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【つの版】ウマと人類史:中世編34・日本遠征04

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 南宋を平定したモンゴル皇帝クビライは、1281年(至元18年、日本の弘安4年)第二回日本遠征を行います。遠征軍にはモンゴル人、漢人、女真人、高麗人の他、多数の南宋人が加えられ、未曾有の大軍となりました。果たしてどのような戦いとなるのでしょうか。

◆嵐◆

◆嵐◆

志賀島戦

 遠征軍は、高麗から対馬を経て侵攻する東路軍と、杭州湾の寧波や舟山群島から東シナ海を横断する江南軍に分けられました。東路軍は号して4万(うち高麗軍1万弱)、軍船は前回と同じ900艘でしたが、江南軍は旧南宋軍を主力として10万人・軍船3500艘、合計14万人・4400艘の大軍勢です(水夫等は除く)。平均すると東路軍は1艘あたり44人、江南軍は28人ほどですが、大小様々な軍船があったでしょう。阿剌罕伝には40万とかありますが、流石に誇張が過ぎます。

 両軍は陰暦6月15日までに壱岐で合流し、ともに大宰府を攻める計画を立てており、まず東路軍が陰暦5月3日に合浦を出航しました。前回は北風の吹く陰暦10月でしたが、今回は南風の吹く真夏の遠征です。率いるのは前回と同じく忻都・洪茶丘・金方慶らで、劉復亨は前回の敗戦の責任もあり参戦していません(1278年に太平路総管・鎮国上将軍・淮西道宣慰使都元帥となってはいます)。高麗国王は彼らを見送り、補給路を確保しました。

 5月21日、東路軍は対馬東岸の世界村大明浦(上県郡佐賀村の大明神浦、現対馬市峰町佐賀)に上陸しました。前回は出航から2日で対馬南西の小茂田浜に上陸しましたが、日本軍は沿岸部に防備を固めて上陸を阻み、出航から上陸まで18日もかかったようです。また上陸した東路軍には武士団が襲いかかり、激しい抵抗を受けて死傷者が出ました。東路軍は対馬を再占領したのち壱岐へ向かいますが、途中で暴風雨に遭遇し、兵士113人、水夫36人が行方不明になっています。5月26日、壱岐の忽魯勿塔(くるもと、現壱岐市勝本町浦海付近)に上陸し、壱岐を占領します。

 東路軍は、捕らえた対馬の島民から「大宰府の西60里にいた日本軍が襲来に備えて移動した」との情報を得、江南軍を待たずして大宰府の西へ上陸する計画を立てました。クビライからも「遠征のことは諸将が自己判断せよ」とお墨付きを頂いていますから、状況判断により臨機応変です。しかし博多湾沿岸には前述の「石築地」なる防壁が20kmに渡って築かれており、浜には逆茂木さかもぎや乱杭が刺されて上陸を阻み、戦意に満ち溢れた武士団がずらりと揃って迎撃準備をしていました。

 6月6日、東路軍は博多湾北部の陸繋島・志賀島に上陸し、これを占領して停泊地としました。日本軍はこれに夜襲をかけ、東路軍も応戦します。日本軍は夜が明けると去っていきました。6月8日から9日にかけて、日本軍は海陸両面から志賀島へ総攻撃を開始します。東路軍は激しく応戦して被害を与えたものの、抗しきれずに敗走しました。洪茶丘は危うく戦死するところでしたが、味方の支援でなんとか逃げ延びます。伊予の河野通有、肥後の竹崎季長、肥前の福田兼重・兼光らも船で軍船に押し入って大暴れします。勢いに押された東路軍はついに志賀島を捨て、壱岐まで撤退しました。

 やがて江南軍との合流期限である6月15日が来ますが、江南軍はまだ出航しておらず、待てど暮らせど現れません。しかも時は陰暦6月半ば、太陽暦では7月半ばから下旬の真夏で、壱岐の東路軍の間には疫病が蔓延し、3000人もの死者が出る有様でした。兵糧もあと1ヶ月ぶんしか残っておらず、このまま遠征を継続するのは困難でしたが、将軍たちは議論を重ねた末、ひとまず江南軍の到来を待つことにしました。この頃、東路軍の一部は長門国(山口県)にも現れたことが報告されています。

