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【つの版】ウマと人類史:中世後期編08・雷帝決戦

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1381年から1396年にかけて、ティムールはホラーサーンとイラン高原、アルメニア高原を征服し、キプチャク草原と天山山脈まで遠征して服属させ、中央ユーラシアの広大な領域に覇を唱えました。次の目標はインドです。

◆Saahore◆

◆Baahubali◆

印度遠征

 ティムールは、息子や孫を各地の統治者に任命していました。長男と次男はすでに逝去しており、アゼルバイジャンには三男ミーラーン・シャーが、ヘラートを中心とするホラーサーンには四男シャー・ルフが封じられ、亡き嫡男ジャハーンギールの子ピール・ムハンマドは、ヘラートなどを除く現在のアフガニスタンの大部分にあたる地域の総督に任じられます。

 彼は1397年末にインド遠征を命じられ、カンダハールからクエッタを経てシンド地方(インダス川下流域)へ侵攻しました。当時インド北部はデリーに都を置くイスラム王朝「デリー・スルタン朝」の三番目、テュルク・モンゴル混血の帝王スルタンを戴くトゥグルク朝によって支配されていましたが、各地で反乱が相次いで衰退・混乱していたのです。ピール・ムハンマドはパンジャーブ南部の都市ムルターンを包囲し、半年かけて陥落させますが、孫の苦戦を聞いたティムールは自らインド遠征に乗り出しました。

 彼は9万2000の兵を集めて三つに分け、チャガタイ・ハンのマフムードを左翼軍の司令官として南下させ、自らはヒンドゥークシュ山脈の山賊たちを討伐して後方の安全を確保しつつ、カーブルに向かいます。ピール・ムハンマドはムルターンで洪水に遭って軍馬を失い、反乱に遭って包囲されていましたが、ティムールは彼を救出して合流し、デリーへ進軍します。

 1398年12月、トゥグルク朝の帝王マフムード・シャーは歩兵4万、騎兵1万2000、戦象120を率いてデリーから出撃しますが、ティムール軍はこれを撃破して大勝利をおさめます。マフムードらは逃走し、デリーはティムール軍に占領されて掠奪され、破壊と殺戮が繰り広げられました。1399年1月に戦利品を得てデリーを出発すると、帰国途中にデリー近郊の街メーラトを攻略し、3月末に帰国しました。

 ティムールは同じイスラム教徒の国を攻めた理由を「異教徒(ヒンドゥー教徒など)に対する聖戦だ」と嘯きましたが、莫大なインドの富を求めてのことに違いありません。これより百年以上後、ティムールの子孫バーブルはデリー・スルターン朝を滅ぼして北インドを征服し、第二のティムール朝であるムガル帝国(ヒンドゥスターン・ティムール朝)を建国します。

七年戦役

 インドから帰還してまもなく、ティムールは再び西方へ出発します。アゼルバイジャン総督のミーラーン・シャーが、父に対して反乱を起こしたのです。彼はティムールの生存している息子の中では最年長者であり、ティムールの後継者を自任していました。しかし亡兄ジャハーンギールの子ムハンマド・スルターン(ピール・ムハンマドの兄)を父が後継者としたことを不満とし、老齢の父には帝国を任せておけぬと反乱したわけです。

 同年にマムルーク朝ではスルタン・バルクークが逝去し、10歳の幼君ナースィル・ファラジュが即位して内紛が起きていました。またアナトリア西部に興ったオスマン帝国が勢力を伸ばし、バルカン半島とアナトリア半島をまとめあげ、ティムール帝国と境を接するほどになりました。ティムールはこれを一気に片付けようと、将兵の反対を押し切って西方遠征に向かいます。

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 1399年9月、サマルカンドを出発するとまずアゼルバイジャンに入り、ミーラーンを「落馬のせいで乱心した」として更迭し、彼の側近を身代わりに処刑します。次いで敵対の動きを見せていたジョージアに侵攻して処罰し、1400年8月にオスマン帝国東端の都市スィヴァスを攻略して牽制しつつ、10月には南下してマムルーク朝領のシリアに入り、各地に降伏勧告を行って無血開城させ、アレッポに迫ります。敵軍は籠城しますが、ティムールは城の外へ敵軍をおびき寄せて殲滅し、わずか4日で攻略しました。

