見出し画像

【つの版】ウマと人類史:中世後期編17・君府陥落

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 15世紀から16世紀にかけて、モンゴル高原や中央アジア、イラン高原、北インド、キプチャク草原やロシアは激動の再編期を迎えていました。そしてティムールによって滅亡寸前まで追い込まれたオスマン帝国は、この時代に復活して勢力を大いに広げ、最盛期を迎えることになります。

◆Ceddin◆

◆Deden◆


帝国再興

 13世紀末、アナトリア半島の北西に興ったオスマン朝は、ルーム・セルジューク朝と東ローマ帝国の衰退に乗じて勢力を広げ、アナトリア(アジア)とバルカン(ヨーロッパ)にまたがる強国となります。しかし1402年、皇帝バヤジットがアンカラの戦いでティムールに敗れ、オスマン帝国は滅亡こそ免れますが10年以上も統一君主がいない空位時代を迎えます。

 正確に言うとバルカンという地名は近代のもので、当時は「ルメリ(ローマの地)」と呼ばれていました。イスラム世界では東ローマ帝国の領土およびイタリア半島を漠然とルーム(ローマ)と呼び、11世紀以後に小アジアがムスリムの手に落ちた後も、この地をルームと呼んでいます(ルーム・セルジューク朝)。しかしオスマン帝国はマルマラ海やエーゲ海を挟んだ二つの陸地にまたがる国となったため、次第に東側をアナドル(アナトリア、ギリシア語で「東」の意)、西・北側をルメリ(ルメリア)と呼ぶようになったのです。

「バルカン」とはテュルク諸語で「森のある山」を意味するらしく、もとは半島東部の山脈を指す言葉でした。トルクメニスタン西部にも大バルカン山脈があります。トラキア語でサイモン(山脈)、ギリシア語で訛ってハイモス、スラヴ諸語でスターラ・プラニナ(古い山)といい、15世紀末にはバルカンと呼ばれ始めます。欧州では現在のバルカン半島にあたる地域を「ヨーロッパ・トルコ」と呼んでおり、19世紀末になってついに「バルカン」という地域名が定着し始めたのです。

 ティムールの捕虜となり憂悶のうちに亡くなったバヤジットには8人の男子がおり、そのうち長子スレイマンは1403年にルメリア側のエディルネでスルタンを称します。彼は東ローマ帝国にマルマラ海沿岸を割譲し、見返りとして自分を支援させますが、三人の弟たちはアナトリア側の都市に依って自立し、イーサーはブルサに、メフメトはアマスィヤに、ムーサーはキュタヒヤに割拠しました。メフメトはすぐイーサーを打ち破りますが、スレイマンはイーサーを支援してブルサを占領、一時はアンカラへ攻め寄せます。

 メフメトは兄スレイマンをブルサまで撃退すると、アナトリア南東に割拠していたカラマン侯国ベイリクと手を組み、西アナトリア各地の中小侯国を攻撃して服属させます。彼らはティムールによってオスマン帝国の支配から自立したものの、ティムールが去った後は後ろ盾がいなくなり、中央集権が進んでいたオスマン帝国には片割れといえど敵いませんでした。

 1409年には弟のムーサーをルメリアに派遣し、セルビアやワラキアと手を組んでスレイマンの背後を襲わせます。スレイマンはこの攻撃でエディルネを失い、セルビアを離反させてエディルネを奪還したものの1411年に敗れ、逃亡途中に殺害されます。ムーサーはそのままルメリアで自立し、兄メフメトと対立しますが、メフメトは東ローマやセルビアと手を組み、弟にネガティブ・キャンペーンを行って勢力を弱めた後、1413年に捕獲・殺害してオスマン帝国を再統一することに成功しました。

 メフメトは正式にスルタンを称し、スレイマンの即位を否定します。その後も各地を転戦して領土を拡大、反乱を鎮圧して、かつての強国を復活させます。1421年、メフメトは在位8年で崩御し、息子ムラト2世が即位します。

帝王聖戦

 ムラトは文人肌でスーフィー(イスラム教神秘主義)を好む人でしたが、乱世の帝王として振る舞わざるを得ませんでした。東ローマ皇帝マヌエルはオスマン帝国と友好関係を保っていたものの老齢で、皇子ヨハネスはこれに乗じてオスマン帝国に離間策を仕掛けます。メフメトの弟でムラトの叔父にあたるムスタファを担ぎ出し、彼をルメリアのスルタンに擁立したのです。

