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【つの版】ウマと人類史:中世編29・帝位争奪

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1259年8月、モンゴル帝国皇帝モンケ・カアンは遠征先の重慶で崩御しました。西アジアへ遠征中の弟フレグには遠路ゆえなかなか訃報が伝わりませんでしたが、モンケとともに南宋侵攻を行っていた弟クビライには比較的早く伝わりました。モンゴル高原には末弟アリクブケがおり、帝位継承権を持っていますが実績は乏しい人物でした。ここに帝位継承戦争が勃発します。

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両帝並立

 アリクブケは、チンギス・カンの末子トゥルイと、正妃ソルコクタニ・ベキの間に生まれた末の息子であり、モンケ、クビライ、フレグの同母弟にあたります。中央ユーラシアの騎馬遊牧民の伝統として、正妻の産んだ末子は父親の家産を継承する権利を持ち、長男らは家を出てそれぞれに家庭を築くことになっています。ただ帝国全体をまとめる族長や皇帝は、末子が必ずしも後を継ぐとは限らず、同族の中の年長の最有力者がクリルタイで選ばれて即位するというならわしになっていました。実力のない人物や若すぎる者が帝位につくと、母方の実家(外戚)が権勢を振るうようになるためです。

 チンギスはイェスゲイの長男ですが、彼が9歳の時に父が急死し、末子テムゲは幼すぎたため、やむなく彼が家督を継ぎました。チンギスの末子トゥルイも本来帝位継承権を持ちますが、三兄オゴデイに譲っています。モンケの長男バルトゥは父に先立って逝去し、他の子らもまだ若かったため、今回の帝位継承からは除外されました。フレグは遠くにいてクリルタイに間に合わず、イラン高原以西の広大な領国を保持していますし、クビライはゴビの南で対南宋作戦を引き続き指揮せねばならず、首都カラコルムにおいそれとは帰還できません。必然的に、アリクブケが皇帝となる流れです。

 モンケの子らや家臣らもこぞってアリクブケを支持しており、クビライは有力な候補ではありますが、不利にならざるを得ません。クビライは帰国を焦らず、あえて当初の予定通り南宋との戦いを続け、長江を渡って鄂州(武漢)を攻撃しました。これに先立ってモンゴルの将軍ウリヤンカダイは、雲南からベトナムへ進軍して服属させ、広西・湖南・江西へ侵攻して鄂州を包囲していましたが、南宋軍の司令官・賈似道に攻撃されています。クビライは彼らを救援しに向かったのです。

 クビライは9月にモンケの訃報を受けていましたが、3ヶ月の間鄂州を包囲してウリヤンカダイと連絡をとり、12月末に鄂州を発って本拠地の金蓮川へ急行しました。ウリヤンカダイはバアトル率いる殿軍と合流し、1260年3月に南宋と停戦したのち、船橋を渡って長江の北へ戻りました。賈似道はこの時モンゴルと密約を結んだと噂されましたが、それを払拭するためかモンゴル軍の背後を攻撃し、僅かに兵を殺傷しています。このため南宋とモンゴルは和約を結ばず、ひとまず停戦という形におさまりました。モンゴル軍を撃退した賈似道は救国の英雄と讃えられ、丞相(首相)に任命されています。

 クビライはキタイ(漢地)の総督として諸将を取りまとめ、その上司として恩恵を与え、自らの派閥に取り込みました。特に東方諸王家の筆頭格であるテムゲ家のタガチャルがクビライについたことから、多くの軍団がクビライに従います。そしてクビライはキタイだけの君主とはならず、モンゴル帝国全体の皇帝/カアンとなることを望みました。

 1260年5月5日、クビライは金蓮川の幕府で独自にクリルタイを開催し、皇帝に擁立され、モンゴル高原のアリクブケと対峙します。5月19日には「中統」と建元しました。アリクブケはこの報を聞いて急ぎクリルタイを開き、チャガタイ家・オゴデイ家からも支持を受けて皇帝となりました。ただジョチ家は両方へ使者を派遣し、中立的な立場をとってもいます。

 ここにモンゴル帝国には二人の皇帝が立ち、互いに争い合うこととなりました。これまでにもしばしば後継者争いはありましたが、皇帝が二人同時に即位するなど前代未聞です。ローマ帝国なら東西に分かれて帝国統治を分担するところですが、そうはなりませんでした。ジョチ・ウルスやフレグ・ウルスがほとんど独立政権であるといえど、モンゴル帝国全体の皇帝には宗主として敬意を払い、命令に従わねばならないからです。

帝位争奪

 クビライ側は正統性・正当性にやや欠けるものの、有力な軍事力と豊かな軍需物資を併せ持ち、勝てば官軍ということで戦意も旺盛でした。対するアリクブケ側は、モンケ以来のカラコルムの中央政府に逆らわなかったというだけで戦意に乏しく、兵力も東西への大遠征のため出払っている有様です。かつクビライは華北からカラコルムへの食料品などの輸出を差し止める経済封鎖を行ったため、戦う前から優勢でした。経済を制する者が勝つのです。

 1260年後半、クビライ軍はカラコルムを攻撃して陥落させ、アリクブケは北西のエニセイ川流域へ逃れて再起を図ります。11月には降伏すると偽ってカラコルムへ戻るとこれを奪還し、シムルトゥ・ノールの地にあったクビライの幕営を奇襲しますが、撃退されてしまいました。クビライは焦ることなく経済封鎖を続け、アリクブケはチャガタイ家に食糧支援を求めます。

