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【つの版】倭国から日本へ22・狂心の渠

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

唐は東突厥・薛延陀を倒して服属させ、新羅を属国とし、倭国とも友好関係を結びます。新羅を敵視する高句麗と百済は国際的に孤立を深めますが、倭国は百済・高句麗との関係を断ち切ったわけではなく、百済系の渡来帰化人も百済王族の人質も大勢います。各国内部でも親唐派と反唐派の対立が激化し、クーデターが起きるなど社会不安が高まります。どうなるのでしょう。

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遣唐使船沈没

孝徳天皇の白雉3年(652年)は、班田収授法や戸籍の制定という後付の話を除けば、天皇が難波の大郡宮へ移動したのち戻ったこと、僧侶に内裏で『無量寿経』を説かしめたこと、大雨が続いて洪水が起きたこと、新羅・百済が朝貢したこと、難波宮の造営が9月に終わったこと、大晦日に天下の僧尼を内裏に招いて斎会を催したことを伝えています。

この年、新羅では真徳女王が薨去し、金春秋が即位しました(武烈王)。『三国史記』では2年遅らせ、654年のこととしています。

(永徽)三年、真德卒、為舉哀。詔以春秋嗣、立為新羅王。加授開府儀同三司、封樂浪郡王。(旧唐書東夷伝新羅条)

白雉4年(653年)5月、唐へ使者を派遣しました。日本書紀では630年に続く第二次ですが、実際は648年、650年に続く第四次(ないし第三次)遣唐使です。留学生・学問僧ら総勢240人を2つの船に120人ずつ分けて載せ、各々の船に吉士長丹と高田首根麻呂を大使として出発させます。しかし2隻の遣唐使船は7月に薩南諸島の竹島の北で衝突事故を起こし、高田は船が沈没して死亡します。120人のうち生存者は板にしがみついて竹島に漂着した門部金(かどべの・かね)ら5人だけでした。彼らは竹で筏を作ると、6日6夜何も食べずに漕ぎ続け、120km北西の神島(上甑島)で救助され、事態を報告しています。

この遣唐使船は、北部九州から新羅か百済を経由して山東半島に渡るという通常のルートではなく、薩摩半島の南を通り東シナ海を横断してチャイナ南部を目指すという危険なルートをとっていたのです。百済は高句麗と同盟していて反唐派ですし、新羅から山東半島に向かおうにも、ソウルなど漢江下流域は高句麗との国境で危険です。耽羅(済州島)は百済の属国です。こうなると、もはやこのルートしか残されていません。こうして遣唐使船1隻は沈没したものの、もう1隻はどうにか唐へ到達しました。この頃国政顧問の旻法師が病没し、国葬が執り行われています。

太子東遷

この年、皇太子の中大兄は「倭京(やまとのみやこ、飛鳥)に遷りたい」と奏上します。天皇は許しませんでしたが、太子は母(皇極上皇・皇祖母尊)及び同母妹の間人皇后(孝徳天皇の皇后)、同母弟の大海人皇子らを率いて難波宮を立ち去り、飛鳥河辺行宮に遷ってしまいます。公卿・大夫・百官もこれに付き従い、天皇は難波宮にぽつんと残されました。

どうも天皇と太子(あるいは皇極)との間で政治的な意見の対立が起こり、後者が分離して飛鳥へ移動したようです。この時期であれば唐・新羅につくか百済・高句麗につくかの対立でしょうか。『日本書紀』は太子派の子孫が書かせた史書ですから誇張はあるでしょうが、クーデターに近いかなりの異常事態です。天皇は恨んで退位しようと思い、山琦(京都府大山崎町、天王山の麓)に宮を造ったといいますが、兵を動かして西と北から奈良盆地へ攻め込もうとしたのを暗示しているのかも知れません。

また、これは皇極の意志だともいいます。前回の在位が4年しかなく蘇我入鹿の言いなりで、退位後も権威はあったものの孝徳や太子らがおり、自分の思うままに振る舞いたくて癇癪を起こしたというのです。それなら太子らが遷らず皇極だけ飛鳥で隠居させればよさそうですが、そうならなかったのはやはりなにか政治対立があったものと思われます。

白雉5年(654年)元日の夜、鼠が(難波宮から)倭京へ向かって走り去りました。あからさまに「鼠までも天皇を見捨てた」というしるしです。鎌足はこの時に紫冠を授かり増封されていますが、天皇が行ったのか太子が行ったのか、実際に行われたのかも定かでありません。