 ティムールは流言飛語をばらまきながらダマスカスへ進軍し、ファラジュ率いるマムルーク朝の大軍と対峙します。ファラジュらは使者に偽装した暗殺者を送りますが露見し、1400年末から1401年1月にかけて野戦が行われ、双方に損害が出ます。ティムールはファラジュらと和平交渉を行い、エジプトで反乱も起きたことからマムルーク軍は撤退しました。

 ダマスカスはなおも籠城して抵抗しますが、ティムールは和平を提案し、大学者イブン・ハルドゥーンを含む使節団が派遣されてティムールと会見しています。3月にダマスカスが開城すると、ティムールは兵士らに掠奪と破壊を行わせますが、同時に疫病が流行してティムールも一時病に罹ります。病が癒えるとティムールはダマスカスから離れ、マムルーク朝と和平条約を結び、バグダードを奪還したジャライル朝に狙いを移しました。

 ティムールは沙漠とユーフラテス川を渡ってシリアからイラクへ進軍、6月にバグダードを包囲し、7月に総攻撃を行って陥落させ、破壊と殺戮と掠奪をほしいままに行います。しかしジャライル朝スルタンのアフマドはオスマン帝国へ亡命しており、黒羊朝のカラ・ユースフはオスマン帝国と手を組んで、アルメニア高原の都市エルズィンジャンを占領させていました。ここにティムールはオスマン帝国との対決に乗り出します。

雷帝決戦

 オスマン帝国/オスマン朝は、東ローマ帝国とルーム・セルジューク朝の国境地帯にいた武装集団が、13世紀末頃に自立したのを始まりとします。建国者オスマンはもとの名をテュルク語でオトマン(アタマン、頭領・親分)といい、ムスリムらしくアラビア語名ウスマーンを訛ったオスマンと名乗ったようです。初期には盗賊団の親玉程度でしたが、乱世に乗じていくつかの街を占領し、彼の子オルハンがブルサを占領して都としました。

 オルハンは30年余り在位して国を拡大し、周辺諸侯や東ローマ帝国と合従連衡して、バルカンとアナトリアにまたがる強国を築き上げます。続くムラトの時代にはバルカンへさらに進出し、アドリアノポリス/エディルネを征服して第二の首都とし、ドナウ川流域を征服して、周辺諸国を属国とします。彼はスルタンを称し、この頃からオスマン帝国と呼ぶべき勢力となります。

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 1389年にムラトが暗殺されると、息子バヤズィト/バヤジットが即位してさらに勢力を広げます。1393年にブルガリアを滅ぼすと、翌年にはギリシア遠征を行い、ボスニア、アルバニア、ワラキアを服属させ、コンスタンティノポリスを数次に渡って包囲し、1396年にはハンガリー王を中心とする十字軍をも撃破して、バルカンにおける覇権を確立したのです。エジプトにいたアッバース朝のカリフは、彼にスルタンの称号を正式に授けて讃えました。

 勝ち誇ったバヤジットは東ローマからペロポネソス半島を奪い、アナトリアの諸侯国を征服し、その迅速さと苛烈さから「稲妻イルディリム」の異名をとりました。意訳して帝王スルタンと繋げれば「雷帝」です。

 ティムールとバヤジットの間では1393年頃から書簡による交流があり、当初はともにマムルーク朝と対立していたことから中立的でした。ティムールは帰順を求める書簡を送り、ジャライル朝のアフマドと黒羊朝のカラ・ユースフを引き渡すこと、ティムールの名を刻んだ貨幣を鋳造して宗主権を認めること、王子の一人を人質として供出すること、他のアナトリア諸侯に領地を返還することを要求しました。コンスタンティノポリスを包囲していたバヤジットは勧告を拒絶し、ティムールはアナトリアへ侵攻を開始します。

 1402年、ティムールはスィヴァスを経てオスマン帝国領に侵入し、諸侯に帰順を呼びかけます。バヤジットに征服されたばかりで反感を抱いていた現地の諸侯は次々と寝返り、バヤジットの軍に組み込まれていた騎士たちも動揺しました。7月に両軍がアンカラで激突すると、オスマン軍は多数が寝返りをうって総崩れとなり、バヤジットは妻子ともども捕虜となります。

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 ティムールは彼を厳重に監視しつつも丁重に扱い、さらに西へ進んでブルサを占領、12月には聖ヨハネ騎士団の領有するイズミールを攻略してエーゲ海に達しました。十字軍を撃ち破ったバヤジットを打倒したことで、ティムールの名は欧州にも広まり、東ローマ皇帝はもとよりフランス・英国・スペイン(カスティーリャ)の諸王も彼に親書を送っています。

