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【つの版】度量衡比較・貨幣55

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1510年、ポルトガルのインド副王アルブケルケはゴアを占領し、翌年にはマラッカを占領して、インド洋の東西を制圧します。1488年にアフリカ大陸南端にポルトガル人が到達してから僅か22年後のことです。この頃、スペインはどうしていたのでしょうか。

◆石◆

◆海◆

政略結婚

 アフリカとアジアの貿易がポルトガルに独占された以上、スペイン(アラゴン・カスティーリャ連合王国)は地中海と、大西洋の彼方の「新大陸」に進出するほかありません。トラスタマラ家のアラゴン王フェルナンド2世は父からの相続でシチリア王も兼ねていますから、オスマン帝国やマムルーク朝、北アフリカのイスラム勢力から教皇とイタリアを守る役割もあります。

 彼は1469年にカスティーリャ王女イサベルと結婚しており、1474年に彼女が女王として即位したため、アラゴンとカスティーリャは連合王国ヒスパニア(スペイン)となりました。二人の間にはイサベルフアナマリアカタリーナという四人の娘と、唯一の男子フアンが生まれます。1490年、長女イサベルはポルトガル王太子アフォンソに嫁ぎますが、彼は翌年事故死し、悲しんだイサベルは実家に戻りました。

 フェルナンドは南のグラナダ王国を征服したのち、敵国フランスをピレネー山脈の北へ追いやりますが、フランス王シャルル8世はナポリ王位を狙って1494年にイタリアへ侵攻します。これはナポリ王・ミラノ公・教皇と、フィレンツェの僭主メディチ家の代替わりが重なったためでした。スペイン出身の教皇アレクサンデル6世は、ヴェネツィア・スペイン・神聖ローマ帝国などと結託して、なんとかフランス軍を撃退します。

 フェルナンドはフランスを封じ込めるため諸国との同盟を強化し、1496年にハプスブルク家の神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の子・ブルゴーニュ公フィリップに娘フアナを娶らせます。翌年にはマクシミリアンの娘マルグリットを長男フアンの妃に迎え、長女イサベルをポルトガル王マヌエルと再婚させます。マクシミリアンはブルゴーニュ公領を巡ってフランスと争っていましたから、同盟相手としてはもってこいです。

 しかし同年に唯一の跡継ぎフアンが病死し、マルグリットは男児を懐妊していましたが死産してしまいます。長女イサベルも翌年産褥死したうえ、彼女が産んだ男児ミゲルも2歳を迎える前に病死します。フェルナンドはやむなく三女マリアをポルトガル王マヌエルに、四女カタリーナを英国王太子アーサーに嫁がせますが、アーサーも結婚の翌年(1502年)病死します。あまりにフランスに都合がいいので暗殺かとも疑われますが、王侯とはいえ乳幼児死亡率も死産や産褥死率も高い時代ですから、真相は定かでありません。

老獪摂政

 1504年11月、カスティーリャ女王イサベルが亡くなります。遺言によってフアナが女王に即位し、フェルナンドはカスティーリャ摂政となりますが、フアナの夫フィリップも王位を要求したため、1505年にフランスの王族ジェルメーヌ・ド・フォワを娶って跡継ぎを儲けようとします。フィリップは反発し、フアナを連れて1506年にカスティーリャへ向かおうとしますが、途中で嵐に見舞われ英国に漂着します。英国王ヘンリー7世は彼らを歓迎し、ハプスブルク家と同盟を結んで、互いの子女の婚約を取り決めました。

 カスティーリャに到着したフィリップとフアナは、フェルナンドに出迎えられます。老獪なフェルナンドは内戦を避けるためフアナの王位継承権を認め、フィリップを摂政に就任させ、両者をネーデルラント(ブルゴーニュ公領)に帰国させて実権を握ろうとしますが、フィリップはカスティーリャ王を自称して帰国しませんでした。かくて1506年9月、フィリップは「冷水にあたり」急死します。フアナは「夫の死で気が狂った」として1508年に父フェルナンドによって幽閉され、フェルナンドがカスティーリャ摂政に復帰してスペインの実権を握ります。コロンブスが死去したのはこの頃です。

