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【つの版】ウマと人類史:近世編07・喀山征服

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1547年、モスクワ大公イヴァン4世は東ローマ皇帝から贈られたと称する冠で戴冠式を行い、「ゴスダーリ(君主)、全ルーシのツァーリ(帝王)にしてヴェリーキー・クニャージ(大公)」と称しました。ルーシとローマの正統な後継者を名乗った彼は、事実上の「ロシア帝国」の建国者として親政を開始します。彼の治世を見ていきましょう。

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東方遠征

 戴冠式から1ヶ月後、数え18歳のイヴァン4世は妃を娶ります。彼女の名はアナスタシアといい、貴族ザハーリン家の出身でした。先祖は14世紀中頃にモスクワ大公セミョーン(イヴァン1世の子)に仕えていたアンドレイ・カビラという低位の貴族で、カビラが「ロバ」「牝馬」を意味することから馬の管理者であったとも推測されます。彼の息子の一人にコシュカ(猫)というあだ名を持つフョードルがおり、その子がイヴァン、孫がザハリー、曾孫がヤーコフ、玄孫がユーリイです。

 ユーリイの子をロマン・ユーリエヴィチ・ザハーリンといいます。彼は侍従官の職を勤め、1543年に逝去しましたが、弟ミハイルはイヴァン4世の後見人の一人であり、彼の姪にあたるアナスタシアをツァーリに嫁がせたのです。アナスタシアの兄ニキータは大膳職に任命され、父の後を継ぎます。

 イヴァン4世は1547年12月から翌年にかけて、東のカザン・ハン国への遠征を行います。ジョチ・ウルスの末裔としてヴォルガ川上流域に割拠したこの国は、西の隣国モスクワと繰り返し争っていました。初代ハンであるウルグ・ムハンマドの家系が1518年に断絶すると、モスクワ大公ヴァシーリー3世は属国カシモフ・ハン国のシャー・アリーをカザンのハンに擁立します。

 これに対し、クリミア・ハンのメフメド・ギレイは1521年に弟サーヒブ・ギレイをカザンへ派遣してハンに立て、モスクワと戦わせました。また東のアストラハンを占領し、リトアニアとも手を組んでモスクワを攻めようとしましたが、メフメドは1523年に暗殺されます。モスクワは1524年にカザンへ侵攻し、サーヒブは和平を結んだあとクリミアへ帰り、甥のサファー・ギレイをカザンのハンとしました。1532年にサーヒブはクリミアのハンに即位し、1551年まで在位することになります。

 モスクワはカザンの親モスクワ派と組んで介入を続け、1530年にサファーをカザンから追放し、シャー・アリーの兄弟ジャーン・アリーをハンにつけます。しかし1535年にジャーン・アリーはクーデターにより失脚し、再びサファーがハンとなります。サファーはクリミアと組んで盛んにモスクワを攻撃し、モスクワはシャー・アリーを支援しますがうまくいかず、カザンの親モスクワ派はサファーとクリミア派により粛清されます。イヴァンはこれを懲罰すべく、かつは親政開始の景気づけにカザン遠征を行ったのです。

 真冬の進軍は、この頃にならないと川や地面が氷結せず、軍隊が進みにくいからです。ところがこの年は温暖で、大砲の大部分が泥に沈んで動かせなくなり、やむなくイヴァンは軍に近郊を掠奪させて一方的な勝利宣言を行い撤退しました。いまウクライナでやってるのと同じですね。そして1549年初頭にはサーファ・ギレイが不審死します。不運にも洗面台に頭部を打ち付けたのだと言われていますが、モスクワに毒殺されたという説もあります。

 サーファの子ウタミシュはまだ2歳でしかなく、彼をハンとして母后シュムビケが摂政となりますが、当然国内は混乱します。1549年末から翌年にかけて、イヴァンは再び遠征軍をカザンへ派遣しました。しかし2月末になって雨を伴った雪解けが始まり、地面が水浸しとなって多くの兵糧や武器が失われます。やむなく遠征軍は撤退しましたが、これもウクライナでやっていましたね。イヴァンはこの失敗を教訓とし、ヴォルガ川流域に要塞を建設して補給線を繋ぎ、遠征のための兵站を調えることにしました。

