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【つの版】ウマと人類史EX16:行方野馬

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 日本列島にはウマの飼育に好適な火山性草原が豊富にあり、特に東国では多くの馬牧が作られました。さらに北方の奥羽/東北地方にも、倭国と蝦夷との交易や戦争などによりウマが導入されていきます。

黒ボク土の分布(赤)

◆蝦◆

◆夷◆

東征毛人

 倭国から見て東国には、「えみし」と総称される人々が住んでいました。漢字では毛人といい、のち蝦夷の字があてられます。彼らと倭国の関係を、主に倭国側の記録から読み取ってみましょう。

 四道将軍や武内宿禰、ヤマトタケルは伝説としても、4世紀後半には会津の地に前方後円墳が出現していますから、福島県あたりまでは倭国の影響が及んでいたようです。日本海側では4世紀後半に新潟市西蒲区竹野町に菖蒲塚古墳が築かれています。太平洋側では岩手県奥州市に角塚古墳(5世紀後半から6世紀初頭)が築かれ、これは日本最北端の前方後円墳です。山形県では村山郡山辺町の坊主窪古墳(6世紀後半)が北端の前方後円墳です。

 478年の倭王武の上表文に「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国」とあり、海北95国が三韓諸国とすると、東の毛人55国、西の衆夷66国を足せば121国です。『隋書』東夷伝倭国条には「軍尼(くに)一百二十人有り、猶ほ中国の牧宰の如し」とありますから、これは当時の倭国(ヤマト王権)に服属する国造を最大限数えた数でしょう。つまり畿内ヤマトの東の諸国を全部「毛人」と呼んだわけです。毛野も毛の字がつきますから、毛人の国と認識されていたのかも知れません。

 9世紀の『先代旧事本紀』国造本紀に見える国造の数をカウントすると、西海道21、山陰道8、山陽道19、南海道13、畿内5で西国66。北陸道13、東山道22(うち陸奥10)、東海道36で東国71、東西合わせて137です。とすると倭王武(雄略天皇)や隋書倭国伝(推古天皇)の頃にはまだ陸奥の10国造が置かれておらず、さらに6つか7つの国造がいなかったことになります。前方後円墳は築かれていても、福島県以北は倭国の圏内ではなかったのです。あるいは大きめの国造が分割されただけかも知れませんが。

日高見国

 坂東東北の常陸(ひたち)国は、もと筑波・新治・茨木・仲(那賀)・久自(久慈)・高(多珂)・道口岐閉という7つの国造が支配する領域で、古くは東北地方ともども「日高見国(ひたかみのくに/日の昇る方角=東方の国)」と総称されていたともいいます。『常陸国風土記』によれば、ヤマトタケルが蝦夷を討伐した時にこの地を通り、逆らう賊徒を誅戮して服属させましたが、彼が新治で井戸を掘らせた時に衣の袖が水に浸(ひた)りました。それでこの地を「ひたち」と名付けたのだといいます。

 別の説によれば、孝徳天皇(在位645-654年)が足柄坂の東に8つの国を置いた時、往来の道路が平坦で河川や湖沼に妨害されることなくまっすぐ陸路を進めることから「直道(ひたみち)」と名付けました。これがのち常道、常陸と表記されたのだといいます。しかし常陸国にはのちの霞ヶ浦である香取海など多くの湖沼や河川があり、陸路がまっすぐとは言い難いでしょう。「ひたち」の名は日高見国と関係があるともないともいいますが、この頃には何が起きていたのでしょうか。

『日本書紀』によると孝徳天皇の大化3年(647年)、越国の北部に渟足柵(ぬたりのき)という城柵(軍事基地)が建設され、翌年には磐船柵(いわふねのき)が建設されました。これらは現在の新潟市および村上市付近に存在したといい、阿賀野川河口部以北、新潟県/越後国北部になります。朝廷は越国や信濃から住民を移住させて柵戸(きのへ/屯田兵)とし、蝦夷を防がせたといいます。当然ウマも近くで飼育され、軍事や開墾、情報伝達などに用いられたでしょう。

 史料記録にはありませんが、同じ7世紀中頃には仙台市太白区郡山に郡山遺跡が築かれました。名取川と広瀬川の合流地点にあり、畿内系・関東系の土器を含む区画整理された役所の遺跡で、周辺の大集落であった南小泉遺跡が同時期に縮小しています。