 フェルナンドの再婚相手ジェルメーヌとの間には1509年に男児が生まれますが夭折し、以後子供は生まれませんでした。一方で英国王太子アーサーの未亡人であった娘カタリーナ(キャサリン)を支援し、1509年に即位した英国王ヘンリー8世と再婚させています。また1511年には対仏同盟に参加し、翌年にはピレネー山脈西部のナバラ王国を攻撃、1515年には併合しました。ポルトガルがアフリカやアジアに植民地を築いていた頃、スペインは欧州諸国と手を結び、大国として充分な勢力を築き上げていたのです。

 スペイン、神聖ローマ帝国、フランスはイタリアを巡って争いを続けていましたが、ミラノやヴェネツィアを巡って対仏同盟に亀裂が生じ、ヴェネツィアと英国がフランスと講和して同盟から離脱します。1515年にはフランス王ルイ12世が、1516年にはアラゴン王フェルナンドが亡くなり、神聖ローマ皇帝もやむなくフランスと講和しました。フェルナンドは跡継ぎとしてフアナとフィリップの息子であるブルゴーニュ公カール(カルロス)を指名しており、スペインはハプスブルク家の国王を戴く単一の国家となります。

 1519年に皇帝マクシミリアンが崩御すると、カールはハプスブルク家の当主の位を継承し、神聖ローマ皇帝に即位します。この頃、大西洋の彼方ではスペイン人入植者たちが異なる文明と遭遇していました。

文明遭遇

 1511年、かつてコロンブスの航海にも参加したスペイン人ディエゴ・ベラスケス・デ・クエリャルは、イスパニョーラ島の植民地から西のフアナ島(キューバ)へ遠征し、島を征服したと称して初代総督に任命されます。彼は1514年にサンティアーゴ・デ・クーバやサン・クリストーバル・デ・ラ・アバーナ(ハバナ)などの入植地を建設し、黒人奴隷の輸入を認可して労働力にあてました。彼の部下がエルナン・コルテスです。

 また1513年9月、バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアは先住民の案内でパナマ地峡を横断し、ヨーロッパ人として初めて太平洋(彼は「南の海」と呼びましたが)に到達しました。バルボアは先住民から「南の彼方に黄金郷がある」との噂を聞きつけましたが、そこへ到達できずに帰還しました。この時バルボアに同行したのがフランシスコ・ピサロです。

 同年4月にはフアン・ポンセ・デ・レオンがキューバ島の北に陸地を発見し、ラ・パスカ・フロリダ(花の復活祭)と名付けました。現在のフロリダ半島ですが、彼以前にもスペイン人がいくらか来ていたようです。

 さらに1517年には、フランシスコ・エルナンデス・デ・コルドバがキューバから西へ探検航海を行い、ユカタン半島を発見しました。彼はカンクン沖のイスラ・ムヘーレス(女人の島)、半島北東端のカトチェ岬に上陸したのち、陸沿いに航行して半島西側のカンペチェおよびチャンポトン(チャカンプトゥン)に到達します。これらの地には後期マヤ文明の担い手のひとつであるプトゥン人(チョンタル人)がおり、海岸や河川沿いにカヌーによって交易網を築いていました。

 スペイン人たちはチャンポトンで多数の先住民と遭遇し、水場を巡って争いになり、多くの死傷者を出して逃げ出しました。デ・コルドバはどうにかキューバ島へ戻って報告したものの、負傷がもとで死亡し、翌年にフアン・デ・グリハルバがキューバから探索に派遣されています。

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 グリハルバはユカタン半島の東に浮かぶコスメル島と、プトゥン人の港湾都市トゥルムを発見しました。ヨーロッパ人はついに先住民によって建設された都市文明と出会ったのです。さらにカンペチェやチャンポトンに艦砲射撃を行って威嚇したのち、ユカタン半島の付け根に川を発見してグリハルバ川と名付けました。彼は西のパヌコ川の河口まで航行したのち同年に引き返しましたが、途中で先住民から「西方に黄金に富んだ王国がある」と聞きつけ、キューバ総督に報告しています。これこそアステカ帝国です。スペイン人はこの報告を聞いて湧き立ち、西方への遠征を開始しました。

◆族◆

◆長◆

【続く】

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