平戸上陸

 江南軍の出発が遅れたのは、出発直前に総司令官の征東(日本)行省左丞相・阿剌罕アラカンが急病で倒れ、亡くなっていたからでした。このため急遽スルドス部のモンゴル人阿塔海アタカイが引き継ぎますが、実際に兵を率いたのは右丞相の范文虎で、阿塔海は出航しなかったようです。

 こうしたゴタゴタで出発は大幅に遅れ、陰暦6月18日頃になりました。出発地点は慶元(寧波)や定海(舟山)で、目指すは壱岐ではなく平戸島になりました。これは嵐で漂着した日本人の船頭に地図を描かせたところ、平戸島が大宰府に近く、周囲が海で囲まれていて軍船を停泊させるのによく、かつ日本軍が防備を固めていないとの情報を掴んでいたためです。寧波から平戸まで直線距離で800kmほど、途中に済州島や五島列島もあります。

 まず江南軍は先遣隊を派遣し、壱岐の東路軍へ平戸島での合流を連絡させます。ついで6月下旬、本隊が出発し、七日七夜をかけて平戸島に到達しました。1日100kmあまり、時速4-5kmです。江南軍は先遣隊から順々に上陸して陣地や防塁を築き、船を停泊させました。この報を得て壱岐の東路軍は喜びますが、日本軍は合流させてはならじと危機感を強めます。

 6月29日、日本軍は壱岐の東路軍に対して総攻撃を開始します。主力は肥前の武士団である松浦党や龍造寺氏などで、文永の役の時に蹂躙された雪辱を果たさんと気合いをいれます。7月2日に壱岐北東部の瀬戸浦に上陸した日本軍は東路軍と激戦を展開し、かなりの被害を出しつつも撃退することに成功、壱岐を奪還しました。東路軍は猛暑と疫病で弱っており、かつ平戸という逃げ道があったため浮足立っていたのでしょうが、総崩れとはならずに迎撃しつつ撤退したのは大したものです。

鷹島大風

 平戸の江南軍は、守備隊4000を残して東方へ移動し、伊万里湾の出入口を塞ぐ鷹島に向かいます。壱岐から脱出した東路軍も鷹島沖で合流しますが、7月27日には日本軍と鷹島沖で戦闘になります。この戦闘は日中から夜明けまで続き、日本軍が引き揚げていくと、モンゴル軍はようやく鷹島に上陸しました。しかし潮の満ち引きが激しくて軍船が動かしにくく、一部が上陸して陣地を設営するとともに、船同士を縛って砦となし、日本軍の襲撃に備えています。これが命取りとなりました。

 陰暦7月30日から翌日(閏7月1日、太陽暦8月末から9月頃)にかけて、颶風(颱風/台風)が北部九州を襲いました。鷹島に停泊していたモンゴル艦隊は、これにより大損害を被ります。歴史上名高い「神風」です。文永の役の時はモンゴル軍が撤退時に北風へ向かったことにより被害が出ただけでしたが、今回は現在も毎年日本列島を襲う台風そのものです。これが実際に起きたことは、多くの史料や海中に沈没した当時の艦船からも明らかです。

今年七月、大元賊徒、自宋朝高麗數千艘船寄來、數日漂對馬海上而後群集肥前國鷹島之處、同卅日夜、閏七月一日大風、賊船悉漂倒、死者不知幾千萬。(鎌倉年代記裏書)
忻都、洪茶丘、范文虎、李庭、金方慶諸軍、船為風濤所激、大失利(元史・世祖本紀)官軍六月入海、七月至平壺島、移五龍山。八月一日、風破舟。(同・日本伝)八月一日夜半、颶風大作、波濤如山。震撼撃撞、舟壞且盡。軍士號呼、溺死海中如麻。(元故贈長葛県君張氏墓誌銘)夜半忽大風暴作、諸船皆撃撞而碎、四千餘舟所存二百而巳。全軍十五萬人、歸者不能五之一、凡棄糧五十萬石、衣甲器械稱是。是夕之風、木大數圍者皆拔、或中折。葢天意也。(癸辛雑識続集)晦日大風雨作、雹大如拳、船為大浪掀播沈壊、韃軍半没於海。(鄭思肖・元韃攻日本敗北歌)