 怒ったムラトはムスタファを撃破して処刑すると、東ローマとの同盟を破棄して帝都コンスタンティノポリスを包囲します。オスマン軍は初期の大砲を配備していましたが、堅固な城壁を崩せず、攻めあぐねました。マヌエルはこの間にアナトリア各地の諸侯や王族を唆し、反乱を起こさせます。ムラトはやむなく和睦して兵を引き、1423年には西のテッサロニキモレアス(ペロポネソス半島)に割拠する東ローマの分国を攻撃しました。

 両者はヴェネツィア共和国に庇護を求め、7年間持ちこたえますが1430年にオスマン帝国に併呑されます。東ローマ皇帝マヌエルも1425年に崩御し、跡を継いだヨハネスはオスマン帝国と和平しつつ西欧諸国へ支援を要請、ローマ教皇のもとまで赴いて十字軍の派遣を呼びかけます。1291年にアッコンが陥落して聖地から十字軍が去った後も、西欧諸国はしばしば十字軍を編成してイスラム教徒に戦いを挑んでおり、1396年にはオスマン帝国のバヤジットとブルガリアのニコポリスで戦ったことがあります(大敗しましたが)。

 ムラトはハンガリーとの間に緩衝国としてセルビアを置き、ドナウ川以南の地を次々と併呑、さらにトランシルヴァニアへ侵略します。1439年までにはセルビアを取り潰し、翌年にはハンガリー国境の要衝ベオグラードを包囲して、欧州諸国を震撼させました。ハンガリーの貴族フニャディ・ヤーノシュらは東欧の大国リトアニア・ポーランド連合を頼り、ポーランド王ヴワディスワフ3世をハンガリー王位に擁立、反対派との内戦を制して対オスマン帝国の旗印としました。

 彼らの軍勢はオスマン軍を各地で撃破し、ローマ教皇も十字軍の結成に賛同、オスマン帝国へ大連合軍が派遣されます。ムラトは弱気になり和睦を提案しますが、調子に乗った十字軍は一度締結した和約をすぐ破りました

 息子メフメト2世に譲位していたムラトは宰相らによってすぐ復位させられ、両軍はブルガリアのヴァルナで激突します。しかしハンガリーの騎兵は湿地に足を取られ、国王自らムラトを討ち取らんと突出しますが、反撃を受けて戦死します。十字軍は総崩れとなり、フニャディはワラキアと結んでハンガリーの摂政に就任、内外の危機を必死で押し留めます。

 ムラトは再び退位しますが1446年に復位させられ、1448年にはコソボでセルビア率いる十字軍を撃破し、ギリシア方面の遠征軍も撃破して、コンスタンティノポリスを孤立させます。ヨハネスは同年失意のうちに崩御し、弟のコンスタンティノスが即位しました。彼はムラトと和睦しています。

君府陥落

 1451年2月、ムラト2世は47歳で崩御し、息子メフメト2世が19歳で即位しました。前に2回即位していますが2回とも父が復位したため、周囲には彼を若造と侮る向きが強く、周辺諸国も「ムラトよりは与し易いだろう」と見くびっていました。メフメトはエディルネで即位するや、幼少の弟アフメトを殺し、兵士らにカネをばらまいて忠誠を確保し、反対派の宰相を左遷して実権を握ります。内外にナメられては帝国の運営にも支障をきたします。

 この頃のオスマン帝国の主力は、イェニチェリ(新たな兵隊)と呼ばれる皇帝直属の奴隷/解放奴隷部隊でした。これは征服地のキリスト教徒の捕虜や強制徴用(デヴシルメ)で集められた「家内奴隷(カプクル)」から選抜された常備軍です。利害によって裏切りがちな遊牧騎兵よりは信頼でき、従来のマムルークやグラームのように購入してから解放するのではなく、国内で調達できました。イスラム法ではイスラム教徒を奴隷にできず、キリスト教徒など異教徒は可能でしたが、君主が支配下の異教徒を奴隷化することは認めていません。オスマン帝国は屁理屈をつけてこれを制度化し、強力な常備軍としたのです。カプクルからは軍人や小姓として出世し宰相となる者も現れ、人々はこの制度を有用なものとして支持しました。

