでしょう。慶雲4年(707年)にある程度完成したらしく、同年4月に三方は学士としての功績により賞与を賜っています。しかし、まだ献上されていません。

和銅5年(712年)に献上された『古事記』は、これとは別に伝わっていた倭風の神話・歴史物語を撰録したものです。当時はカタカナもひらがなもないため、倭語には全て漢字を当てて用いていますが、音はみな呉音です。また「天皇」の君主号はあっても「日本」の国号がまだなく、そのような時期の原史料に遡るのではないかと思われますが、『続日本紀』に古事記編纂・献上の記録がないため、公的な正史ではありません。大筋は日本書紀と同じであるため、共通の原史料が存在したのでしょう。序文は立派な漢文です。

舎人親王

日本書紀の編纂者とされる舎人(とねり)親王は天武5年(676年)生まれですから、天武10年にはまだ幼児です。大宝元年(701年)に二品、養老2年(718年)に一品親王となりました。年齢も40代前半と申し分なく、この頃に国史編纂の総裁となったのでしょう。

彼は天武の子として長屋王と並ぶ有力皇族であり、藤原氏とは血縁・姻戚関係がありません。不比等の没後は知太政官事として国政を司り、右大臣・長屋王とは政治的に対立したため、藤原氏寄りになったようです。

707年にある程度完成していたであろう『日本書紀』ですが、天武紀に続いて持統紀の撰述も計画されます。和銅7年(714年)2月、紀清人三宅藤麻呂に国史撰述の詔勅が下され、清人が持統紀を作成し、藤麻呂は全体の潤色や補足を行ったようです。清人は霊亀元年と養老元年に学士としての功績により賞与を賜っています。そして箔付けとして編集総裁・舎人親王の名のもと、最初の国史として天皇に献上されたわけです。

古事記とは異なり、日本書紀には本文の他「或る本にいう」「一書にいう」として多数の異説が収録されており、客観視点で比較研究が可能です。文章も唐の史書や詩文に倣った漢風修飾・引用が多く、奥ゆかしくてナウでクールです。では古事記の方が古くて荒々しく、日本独自の云々があるかというと、どうでしょうか。次回からは日本神話を読み解いて行きましょう。

◆創◆

◆世◆

【続く】

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