新羅路遣唐使

2月、高向玄理を押使(すべつかい、大使より上の使者)、河辺麻呂を大使とする新たな遣唐使が編成されます。前回と同じく2隻に分乗しますが、薩摩経由はやはり危険だということで新羅を経由し、数ヶ月かけて莱州(山東省煙台市)に無事到着します。彼らは唐都長安に至り、高宗に拝謁します。

唐の東宮監門である郭丈挙は詳しく「日本国(倭国)」の地理と国初の神の名などを尋ね、みな問いに対して答えたといいますが、地理はともかく国初の神はこの頃どう語られていたのでしょう。

しかし高向玄理らは帰国することなく唐で薨去し、学問僧慧妙・覚勝らも唐で客死します。智聡・智国・義通らは帰国途中に海で死に、智宗・定慧らは唐に留まって学問を続け、数十年後に帰国しました。その他の一行はこの年のうちに帰国し、吉士長丹らも天子に拝謁して同年7月に帰国しています。

この年は高宗の永徽5年(654年)にあたり、倭国の使者が朝貢したことは旧唐書・新唐書に書かれています。ただ旧唐書東夷伝倭国条にはありません。

永徽五年…十二月癸丑、倭國獻琥珀、碼瑙。琥珀大如斗、碼瑙大如五斗器。(旧唐書高宗紀
永徽初、其王孝德即位、改元曰白雉。獻虎魄大如斗、碼硇若五升器。時新羅爲高麗、百濟所暴、高宗賜璽書、令出兵援新羅。(新唐書東夷伝倭国条

前に「永徽元年に使者を派遣した」と書きましたが、孝徳が即位したのが永徽元年というだけで、琥珀や瑪瑙を献上したのは旧唐書によれば永徽5年のようですね。新羅使と一緒に倭国使が来ていた可能性もありますが訂正しましょう。653年、654年と2年連続して来ていますが、吉士長丹らは南路をとったため江南に漂着し、長安に到達するのが遅れたのでしょう。

吐火羅国人

同年4月には「吐火羅(とから)国の男二人、女二人、舎衛(しゃえ)の女一人が風に会って日向に漂着した」とありますが、吐火羅国とはアフガニスタン北部のトハーリスターン(バクトリア地方)で、舎衛といえば北インドのコーサラ国の舎衛城(シュラーヴァスティー)として仏典に見えます。この後にも数度同様の記事があり、乾豆波斯達阿(けんづ・はし・だちあ)という人物が後に出てきます。インド(乾豆)人かペルシア(波斯)人かわかりませんが、この頃にはインド洋や南シナ海・東シナ海を股にかけて航海する貿易商人が盛んに活動しており、彼もその船団の指揮者であったのではないかと推測されています。

なおサーサーン朝ペルシア帝国はイスラームを奉じるアラビア人に敗れて651年に滅亡しており、唐へ王族が亡命しています。なんらかの関係があるかも知れません。

天豐財立

白雉5年10月、59歳の孝徳天皇は病気になり、これを聞いて皇太子は皇極上皇や間人皇后、大海人皇子や公卿らを率い難波宮へ戻ります。まもなく天皇は崩御し、12月に大坂磯長陵(大阪府太子町山田上ノ山古墳か)に葬られました。直径32mの円墳で、陵墓としては小規模ですが、既に孝徳天皇が実権を失っていた証拠でしょうか。暗殺された形跡はありません。

埋葬が終わると、皇太子は皇極上皇を奉じて飛鳥河辺行宮に戻ります。

未幾孝德死、其子天豐財立。(新唐書東夷伝倭国条)

「子」となっていますが、天豊財とは天豊財重日足姫(あめのとよたから・いかしひたらしひめ)天皇、すなわち皇極天皇のことです。なんと、彼女は史上初めて退位後に復位した(重祚)のです。淡海三船は最初の即位時に皇極天皇、復位時に斉明天皇と別々の諡号をつけていますが、和風諡号は同一です。天豊財は諱の宝(たから)を装飾したもので、重日足とはまさに「再び天下を治めた」ことをいうのでしょう。新唐書で「子」としたのはそのことを知らず、跡を継いだなら子だろうと適当に書いたに過ぎません。