 江南軍の司令官である范文虎や李庭は船が沈没し、木片にしがみついて岸までたどり着く有様で、洪茶丘の部下で高麗王族の王雍(アラテムル)は溺死しました。多くの将兵も船が破壊されて漂流・沈没しましたが、艦船同士の距離を空けて停泊させていた平戸島の江南軍は被害が少なく、東路軍の損害も軽微でした。これは東路軍が用いた高麗船が、江南軍の用いた南宋船より堅固であったことによるといい、同時代史料にもそう書かれています。実際鷹島沖海底から発見された軍船の遺物は南宋のものがほとんどで、高麗人が造船を手抜きしたから被害が大きかったわけではありません。高麗南部も台風は毎年来ますし、水夫らもそれに対する備えはできていたはずです。

 閏7月5日、范文虎らは協議の末に撤退を選択し、残った軍船に乗り込んで引き揚げ始めます。同日夕刻、日本軍は伊万里湾上御厨沖の敵軍に総攻撃を行い、軍船に飛び移って奮戦します。范文虎ら主な将軍は急いで脱出し、鷹島の防塁には兵士10余万人が取り残されました。閏7月7日、日本軍は鷹島へ上陸し、海上でも逃げ遅れた軍船への襲撃を続けます。激戦の末モンゴル軍10余万人は壊滅し、2万から3万人が捕虜となって生き残ったといい、それゆえここを名付けて白骨山と呼んだといいます。流石に誇張ではないかと思いますが、双方に相当数の死傷者が出たことは確かでしょう。

 日本軍はモンゴル人・高麗人・漢人(華北/キタイ人)の捕虜を殺戮したものの、旧南宋人は助命して奴隷にしたとも、職工や農事の知識を持つ者は生かしておいたともいいます。彼らは八角島(博多)に連行され、監視下に置かれました。遠征軍のうち帰還できたのは1割だけとも4割ともいい、14万のうち4割としても5.6万人で、8.4万人が死ぬか捕虜になるという惨敗でした。高麗兵は比較的被害が少なく、大部分は旧南宋の江南兵で、もともと戦意に乏しかったのでしょう。

戦後混乱

 敗戦の報を聞いてクビライは怒りましたが、流石に反省し、翌1282年正月に征東(日本)行省を廃止します。忻都・洪茶丘・金方慶や范文虎ら遠征軍の諸将も厳しく罰されることはなく、兵卒を救助した将軍らは功績により褒賞されました。1280年には息子の安西王マンガラが、1281年2月には長年夫を支えた皇后チャブイが亡くなっており、がっくりきていたのでしょう。

 そのチャブイに仕えて出世していたのが、中央アジアのファナーカト/バナーカト出身のムスリム商人アフマドでした。彼はクビライから信任されて宰相級の財務長官に抜擢され、西方式の徴税請負人制度を導入して、漢地から莫大な税収を搾取しました(請負人は集めた税金の一部を獲得できます)。さらに江南が征服されると徴税網を広げて、さらなるカネをもたらします。アフマドはクビライとチャブイの恩顧のもと20年にも渡って権勢を振るい、息子たちや一族、縁故のある者たちを高位高官につけました。カネのパワーは偉大ですが、アコギな商売をやりすぎて敵も多く、反感を買っています。

 特にアフマド派と対立していたのが、中央最高行政機関・中書省を統括する皇太子チンキムと宰相アントン、その部下の漢人官僚たちでした。アフマド派は財政を握っていますから、中書省のやること為すことにケチをつけ、カネが欲しくば賄賂を贈れと露骨に介入してきます。アフマドの後ろ盾のチャブイが亡くなると、チンキム派はアフマド派に反撃を開始し、1282年3月に彼を暗殺(撲殺)します。チンキムはアフマドの不正や悪行を公表し、怒ったクビライはアフマドの屍を大都の門に吊るして見せしめとし、彼の一派を処刑・処罰しました。こうしてチンキム派が政権を掌握します。

 同年にはシリギの乱も平定され、末子ノムガンも帰還します。クビライはもう66歳の老齢で、チンキム派は先走ってクビライに譲位を進言するほどでしたが、ムカついたクビライはしつこく日本遠征を計画します。隋の煬帝や唐の太宗が高句麗をしつこく攻めたように、国内外へ威信を示し緊張状態を保っておかねば、いつ何時クーデターで政権が転覆するかわかりません。煬帝はやり過ぎて国そのものが転覆しましたが、いまや老いたクビライも同じ轍を踏もうとしていました。危険な状態です。

