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【つの版】度量衡比較・貨幣16

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 宋では多額の軍事費を補うため、大量の銅銭を発行しました。あまりの過剰発行に銅銭の価値は下落し、商品は相対的に値上がりして、「銭荒」と呼ばれるインフレが起きたほどです。こうしてだぶついた銅銭は日本へも流出し、貨幣経済を復活させるに至ったのです。今回は日本における宋銭の流通について見てみましょう。

◆僧◆

◆銭◆

日宋貿易

  遣唐使は894年に正式に廃止され、日本と盛んな国際交流があった渤海国も926年に滅亡しましたが、日本とチャイナの間では民間レベルでの貿易が続いていました。僧侶らは国際的な知識人として交流が許可され、相互に往来・在留しています。両国を結ぶ高麗南部では商船が盛んに行き交い、九州北部の太宰府は外交の窓口として機能しましたが、1019年の刀伊の入寇の頃から太宰府の権能が衰え、取締も緩くなっていきます。

 チャイナからは陶磁器や絹織物、書籍や文具、香料、薬品、絵画、美術品といった文物が輸出され、「唐物」と呼ばれて珍重されました。日本からは銅や金銀・硫黄・水銀などの鉱物、木材が主な輸出品で、のちには刀や扇、螺鈿や蒔絵を施した細工物も輸出されます。またチャイナの船は重し(バラスト)として大量の銭を船底に敷き詰めており、北部九州では民間で銭の使用が普及し始めます。重しにするほど銭が安くなっていたのですから、11世紀に宋銭が大量発行されて以後のことでしょう。

 宋は市舶司という官職を設置して対外貿易を奨励し、日本・高麗・南シナ海諸国と盛んに交易を行いました。日本にも多くの商人や僧侶が渡来し、銭を使っていたのです。特に筑前の博多や薩摩の坊津、越前の敦賀には宋人が大勢やって来ました。彼らの先進文明は日本に大きな影響を与えます。

 宋はマンチュリアに勃興した女真族の金国と手を結び、宿敵・契丹/遼朝を1125年に滅ぼしますが、金との間でもいざこざが絶えず、1126年には華北と首都開封を征服されて滅亡しました。残党は長江の南へ逃れ、浙江省杭州市に臨時の都・臨安を置いて南宋となります。この急激な変化は、日宋貿易にも影響を及ぼしました。南宋は華北奪還のため友好国を求めますし、木材や銅などの資源も国土が半分になったため足りず、日本との交易を強化したのです。金は内陸国で海外貿易は盛んでなく、南宋や高麗を脅してカネを巻き上げるにとどまっていました。

 これに目をつけたのが、伊勢平氏出身の平忠盛たいらの・ただもりです。彼は白河院・鳥羽院に仕えて出世し、1120年には越前守、1127年には備前守、1129年には山陽道・南海道の海賊追討使に任命されます。いずれも日宋貿易の重要拠点です。また彼は肥前国神埼(佐賀県神埼市)に荘園を与えられ、1133年に宋人・周新の船が来航すると、院宣と称して荘園内での大宰府の臨検を排除しようとしてさえいます。1135年には瀬戸内海の海賊集団を討伐して手下に加え、貿易路を掌握して莫大な財力を蓄えました。

平氏政権

 1153年に忠盛が逝去すると、子の清盛が跡を継ぎます。彼は1156年に後白河天皇と崇徳上皇の間に起きた保元の乱において後白河方につき、これを勝利に導きました。この功績により、清盛は大宰大弐(太宰府副官)に任命されていますが、赴任はしていません。1160年に後白河政権の下での勢力争いである平治の乱が勃発すると、清盛はこれに乗じて対立する源義朝らを打倒し、武士の第一人者として軍事と経済の実権を握ります。

 平氏政権の経済的基盤は、日宋貿易と宋銭でした。1166年に大宰大弐となった弟の頼盛は、慣例を破って実際に太宰府へ赴任しています。清盛は1167年に太政大臣まで上り詰め、子の重盛に東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討の宣旨を下させたのち政界を引退、翌年出家して浄海と号し、摂津国福原(現兵庫県神戸市)に移ります。