元年(655年)春正月壬申朔甲戌、皇祖母尊、卽天皇位於飛鳥板蓋宮。(斉明紀

裏ではいろいろあったでしょうが、日本書紀ではあっさり書かれています。宮は飛鳥板蓋宮に戻されました。

大化・白雉と続いた元号の使用は孝徳天皇の崩御と共に一旦中止されます。次は686年の「朱鳥」ですがこれは一年で終わり、701年の大宝からは現代まで連綿と使用が続いています。異説では朱鳥の前に「白鳳」という元号があったとし、『続日本紀』に「白鳳より以来、朱雀以前、年代玄遠にして、尋問明め難し」とあるのを典拠としますが、『日本書紀』に書かれておらず、白雉を白鳳、朱鳥を朱雀と言い換えて誤伝したものと思われます。斉明・天智両朝に元号がないのを訝しんだ人々が後知恵で付け加えたのでしょう。そのため、645年の乙巳の変(大化の改新)から710年の平城京遷都までの飛鳥時代後期の文化を、近代以後には「白鳳文化」と呼びます。

斉明天皇

日本書紀巻第廿六 天豐財重日足姬天皇 齊明天皇
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_26.html

では斉明紀を見ていきましょう。即位年の5月、いきなり怪異が現れます。

夏五月庚午朔、空中有乘龍者、貌似唐人着靑油笠而自葛城嶺馳隱膽駒山、及至午時、從於住吉松嶺之上向西馳去。
夏五月一日、大空に龍に乗った者が現われ、姿は唐人に似ていた。青い絹で造った油塗りの笠(雨具)をつけ、葛城山の方から、生駒山の方角に空を馳せて隠れた。正午頃に住吉の松嶺の上から西に向って馳せ去った。

なんの兆しでしょうか。『扶桑略記』によるとこれは蘇我入鹿の亡霊で、のちに災厄をもたらしたとしますが、まだ出現しただけです。不吉ですね。

7月には「難波朝(難波宮)」で北(越国)蝦夷・東(陸奥)蝦夷・百済の朝貢使を饗応し、また柵養蝦夷(きこう、国境の城塞で兵卒として現地雇用されている蝦夷)、津刈(津軽)蝦夷らに冠位を賜ります。同年には高句麗・百済・新羅・蝦夷・隼人が揃って朝貢・服属しており、即位の正統性を内外に知らしめるための儀式として、チャイナの天子を真似たのでしょう。なおこの記事は「津軽」の初出です。

8月には河辺麻呂らが唐から帰国し、現地で高向玄理らが薨去したことなどを報告します。10月には「小墾田に宮を造り瓦葺きにしよう」と計画を立てましたが、木材によいものがないとの理由で中止しています。唐の宮殿を真似ようとしたのでしょうか。瓦自体は古くから寺の屋根に使用されており、百済・新羅・高句麗などから渡来した瓦職人が造っていました。

この冬、飛鳥の板蓋宮で火災があり、一時的に飛鳥川原宮に遷りました。

斉明2年(656年)8月、高句麗がまた朝貢し、9月に倭国から高句麗へ返答使を送りました。この年には舒明天皇の故地である飛鳥岡本の地に新たな宮を建設して遷っています。また多武峰に垣を巡らし、頂上の二本の槻木のほとりに高殿(離宮)を建てて両槻宮(ふたつきのみや)、あるいは天宮(あまつみや)と名付けます。

斉明天皇は工事を好み、溝(運河)を掘らせて香久山の西から東の石上山に及び(幅10m、深さ1.3mほどの運河跡が何箇所かで発見されています)、舟200隻に石上山の石を積んで運ばせ、宮の東の山に積みました。当時の人は「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」「無駄なことだ、すぐ崩れるぞ」と不平を鳴らしましたが、天皇はさらに吉野宮を離宮として造りました。このためか岡本宮では火災が発生しています。また石垣は実際数十年後に崩壊しており、この批判は(事後予言でしょうが)的中しています。

斉明3年(657年)7月には都貨邏(とから)国の男女が奄美を経て筑紫に漂着し、駅馬で都へ召されました。天皇は飛鳥寺の西に須弥山をかたどったものを作らせ、盂蘭盆会を催して都貨邏人らを饗応します。

この須弥山石は実際に発掘されており、噴水の仕掛けがありました。酒船石や亀型石などこの時代には導水施設を持つ石造物が妙に多く、海外の先進技術で作られたものです。女帝はこうした仕掛けを持つ神聖空間を造り、蛮夷の服属儀礼や仏教の法会によって権威を高めたのでしょう。そう言えば彼女には雨乞いしたら大雨が降ったとかいう伝説もありました。

◆Stone Cold◆

◆Crazy◆

斉明天皇がのんきに天子を気取っている間にも、高句麗・百済・新羅は唐を巻き込んで激しく争っています。またこの頃、唐では武氏(武則天、則天武后)が高宗の皇后となりました。彼女は唐の実権を握り、やがて禅譲を受けてチャイナ史上唯一の「女帝」となります。彼女の即位は、倭国や新羅にも女王が存在したことが影響したのかも知れません。

【続く】

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