国政改革

 相次ぐ遠征失敗を鑑み、イヴァンは国政改革と権力基盤の強化に着手します。この頃「ストレリツィ(射手/銃兵隊)」と呼ばれるツァーリ直属の近衛兵が創設され、常備軍として組織されました。彼らは商人や農民などの平民から徴集され、制服とマスケット銃を授かり、戦闘訓練を受け、死ぬまでツァーリに仕える義務を負いました。また俸給や土地や食糧の支給を受け、モスクワや地方都市の郊外に専用の居住区を与えられていました。当初は500名の連隊が6つ、合計3000人でしたが、時代とともに増員されています。オスマン帝国のイェニチェリにも似た(たぶん参考にしたのでしょう)この兵士たちは、ツァーリ直属の軍事力として身辺警護にあたり、モスクワや地方都市の治安維持にあたる警察官としての役目も果たしました。

 1549-50年には貴族・聖職者・平民の三つの身分から代表者を出す身分制議会ゼムスキー・ソボル(全国会議)」が開催された、とされます。同様の身分制議会はスペイン・ポルトガル・英国・フランス・神聖ローマ帝国など各国にあり、それらを真似たようですが、この時点では設置を決定しただけなのかも知れません。確かな開催記録は1566年からです。

 この「会議」にもとづいて発布されたのが、「1550年の法典」と呼ばれる成文法です。1497年の法典を修正したもので、中央集権を強化し、諸侯や貴族の司法特権を制限し、農民たちの権利を認めたものです。各種裁判における取り決めや罰金なども制定されています。また1551年には教会会議を招集し、教会がツァーリの許可なく新たに領地を獲得することを禁じています。

 これらの改革は、小領主出身のアレクセイ・アダシェフ、司祭シリヴェーストルら顧問団による「選抜会議(イズブランナヤ・ラーダ)」によって進められました。シリヴェーストルは著書『家庭訓』の中で「神、教会、ツァーリの団結によって、ツァーリは絶対的権限をもった家長として振る舞う」ことを説いています。同時代には西欧諸国でも絶対王政が形成されていますし、東ローマ皇帝は古来アウトクラトール(専制君主、自らを支配する者)と呼ばれましたから、そのような存在としてツァーリを定義したのです。

喀山征服

 1551年、モスクワはヴォルガ川とスヴィヤガ川の合流地点、カザンから目と鼻の先に水運を利用して4週間で要塞を建設し、カザンを制圧する構えを見せます。南のクリミアとの道も封鎖され、カザンは孤立しました。クリミア派はモスクワ軍によって殲滅され、幼いウタミシュ・ハンはモスクワに送られ、シャー・アリーがモスクワによってハンに立てられます。

 1552年、反発したカザンの民はシャー・アリーを追放し、モスクワの駐留軍を殺すと、アストラハン・ハン国の王子ヤーディガール・ムハンマドを新たなハンに戴きます。イヴァン4世は自ら大軍を率いてカザンへ遠征し、8月末に包囲を開始しました。季節は冬ではなく真夏ですが、今回はヴォルガ川の水運を利用して大砲や軍隊、兵糧を輸送したのです。カザン近郊の要塞に到達したモスクワ軍は、カザンに対し1ヶ月あまりも攻城戦を繰り広げ、10月に陥落させます。ヤーディガールは捕縛されてモスクワへ送られ、ウタミシュとともにキリスト教(正教)に改宗させられました。

 カザンでは掠奪と殺戮、破壊が行われ、イヴァンは正教会の大聖堂を建立するよう命じ、1万8000の兵を駐屯させてモスクワへ凱旋します。しかし都市カザンの外では残党がゲリラ戦を続け、モスクワ軍を苦しめました。

