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【つの版】ユダヤの謎07・神殿再建

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

前538年、バビロニアはペルシアに征服され、ユダヤ人は半世紀ぶりに捕囚から解放されました。彼らの一部は祖国ユダヤへ帰還し、失われた神殿を再建して、預言されし理想国家を打ち立てようとします。

この時代については、旧約聖書『歴代誌』『エズラ記(エズラ記・ネヘミヤ記)』及びヨセフスの『ユダヤ古代誌』が基礎史料となります。ともにユダヤ側に都合のよいように書かれている上、編集が雑なのでわかりにくいですが、判明していることをざっくり見ていきます。また、この時代に関してはギリシア人による多数の史料が記されています。

◆廃墟◆

◆妨害◆

神殿再建

前538年、第一次帰還団を率いてエルサレムへ向かったのは、ユダ王エホヤキン(エコニヤ)の4男セシバザルでした。父は前598年に18歳で即位し、同年にバビロンへ連行され、40年近く牢獄で過ごしたのち釈放されています。釈放後に儲けたとすれば60歳頃の子で、前560年生まれとして23歳です。

彼はユダヤ総督に任命され、エルサレムの神殿跡を訪れますが、そこでは地元のレビ人(祭司部族)がヤハウェへの礼拝を行っていました。セシバザルはこれを追認し、律法編纂を続けさせると共に、神殿の再建を計画します。まず瓦礫の撤去が行われ、前535年に神殿の礎石が据えられます。現地住民は協力を申し出、サマリア人や周辺の諸民族も集まって来ました。

しかし、セシバザルと彼に付き従う聖職者らは彼らと対立します。半世紀の間に律法とナショナリズムと理想主義で練り固められた彼らには、現地住民や異民族は聖なる律法に従わない「汚れた民」と認識されたのでしょう。腹を立てた現地住民や周辺民族は協力を拒み、かえって神殿再建を妨害するようになりました。かくして復興は遅々として進まなかったといいます。

前530年、ペルシアの大王キュロス2世は東方遠征に赴き、インダス川からガンダーラ、バクトリア、ソグディアナに至る広大な領域を征服して属州とします。しかしカスピ海東方の砂漠地帯に割拠していた勇猛な騎馬遊牧民マッサゲタイと戦い、戦死します。彼の跡はカンビュセス2世が継ぎました。

前525年、カンビュセスはエジプト遠征を行い、これを征服して属州とします。しかし本国へ帰還せず前522年に急死し、跡を継いだ弟スメルディスも殺され、ダレイオスが王位を簒奪します。彼は「キュロス2世の先祖アケメネスの別系の子孫」と称し、カンビュセスを邪悪な暴君、スメルディスを「実はスメルディスを騙ったガウマタなる悪人」とし、前政権に対する悪質な誹謗中傷を流して自らの即位を正当化しました。よくあることです。

キュロス・シリンダー」によると、キュロス2世は自分の先祖をテイスペスとし、アケメネスの名は系譜にありません。ダレイオスはテイスペスの前にアケメネスを架上し、テイスペスの子キュロス1世の孫がキュロス2世で、自分はキュロス1世の弟アリアラムネスの孫ヒュスタスペス(ウィシュタースパ)の子だと「べヒストゥン碑文」に刻ませています。
またヘロドトス(前485-前425)は前443年頃『歴史(ヒストリアイ)』を著しましたが、ダレイオスによるデマをそのまま記録し、また反ペルシア感情が強かったエジプトで多くの情報を得たため、カンビュセスは二重に暴君として歴史に書き残されることになりました。

出自や即位の経緯の後ろ暗さを隠すためもあり、ダレイオスは善政を敷き、ある程度の中央集権化を進めました。「王の道」と呼ばれる舗装道路を建設し、属州を再編して総督(サトラップ)を監視させ、徴税システムを整えました。首都機能はパサルガダエ、スサ、バビロン、エクバタナなど各地にありましたが、新たな首都としてペルセポリスを建設しています。

前520年、ダレイオスの即位2年目に、バビロニアからユダヤへ第二次帰還団が派遣されました。セシバザルは総督を解任されたか死んだかしてもうおらず、彼の甥にあたるゼルバベルが団長に選ばれます。その名は「バビロンの若枝」という意味で、エホヤキンの3男の子とされますから、年齢的にはセシバザルよりやや若いぐらいでしょうか。彼と共に大祭司ヨシュアが帰還団を主導し、エルサレム神殿の再建に再び取り掛かります。