 ここは大輪田泊おおわだのとまりという人工の港を持つ彼の別荘で、宋の商船や後白河法皇がしばしば訪れ、舶来品を売買しています。宋船は博多・瀬戸内海を経由して福原に至るようになりました。宋朝は「僧侶」である清盛と後白河法皇へ「明州(寧波)知州から」として書簡を贈り、朝貢貿易ではないながらも公的な貿易を許可しました。こうして宋銭が日本へ大量に流入するようになり、双方WIN-WIN関係となったのです。

 しかし、急激な経済の活性化は社会を不安定にしました。日本の朝廷や太宰府・国衙は各地における物品の価格を法律で定め(估価法)、市場経済を統制していましたが、宋銭や舶来品の流入は市場経済を混乱させたのです。清盛ら平家の台頭を嫌った後白河法皇や貴族らも銅銭使用に反対しました。これに対し、清盛は反対派を次々と粛清します。

 1179年、法皇らは「宋銭は本朝で発行された銭ではない」「宋銭のせいで疫病(麻疹)が流行している」として流通停止を提案しますが、清盛の反対に遭います。同年に清盛の娘・盛子と息子・重盛が相次いで病死すると、法皇は彼らの荘園や所領を没収し、摂関家嫡流の跡継ぎも勝手に決めました。怒った清盛は11月にクーデターを起こし、反平氏派を全て解任、後白河法皇を幽閉します。1180年には清盛の娘の子・言仁親王が3歳で即位し(安徳天皇)、清盛が実権を掌握しました。

 この暴挙に対し、全国各地で反平氏の勢力が挙兵します。清盛は武力でこれを鎮圧させつつ、後白河・高倉の両院と安徳天皇を自らの本拠地である福原へ行幸させ、ここに都を遷そうと計画しますが、1181年に病死しました。1183年に源義仲が上洛すると、平氏らは安徳天皇と三種の神器を擁して西国へ逃げ、大宰府に到着します。やがて瀬戸内海の要衝であった屋島(香川県高松市)まで戻り、ここに行宮(仮の御所)を作りました。

 義仲は福原を焼き払いますが、後白河法皇および東国の源頼朝と対立し、1184年に頼朝が派遣した範頼と義経の軍勢に敗れて戦死します。平氏はこの隙に福原まで勢力を回復しますが、後白河法皇は頼朝に三種の神器の奪還と平氏討伐を命令。同年一ノ谷の戦いで平氏は福原を失います。さらに1185年には山陽道・西海道(九州)を先んじて制圧され、屋島の戦いに敗れて瀬戸内海を西へ向かい、長門国彦島(下関)にまで追い詰められた末、壇ノ浦の戦いで滅亡するのです。

 平氏政権を滅ぼして鎌倉幕府が成立すると、反平氏派により宋銭の流通停止が決定されます。しかしもはや宋銭なしでは商売が成り立たず、最終的には宋銭の流通が許可されます。また南宋との正式な国交は結ばれなかったものの、民間貿易は相変わらず盛んで、幕府は博多に鎮西奉行を派遣して貿易を管轄させました。「御分唐船」なる幕府直営の船も存在したようです。

 1199年、南宋は銅銭不足となり、日本への銅銭輸出は禁止されました。しかし日本ではそのまま宋銭が使われ続け、銭の密貿易も盛んでした。南宋で発行された銭よりも、唐や北宋で発行された古い銭の方が多く輸出されていたようです。また華北を制圧した金では銅銭の使用が禁止されたため、多くの銭が日本へ流入しました。1230年頃には銭1貫が米1石に当たり、熟練職人の労賃は1日100文といいます。

 モンゴル帝国が金と南宋を滅ぼし、日本に遠征軍を送り込むようになっても、チャイナと日本との民間貿易は続きました。しかしモンゴル/大元は日本を敵視していたため、多くは密貿易という形になります。またモンゴルでは銅銭も流通したものの、長らくイスラム世界の基軸通貨であったが導入され、紙幣もこの頃に広く流通し始めます。次回はそれらを見ていきます。

◆紙◆

◆嘘◆

【続く】

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