皇帝巡礼

 1553年春、イヴァンは大病を患い、妃アナスタシアが生んだばかりの皇子ドミートリーを後継者に定めました。彼は臣下らにこれを認めるよう宣誓を求めますが、アナスタシアの実家ザハーリン家の勢力拡大を嫌った一部の貴族たちはこれを拒みます。イヴァンはじきに病気から回復しますが、このことは貴族らに対するツァーリの猜疑心を強めることとなりました。

 貴族らの一部は、幼児ドミートリーよりも、イヴァンの従弟にあたるウラジーミルを次のツァーリに立てようと画策していました。イヴァンはこれを知るとウラジーミルをモスクワへ呼び寄せ、摂政になるならよいと取り決めを結びつつも監視下に置きます。

 同年5月、イヴァンは家族と廷臣を伴って北方の町ベロオーゼロ(ベロゼルスク)のキリル修道院へ巡礼に向かいます。側近や聖職者らはカザン方面での反乱が続いていることから反対しますが、イヴァンはこれを押し切って巡礼に行き、祈祷を捧げました。しかし帰路、生後8ヶ月の皇子ドミートリーが冷たい湖に落ちて死亡し、イヴァンは激しく悲嘆苦悩しました。彼は貴族や聖職者らに怒りをぶつけそうになったものの、どうにか自制心を取り戻し、従弟ウラジーミルを擁立しようとした貴族数人を処罰するにとどめました。翌年3月にはアナスタシアが次男イヴァンを出産しています。

海外交易

 1553年8月、傷心のイヴァンのもとへ珍客が訪れます。彼はリチャード・チャンセラーという英国の商人で、英国からスカンディナヴィア半島の沖合を通り、北極海からモスクワやチャイナを目指そうという冒険家でした。スペインやポルトガルに遅れて大航海時代に参加した英国は、新たな航路の開拓を目指していたのです。

 船団のリーダーであったウィロビー卿は嵐に遭ってラップランドへ引き返し、全員が凍死して全滅したものの、副官チャンセラーの船はモスクワ北方の湾(白海)に逃げ込みました。そこから北ドヴィナ川の河口に入って遡り、河川と陸路を利用してモスクワに到達したのです。

 この航路は、モスクワ以前のノヴゴロド公国/共和国の時代から毛皮などの交易路として存在しており、北ドヴィナ川の河口近くにはホルモゴルイという港町が存在しました。イヴァンはチャンセラーたちを歓迎し、チャンセラーは帰国すると英国王の勅許を得て「モスクワ会社」を設立、対モスクワ貿易を独占しました。チャンセラーは1555年に再び船出し、チャイナへの航路を探りますが、1556年に帰国途上で船が沈没し亡くなっています。

 モスクワ・ロシアと英国は、ここに初めて国交を結びました。イヴァンは英国商人に関税撤廃、自由移動権、ツァーリの裁判以外の治外法権といった優遇を与え、毛織物、武器、弾薬、火薬の輸入に加え、医師や技術者を招聘します。代わりにロシアからは蜂蜜、獣脂、塩、毛皮、鯨油などが輸出されましたが、値段は輸入品の方がどうしても高くなり、大幅な輸出超過となっていきます。またこの航路は冬になると氷で閉ざされてしまうため、安定的な交易は困難でした。そこでロシアは「不凍港」を求めるようになります。

 1554年、モスクワ・ロシアはヴォルガ川下流域のアストラハン・ハン国の後継者争いに介入し、属国化します。1556年には軍を派遣してアストラハンの街を奪い取り、ロシアの勢力はヴォルガ川流域を制圧してカスピ海にまで及びました。600年近く前、キエフ大公スヴャトスラフがハザール王国を打ち破って以来のことです。残党はクリミアやオスマン帝国の支援を受けて抵抗を続けますが、ロシアは軍事力で抑え込み、帝国として拡大を続けます。

 1558年から、イヴァンは西方に目を向け、バルト海沿岸のリヴォニア地方を巡ってポーランド・リトアニア連合およびスウェーデンと大戦争を開始します。これには途中からクリミア・ハン国やオスマン帝国も参戦し、ロシアは大いに疲弊することになるのです。

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◆維亜◆

【続く】

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