 孝徳天皇が654年に崩御すると、645年に退位した姉の宝皇女(皇極天皇)が再び即位します(斉明天皇)。その元年(655年)7月に「北蝦夷99人、東蝦夷95人」が百済の使者とともに饗応され、柵養(きこう/城柵で兵卒として現地雇用された)蝦夷9人と津刈(つがる)蝦夷6人に冠位を授けたと日本書紀にあります。北蝦夷とは越国の、東蝦夷とは陸奥国の蝦夷です。

 陸奥国がいつ設置されたかは定かではありませんが、斉明紀に道奥・陸奥の記載があることから孝徳天皇の末年ともいいます。当初は山道(東山道)と海道(東海道)の奥にあることから「道奥(みちのおく)」と呼ばれ、のち陸奥と表記されました。「みちのく」や「むつ」は「みちのおく」の訛りです。「ひたち」が常道・常陸と表記されるのは、道奥/陸奥と直(ひた)に接する国だからとも言います。のち常陸の北部は陸奥に移管されました。

 斉明天皇の時、越国守の阿倍比羅夫は水軍を率いて海沿いに北方遠征を行い、飽田(秋田)・渟代(能代)・津刈(津軽)・渡島(北海道)まで到達しました。彼は蝦夷と戦うことなく服属させ、蝦夷の領域に北方から侵入してきた粛慎(みしはせ/オホーツク人)と戦っています。659年、倭国の使者は陸奥の蝦夷2人を伴って唐へ赴き、唐の天子に謁見して蝦夷について説明しました。

 しかしまもなく唐と新羅の攻撃で百済が滅亡し、倭国は百済復興を目的として出兵しますが663年に白村江で敗れ、朝鮮半島から駆逐されます。668年には高句麗も唐に滅ぼされ、難民が倭国に渡来します。斉明天皇の後を継いでいた天智天皇は各地に防衛施設を築いて厳戒態勢に入りますが、672年に崩御します。同年に後継ぎを巡って内戦(壬申の乱)が勃発し、これに勝利して即位したのが天武天皇です。日本書紀では天武天皇5年(676年)に「陸奥」の表記が初めて現れ、同11年(682年)には「陸奥の蝦夷22人に爵位を賜った」とあります。倭国と蝦夷の大規模な戦争は、この時代にはまだ起きていません。

行方野馬

『常陸国風土記』によると、香取海の東にある行方(なめかた)郡の麻生の里(現行方市麻生)には川辺に大きな麻が生い茂り、椎・栗・槻・櫟など堅果を実らせる樹木が生え、猪や猿が棲み、野には野生化したウマが駆け回っていました。天武天皇の時(673-686年)、現地の人がこのウマをとらえて朝廷に献上したので、これを「行方の馬」と呼んだといいます。

 常陸国には東西50km、南北60kmに及ぶ広大な「常陸台地」が広がっており、利根川の南の下総台地と合わせて「常総台地」と総称されます。高さはおよそ30m前後、例によって関東ローム層が厚く積もった畑作地帯で、行方台地はその一部ですが、ここに野生化したウマがいたというのです。毛野や武蔵、下総と並び、常陸も古来ウマの産地として知られていました。

 倭国におけるウマの管理方法は大雑把で、半野生の状態で放牧されていたようです。島や川の中洲のような狭い場所の牧ならともかく、信濃国や関東平野など広大な領域に放牧された場合、人間の管理を離れて野生化するウマも多くいたことでしょう。充分な草原と水があるなら、ウマは人が手を加えなくても結構勝手に生きて繁殖し、増え広がります。縄文以来の森林や草原が広がる東国や陸奥でもそのようなことが起きたはずです。

 福島県浜通り(太平洋岸)の相馬地方に伝わる「相馬野馬追(そうまのまおい)」は、相馬氏の遠祖である平将門が下総国相馬郡小金原(現千葉県松戸市)に野生のウマを放し、敵兵に見立てて軍事訓練を行ったことに始まるといいます。将門はウマの牧を支配していましたから、「行方の馬」のような野生化したウマを捕まえ、管理下に戻す作業が起源なのでしょう。倭人に服属させられ、城柵で働かされていた蝦夷らも、このような役目を担っていたであろうことは察せられます。蝦夷はこうしてウマと出会ったのです。

◆蝦◆

◆夷◆

【続く】

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