 ティムールは戦後処理として各地の諸侯国を復活させ、オスマン帝国を弱体化させて宗主権を振るうことにしましたが、1402年にチャガタイ・ハンのスルタン・マフムードが、1403年3月に孫ムハンマド・スルタンとバヤジットが相次いで逝去します。悲しんだティムールは帰国を開始し、バヤジットの子らは各地に割拠して帝位を争うこととなりました。

 この時、ティムールはミーラーン・シャーに帝国西方の統治を再び命じ、ミーラーンの子らのうちハリール・スルタンはアルメニアとジョージアを、ウマルはアゼルバイジャンを、アブー・バクルは父とともにイラン西部およびクルディスタンを統治することになります。

巨星東隕

 1404年8月、68歳のティムールはサマルカンドに帰還し、不正を行っていた役人や商人を処罰します。この頃、カスティーリャ王国の使節クラヴィホがコンスタンティノポリスからアルメニア、イラン高原を経てサマルカンドを訪問し、報告書を作成しています。彼はティムールが老齢と病気のためにほとんど失明状態にあること、東方のキタイの皇帝からの使節がサマルカンドに訪れたことを記録しています。

 キタイの皇帝はトクズ・ハーンと呼ばれた。「九つの国(九州?)の皇帝」を意味する称号であるが、タタールの人たちは嘲弄してトングズ(豚)と呼んでいた。…キタイ皇帝の派遣した使節団が到着した。そのティムールへの口上は次のようであった。「何人も知るところであるが、ティムールは以前にキタイの属領であった地方を占有した。したがって、年々の貢納はティムールからキタイ皇帝へ支払うべきであったが、この七年間一度も支払われていないので、今やティムールはその全額をただちに支払うべきである」と。殿下はこの使節たちに「さっそく支払いましょう」と答えた。
 …その間なんの要求もなかったというのは、最近キタイで起こっていたある事件のためで、ここでそのことを説明しておこう。そもそものはじめ、その頃統治していたキタイ皇帝が死んだが、その遺言では、三人の息子に彼の帝国の土地を分割することになっていた。長男は無理もないことだったが、二人の弟をしりぞけて、帝国全土を自分のものにしようと欲した。そして、二人のうちの若い方を殺すことには成功したが、残る一人は反抗し、遂に彼に打ち勝った。長男は弟と談合することはもはやできないと見て、自分の幕営に火を放ち、多くの従う者ともども焼け死んだ。このようにして生き残ったひとりが現皇帝である。騒乱も収まり、秩序も回復すると、この新皇帝はティムールのところに使者を送り、その父の時代に支払われていた貢納を要求したのである。

 これは明朝の帝位争い「靖難の変(1399-1402)」であるとする説が有力ですが、同じく帝位争いをしていたモンゴル帝国(北元)のことかも知れません。ティムールは結局キタイ皇帝への貢納を拒絶し、1404年11月末に東方遠征に出発します。目的地は明朝ともモンゴルとも言いますが、この頃北元の皇子オルジェイ・テムルがティムールのもとに亡命していましたから、彼をモンゴル帝国のハーン/カアンに擁立するつもりであったとも推測されています。1402年にスルタン・マフムードが逝去してからティムールはチャガタイ・ハンを立てておらず、新たな傀儡として彼を担ぐつもりであったのかも知れません。しかし、すでにティムールは年老いすぎていました。

 1405年1月、オトラルに到着したティムールは寒さに耐えられず病気となり、体を温めるため酒宴を開きましたが、ついに臨終の時を迎えます。ティムールは病床の周りに王子らと貴族らを集め、孫のピール・ムハンマドを後継者とすることを重ねて告げ、遺言を守ることを誓わせます。1405年2月、帝王ティムールは69歳/70歳で崩御しました。

 ティムールの遺言は守られず、ミーラーンの子ハリール・スルタンがいち早くサマルカンドに入城し、王族のフサインを放逐してスルタンに即位します。カンダハールにいたピール・ムハンマドは間に合わず、ヘラートのシャー・ルフと手を組んで争い、数年に及ぶ内戦が始まります。

 ティムール朝のその後については改めて語るとして、次回は東方に戻るとしましょう。先程触れた明朝の「靖難の変」、およびモンゴルとの戦争について見ていきます。

◆Maahishmathi◆

◆Samrajyam◆

【続く】

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