預言者ハガイとゼカリヤによる助言・警告・激励のもと、第二神殿は前516年春、ダレイオスの統治6年目に完成しました。この年は第二次バビロン捕囚から70年目にあたり、エレミヤ書やゼカリヤ書では「捕囚は70年続く」と事後予言しています。契約の箱はバビロン捕囚の時に失われたため、至聖所には何も置かれず、その前に置かれる六枝七皿の燭台(メノーラー)がユダヤ教の象徴となりました。

しかし、エルサレムの町や城壁は再建されず、ユダヤ民族による自治政府は成立しませんでした。どうも預言者ハガイらによる「ゼルバベルをユダの王にしよう」という動きがあったらしく、ペルシアはこれを問題視して彼をバビロンに呼び戻したのです。彼が殺された様子はなく、子孫も『歴代誌』によれば十世代後まで続いていますが、ユダ王国再建は幻に終わりました。

大祭司ヨシュアはゼルバベルと共に「2本のオリーブの木、2人の油注がれた者(メシア)」と『ゼカリヤ書』4章に記されますが、ゼルバベルがバビロンへ戻った後もエルサレム神殿に残り、祭儀を統括しました。これによりユダヤ人は、ユダの王を戴くことなくユダヤ教徒・エルサレム神殿の氏子となり、供物や金品を毎年納めて贖罪や祝福を祈り、祭司に律法に基づく裁きや冠婚葬祭を司ってもらうことになりました。神殿共同体の形成です。

ユダヤ教の聖職者階級(コーヘン)はレビ族に限られ、アロンの子孫(とされる)ザドク家の者が大祭司として選ばれます。その他の家系・氏族は大祭司に仕える中級・下級祭司や、その下働きとされ、厳格な世襲の身分制度がありました。ユダヤ民族の代表として神に仕えるのですから、最も厳しく律法を守ることが求められ、領地を持たない代わりに「他のユダヤ人の収入の十分の一」を神への捧げもの(神殿税)として受け取るべしと律法にあります。ユダヤ人が増えれば増えるほど収入が増える仕組みです。

聖都再建

記録によればヨシュアの後、子のヨアキム、孫のエリアシブが大祭司となりました。しかしエルサレムの町や城壁は再建されず、神殿の周りに門前町がぽつぽつ形成された程度で、ユダヤ人の大部分はバビロンやエジプトで暮らしていたようです。帰還団に加わったユダヤ人や現地に残っていた人々は、当初の感激も薄れ、貧しい祖国での生活に幻滅します。彼らはエドムやモアブ、アンモン、ペリシテなど異民族と雑婚して援助を乞う有様でした。

この頃、ダレイオスは各地へ大遠征を行っています。まず小アジアから海峡を渡ってトラキア(バルカン半島)へ渡り、黒海沿いに北上してスキタイと戦いました。これは失敗したものの、トラキアやマケドニアはペルシアに服属します。続いてインドへ遠征し、インダス川流域を制圧しました。

前499年、エーゲ海に面した小アジアのイオニア地方で反乱が勃発します。これは前494年までに鎮圧されたものの、アテナイなどギリシア本土の諸国(ポリス)が支援していました。ダレイオスはギリシアを討つべく前492年と前490年に兵を派遣しますが敗北し、前486年にはエジプトでも反乱が勃発します。同年にダレイオスは崩御し、子のクセルクセスが即位しました。

彼はエジプトとバビロンでの反乱を鎮圧すると、前480年に未曾有の大軍を率いてトラキアへ渡り、陸と海の両面からギリシアへ攻めかかります。しかしギリシア諸国の抵抗に手を焼き、前479年に撤退しました。以後ペルシアがギリシアへ遠征することはありませんでしたが、カネをばらまくなど政治的な根回しによってギリシア諸国を対立させる作戦に切り替えました。

なお旧約聖書『エステル記』では、ユダヤ人の娘エステル(ハダッサ)がクセルクセス(アハシュエロス)の妃となり、反ユダヤ政策をとる宰相を処刑させたとしますが、これはヘレニズム時代のおとぎ話です。ヘロドトスはフェニキアやアラビアやパレスチナについては記しているものの、ユダヤには一つも触れていません。よほど小勢力だったのでしょうか。

前465年に即位したペルシア王アルタクセルクセスは、リビア王イナロスに率いられたエジプトでの反乱に直面します。これはアテナイが主導するデロス同盟が支援していました。そこでペルシアはアテナイと対立するスパルタとペロポネソス同盟を支援し、前460年に両者は戦争に突入します。これに乗じてペルシアはエジプトの反乱を鎮圧し、デロス同盟との間に休戦条約を締結して、相互不干渉を約束しました。アテナイの支配者ペリクレスはこの平和を活用し、アテナイに全盛期をもたらしています。