 1282年7月、高麗国王はよせばいいのにクビライを焚き付け、「150艘の軍船を建造して日本侵攻を助けます」と上奏しました。9月、クビライは高麗や耽羅、江南各地に大小合計3000艘もの軍船建造を命令しました。この勅命により、山々は禿げ山となり、寺院や墳墓の樹木も伐採され、新たな寺院の建立も中止になったといいます。また民間からは商用の船舶が徴発され、人民は大いに苦しみました。クビライは最晩年に至るまで日本遠征を諦めず、軍船をしばしば築造させましたが、結局第三回遠征は行われませんでした。

南方遠征

 この頃、クビライは南にも出兵しています。当時のベトナムは北の大越、南の占城(チャンパ)という二つの国に分かれていました。チャンパは2世紀末からの独立国でしたが、北部は長く南朝や唐の支配下にあり、939年に南漢(五代十国の一)から独立しました。呉朝/南晋、丁朝・黎朝の大瞿越、李朝大越を経て、1225年からは陳朝大越となり、皇帝を称しています。

 雲南を平定したモンゴル帝国は、1257年から大越へ使者を派遣し服属を求めましたが、使者が投獄されると侵略して首都の昇竜(ハノイ)を掠奪します。恐れた大越はモンゴルに服属し、1262年からは三年に一度貢納することを約束しました。しかし1267年、クビライはさらなる服属を要求し、兵力・租税・戸籍簿・人質を差し出し、国王自ら来朝し、代官の駐屯を受け入れよと命じました。高麗と同じく、遠征に成功すれば「モンゴルの仲間」として分け前にあずかれるシステムですが、大越はこれを拒みました。

 クビライは南宋攻略を優先し、大越には睨みをきかせて牽制するにとどめましたが、南宋が滅ぶとさらに南へ目を向けます。まずは大越の西、雲南と接するビルマ/ミャンマーのパガン朝が標的となりました。ここを平定すればベンガル湾・インド洋に交易路が通じます。パガン朝の王ナラティーハパテは1271年と1273年に送られたモンゴルの使者を処刑し、モンゴルに服属したタイ系諸族を攻撃したため、1277年に報復のため侵攻されます。ビルマ王は戦象を率いて迎え撃ちますが、モンゴル軍は象を恐れて動けぬ馬を降りて矢を浴びせかけ、見事に敗走させました。しかし現地の猛暑と疫病にやられて撤退し、土産に戦象を大都まで連れ帰ったといいます。

 1282年11月、クビライは海路でチャンパ王国へ兵を派遣し、これが失敗すると「陸路を借りる」と称して大越へも侵攻しました。王族の陳国峻(陳興道)は断固拒絶して防御を固め、クビライは日本遠征と並行して、両国への出兵を計画します。周辺諸国へも使者を派遣し、タイのスコータイ朝、ラオスのラーンナー朝とは友好関係を結ぶことに成功しました。1283年にはビルマの首都を陥落させ、1287年にようやく服属させています。

 1284年には庶子のトガンを鎮南王に封じ、大越とチャンパを征服するよう命じます。モンゴルと大越・チャンパとの戦争は1285年に始まり、モンゴル軍の一部はクメール朝の都アンコール・トムを襲い、クメール朝を服属させています。陳興道らはベトナム戦争よろしくジャングルに潜んで焦土作戦とゲリラ戦を展開し、モンゴル軍を苦しめました。1288年には撤退中のモンゴル軍を白藤江で襲撃して大打撃を与えています。

 大越はチャンパと手を組みつつ、モンゴルに使者を派遣して臣従し、戦争を避けようと努力してもいます。対馬・壱岐と北部九州沿岸部だけが戦場となった日本に対し、首都を捨ててゲリラ戦で戦った大越とチャンパは全土が戦場と化し、勝ったとはいえダメージも大きかったのです。クビライはしつこく遠征をもくろみますが、江南では圧政に苦しむ民による反乱が頻発し、1285年には皇太子チンキムが急逝し、1286年より遼東でモンゴル王族らによる反乱も勃発します。クビライは圧政のつけを支払うことになります。

◆越◆

◆南◆

【続く】

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