 対外的には、まずハンガリーと三年の休戦協定を結び、東ローマにも友好的な態度を示しました。しかし南東のカラマン侯国が和約に背き侵略して来ます。東ローマはこれに乗じて、亡命していたオスマン帝国の皇族オルハンの解放を示唆し、解放しない代わりに身代金の増額を要求します。オルハンが反乱の旗印になれば大変ですから、メフメトはいったんこれを受諾してカラマンを討ちますが、これに怒ってついに「コンスタンティノポリスを陥落させ、東ローマ帝国を滅ぼそう」と計画します。

 1452年、カラマン遠征から戻ったメフメトは、コンスタンティノポリスの近郊に城塞を築かせます。これはルメリ・ヒサル(ルメリア城塞)、またの名をボアズ・ケセン(喉/海峡を切断するもの)といい、曽祖父バヤジットが建設した対岸のアナドリ・ヒサル(アナトリア城塞)とともに、ボスポラス海峡の最も狭い部分を扼する要地にあります。わずか4ヶ月でルメリ・ヒサルが完成すると、メフメトは二つの城塞に兵数百と大砲を配備し、海峡を往来する船舶に通行料を課し、従わぬ船は撃沈させました。

 次いで1453年4月、メフメトは家臣らの反対を押し切ってコンスタンティノポリスを包囲し始めます。東ローマは亡国の危機に際して周辺諸国に救援を要請しますが、ハンガリーは内戦状態で動けず、ジェノヴァとヴェネツィアが傭兵として援軍を派遣したものの合計2000人ほどで、東ローマ兵5000と合わせて守備兵は7000人ほどでした。メフメトはイェニチェリ2万を中核として10万もの大軍を動かし、艦隊を建造して海側からも包囲します。

画像1

 4世紀にコンスタンティヌス大帝によりビュザンティオンが拡張され、テオドシウスら歴代皇帝が整備し、千年に渡り数多の外敵を防いだコンスタンティノポリスは、堅固な防壁と海によって守られています。メフメトは陸軍を西側に配備し、ハンガリーの技師ウルバンに命じて作らせた巨大な大砲を城壁に撃ち込ませます。

 これは長さ8m余、口径75cmにも達し、544kgの石弾を1.6km先まで飛ばすことができました。しかし命中精度は低く、一回発射すれば次の発射までに三時間もかかったといいます。7週間に渡り砲撃は続けられましたが、射撃間隔が長いため破壊された部分はすぐ修復され、ついに大砲が反動に耐えきれず壊れてしまいました。オスマン艦隊は都市の北側の金角湾に入ろうとしますが、東ローマは巨大な鎖を張って防ぎ、救援物資を送る船も海戦に慣れぬオスマン艦隊には拿捕できませんでした。

 メフメトは業を煮やし、金角湾の北側の陸地に油を塗った丸太を多数並べて道を作らせ、70隻もの軍船を運ばせて金角湾に侵入させます。また城内に使者を送って和平交渉を行い、降伏して開城すればモレアスの支配権を認めようと申し出ます。東ローマは最終的にこれを拒否し、5月29日未明にオスマン軍の総攻撃が始まります。防衛軍は必死で持ちこたえますが城門を突破され、皇帝コンスタンティノスは敵軍に斬り込んで壮烈な戦死を遂げ、ここに東ローマ帝国は滅亡したのです。皇族オルハンも殺されました。

 メフメトは都市陥落時の伝統として3日間の略奪を命じたものの、すぐに思い直して略奪を禁じ、キリスト教徒らに自由を保障して治安回復に乗り出します。またこの街を「コスタンティニエ」と呼んでエディルネに代わる新たな都とします。彼は減少していた都市人口を補うため、帝国各地からムスリムの富裕層、商業に長けたユダヤ人やアルメニア人、キリスト教徒など多くの住民を呼び集めました。さらにモスク・病院・学校・水道・市場などのインフラを整備し、ジェノヴァやフィレンツェとの交易も継続させました。1456年からはトプカプ宮殿の建設も始まり、帝都は急速に発展して、世界有数の大都市の様相を取り戻していくのです。

 またメフメトは反対派の宰相ハリル・パシャとその一派を粛清し、忠実なザガノス・パシャを宰相に任命して、皇帝による専制、中央集権を強めました。「征服者アル・ファーティフ」と呼ばれる若き帝王の覇業は、これを皮切りに30年近く続き、オスマン帝国はさらに大きく発展します。

◆Fatih◆

◆Mehmet◆

【続く】

つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。