 チャガタイ家では前君主カラ・フレグの正妃オルガナが当主でしたが(父方はオイラト王家、母はチンギスの娘チチェゲン)、クビライは傍流のアビシュカを、アリクブケはアルグを派遣して当主の座に据えようとします。アビシュカは到着前に殺されますが、アルグはオルガナを妃に迎えて実権を握るやクビライ側に寝返ります。彼はジョチ家が侵入していたマーワラーアンナフルの諸都市を奪還し、アフガニスタン北部にまで進出しました。

 怒ったアリクブケはチャガタイ家の首都アルマリクを攻撃させ、アルグはサマルカンドに退却します。この時チャガタイ家の捕虜たちを殺害したことで、アリクブケはチャガタイ家を敵に回し、追い詰められていきます。

 さて、チャガタイ家は中央アジアを抑えていたため、アリクブケからすればジョチ家とフレグがクビライにつかないよう監視・牽制する役割もありました。それがクビライに寝返ったとなると、帝国西方もクビライ側につき始めることになります。フレグには1260年3月頃にはモンケの訃報がようやく届き、シリアからタブリーズまで撤退していますが、クビライとアリクブケが帝位争奪をしていると聞いて帰還を諦め、フレグ・ウルスを形成します。これには北方のジョチ・ウルスとの対立関係も影響していました。

 1256年、ジョチ家当主バトゥが逝去し、子のサルタクとウラクチも相次いで逝去したため、バトゥの弟ベルケが当主となります。彼は母をスルターン・ハトゥンといい、幼い頃からムスリム(イスラム教徒)として養育されました。モンゴル王族でムスリムとなったことが確認される最初期の人物のひとりです。彼の部下はみなムスリムでした。

 フレグの西征には、ジョチ家からオルダの子クリ、シバンの子バラカン、ボアルの孫トタルなども派遣されていましたが、ベルケはモンケの崩御後の混乱を収拾するため、彼らを呼び戻しています。しかしバラカンは遠征中にフレグを呪詛したため処刑され、クリとトタルも直後に急死します。あるいはバラカンが宴席で急死し、トタルが毒殺だと思いフレグを呪詛して処刑され、クリも急死したともいいます。

 このためジョチ家とフレグの間には深刻な対立関係が生じ、1261年にジョチ家の将兵らがエジプト・マムルーク朝へ亡命しました。スルタンのバイバルスは彼らを歓待し、金品や兵馬を下賜しています。1262年9月、ベルケはトタルの従兄弟ノガイを指揮官とする騎兵3万をカフカースを越えてアゼルバイジャンへ侵攻させ、フレグとの戦争を開始します。

 バイバルスは亡命したジョチ家の将兵らをクリミア経由で帰国させ、ベルケと同盟しました。バイバルス自身がキプチャク出身ですし、ベルケはムスリムなので問題もありません。ここに「ナイル・ヴォルガ同盟」が結ばれ、フレグ・ウルスは北と西南を敵に挟まれる情勢となったのです。モンゴル同士の内戦とはいえ、フレグはバグダードを陥落させカリフを殺害した人物ですから、ムスリムにとっての聖戦ジハードという大義名分はあります。まあキリスト教国ジョージアでの反乱も支援していたようですが。

 こうした状況のため、フレグはチャガタイ家の支援を必要とし、結果的にクビライ側につくことになります。しかしベルケとの戦争は長引き、モンゴル高原に帰ることすらできなくなりました。

李璮之乱

 一方、クビライのお膝元の漢地では、1262年に李璮が反乱を起こしています。彼は山東地方に勢力を築いた軍閥・李全の子で、漢人世侯としてモンケやクビライに仕え、江淮大都督に任命されて南宋との戦いの最前線を担っていました。しかし1261年に東平軍閥の厳氏が罪ありとして解体されると、周辺の漢人軍閥も動揺し、李璮は南宋からの誘いもあって反乱を計画します。彼は人質となっていた息子を脱出させ、1262年2月に南宋へ城市を割譲し、監視役のモンゴル兵を皆殺しにして公然と反旗を翻したのです。

 南宋は彼を保信寧武軍節度使・督視京東河北等路軍馬・斉郡王に任命し、全面的にバックアップします。彼は益都を陥落させると、西隣の済南を奪って拠点としました。クビライはアリクブケとの戦争中ゆえ主力を送れず、周辺の漢人世侯に鎮圧を命じるとともに、スブタイの孫でウリヤンカダイの子アジュ、ジョチ・カサル家の王族カピチらを派遣して監督させました。クビライの軍勢はたちまち反乱軍を撃ち破り、李璮は済南に籠城します。

 4月から5月にかけて、済南は柵と塹壕で幾重にも封鎖され、兵糧攻めを受けます。南宋は救援のため北伐しますが撃退され、7月20日に落城します。李璮は水中へ身を投げますが死ねず、捕虜となって斬刑に処され、反乱は半年ほどで鎮圧されました。しかし鎮圧後は密かに彼に通じていた漢人世侯の存在が続々と明らかになり、クビライは漢地の漢人軍閥解体を計画することになります。クビライの地盤は堅固となり、アリクブケは孤立しました。

 1264年8月、追い詰められたアリクブケは家族やモンケの子らとともにクビライへ降伏しました。クビライは実弟ゆえ処刑せず、モンゴル高原に所領を安堵しますが、二年後にアリクブケは病死します。こうして四年に及んだ帝位争奪戦争は終結し、クビライが唯一のモンゴル帝国皇帝となりました。

 クビライは1265年に改めてクリルタイを開催し、正式に即位しようとしましたが、同年にはチャガタイ家のアルグが、翌年にはフレグとベルケが相次いで逝去し、統一クリルタイ開催は頓挫します。また反クビライ派はオゴデイ家のカイドゥのもとに結集し、中央アジアで自立の動きを強めました。この反乱はクビライの死後も続き、モンゴル帝国の政治的統一は失われていくことになります。

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【続く】

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