この頃、ネヘミヤというユダヤ人がいました。彼は祖国の都エルサレムの荒廃を聞いて悲しみ、アルタクセルクセスの20年(前445年)にユダヤ総督に任命され、エルサレムの城壁と町を再建しました。エジプトやギリシアのこともあり、帝国の西部に拠点都市を増やしておくのは戦略上でも得策です。ネヘミヤは以後12年間ユダヤを統治し、私財を投じてユダヤ人や異邦人をもてなしました。またユダヤ人と異邦人の婚姻を禁止し、既に結婚していた者は離婚させています。

この時大祭司エリアシブの孫マナセはサマリア人の妻を娶っていましたが、離縁せずサマリアへ去ります。のち彼はゲリジム山に新たな神殿を建立して自ら大祭司となり、モーセ五書を持ち込んで聖典とし、ヤハウェ一神教であるサマリア教団を形成したといいます。彼らは律法を重んじ、モーセ以後は預言者によらず律法のみに基づいて生きよ、という教義を持っていました。

エリアシブの後、ヨイアダ(エホヤダ)、ヨハナン(ヨハネ)、ヤドア(ユダ)らが大祭司の位を受け継ぎました。ペルシアでは前424年にアルタクセルクセスが崩御した後、クセルクセス2世とソグディアノスが短期間在位し、ダレイオス2世が即位します。ギリシアでは前431年からアテナイとスパルタの間でペロポネソス戦争が始まっており、ペルシアはスパルタを支援しています。

この頃、エジプトのナイル上流のエレファンティネ島には、ユダヤ人の傭兵たちが駐屯していました。彼らはバビロン捕囚を逃れてエジプトに来たユダヤ人の子孫で自前の神殿を持ち、ヤハウェ(ヤフー)の他に西セム系の女神アナトを拝んでいましたが、エルサレムの神殿との繋がりもありました。ダレイオス2世の17年(前407年)、反ペルシア派の群衆がこの神殿を襲って焼き討ちしたため、彼らはエルサレム神殿の大祭司及びユダヤ知事、サマリア知事らへ手紙を送って神殿再建のための支援を要請します。大祭司ヨハナンは黙殺しますが、ユダヤ知事バゴアスは許可を出しました。しかし再建から数年後に再度破壊され、エレファンティネのユダヤ人は離散しています。

聖典公布

前404年、ペロポネソス戦争終結と同年にダレイオス2世は崩御し、子のアルタクセルクセス2世が即位します。弟キュロス小キュロス)は小アジアのサルディス総督に任命されていましたが、兄への反乱を目論んでギリシア人の傭兵たちを集めます。まもなくエジプトがペルシアから独立し、キュロスはこれに乗じて挙兵、前401年にはバビロン近郊まで攻め寄せます。幸いにキュロスは戦死したものの、ペルシア帝国は大きく動揺しました。

アルタクセルクセス2世の7年(前398年)、大祭司の一族とされるエズラがユダヤへ派遣され、エルサレムに到着します。彼はバビロンのユダヤ人コミュニティで編纂された聖書(創世記から列王記まで)を公布し、人々にこれを読み聞かせましたが、民はヘブライ語を忘れていたのでアラム語の通訳が内容を翻訳したといいます。西方の混乱に呼応してユダヤ人が独立運動を起こしたり、エジプトの支援を求めたりしないよう指導させたのでしょう。

当時のエルサレム神殿共同体は、貴族や商人と結びついて金権腐敗政治に陥り、律法と祭司と神殿を絶対の権威として民衆を抑圧・搾取していました。エズラはこれを改革すべく、祭司以外の民衆にも聖書を読めるようにし、預言書を肯定したようです。このため当時の正統派(神殿・祭司派)からは疎まれましたが、のちにエズラ派は律法学者・パリサイ派として発展し、現在のユダヤ教の直接的な源流となっていきます。

なお『ネヘミヤ記』と『エズラ記』では、エズラが先に来てネヘミヤが後から来たように記されていますが、これはアルタクセルクセス1世と2世を混同して取り違えたために過ぎません。またネヘミヤ記がエズラ記から分割されたのは15世紀頃で、それまではまとめて『エズラ記』でした。

アルタクセルクセス2世は40年以上もペルシア帝国に君臨し、ペロポネソス戦争の勝者となったスパルタを抑えるため、反スパルタ派を支援しました。在位中のエジプトの回復は成りませんでしたが、次のアルタクセルクセス3世の時に奪還します(前343年)。ペルシアは古代世界における超大国として畏れられ、ユダヤ人はその庇護下で自治を回復し、文化的にも多大なる影響を受けました。しかし、この大帝国も突如として滅亡を迎えたのです。

◆相撲◆

◆花魁◆

【続く】

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