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【つの版】度量衡比較・貨幣59

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1519年4月、スペイン人エルナン・コルテス率いる数百名の遠征部隊は、現メキシコ西部のベラクルスに上陸して植民地を築きます。彼らは周辺の先住民トトナカ人と同盟し、西の内陸高地に本拠地を置く強大なアステカ帝国と戦うことになりました。それはどのように行われたのでしょうか。

◆Come see victory◆

◆in the land called Fantasy◆

改宗強制

 ベラクルスに拠点を設営したコルテスらは、火縄銃を空に向けて撃つデモンストレーションを行い、先住民を驚かせました。また様子を見に来たアステカの使者らと会見し、皇帝モクテスマからの贈り物を受け取っています。1519年7月、コルテスはベラクルス周辺の先住民トトナカ人に招かれ、トトナカの中心都市センポアラで酋長シコメコアトルと会見を行いました。彼は肥満した背の高い男で、コルテスらを歓迎して女や奴隷を与え、連合してモクテスマと戦おうと申し出ます。

 しかしコルテスらは、シコメコアトルが若い男を愛人として侍らせ、偶像に毎日人間を生贄として捧げて平然としているのに嫌悪感をおぼえ、「キリスト教に改宗して邪悪な習慣をやめ、悪魔の像を取り除き、神殿を教会に変えてマリア像と十字架を置くように」と伝えました。カトリック的価値観の中で生まれ育ったスペイン人からすれば、どう見ても邪悪な偶像崇拝者としか思えぬ彼らと、そのまま同盟するのはためらわれたのです。通訳のアギラールは修道士ですし、後から異端審問にでもかけられたら大変です。ともに戦うにもスペイン人の士気に差し障ります。

 驚いたシコメコアトルは「そんなことはできぬ」と言いますが、スペイン人たちはすぐに神殿へ駆けつけて偶像を破壊し、マリア像と十字架を置いて聖別し、教会に作り変えます。怒ったトトナカ人らはスペイン人らを殺そうとしますが、度肝を抜かれたシコメコアトルは「彼らの言う通りにしよう」といい、人々を宥めます。遥か東からやってきた奇妙な人々は異様な武器を持ち、神々をも恐れぬ謎めいた存在と見え、彼らの崇める神々に逆らえば、なにかよからぬ事が起きると思えたことでしょう。コルテスは部下たちの退路を断つため7月26日には乗ってきた船を沈め、8月に進軍を開始します。

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 ベラクルスやセンポアラは標高7-10mに過ぎませんが、西へ進むにつれ高原となり、ハラパでは1460m、コアテペックでは1200m、センポアラから370kmあまり西のテノチティトラン/メキシコシティでは標高2240mにもなります。北緯19度、ユカタン半島やサヘル、アラビア半島南部や南インド、東南アジアやハワイと同じ熱帯の緯度にありながら、年間通して気温は高くも低くもならず(朝晩の寒暖差はありますが年間最高気温は20℃あまりです)、雨も程々に降るため暮らしやすい気候でした。

 アステカの首都テノチティトランとトトナカ人諸国の間には、アステカに従わぬ四つの都市国家が同盟したトラスカラ連邦があり、しばしば「花の戦争」を挑まれていました。その人口は30万と推測され、トトナカ人らは「彼らはモクテスマと仲が悪いから、我々と同盟できる」と請け負います。コルテスらは8月末にトラスカラの領域に入りますが、奇襲を受けて二人の騎兵を殺されます。その後も激しい抵抗に遭ったため、コルテスらは非武装の村を襲撃して報復します。トラスカラ連邦は幸い一枚岩ではなく、「彼らと手を結んでモクテスマと戦おう」という者も現れ、9月に講和しました。

 スペイン・トトナカ・トラスカラ連合軍は、10月に現プエブラ州の都市国家チョルーラ(トゥラン・チョルラン)に侵攻します。ここはアステカとトラスカラ、トトナカを結ぶ交易路の中心地で、古くからケツァルコアトル神の聖地として栄え、アステカからは独立していました。トラスカラ人はスペイン人らとともにここを攻め落とすと、貴族や聖職者たちを殺して親トラスカラ派に置き換えます。また住民たちも多くが虐殺され、神殿の偶像は破壊され、マリア像と十字架が立てられます。

 その噂は交易路に乗って各地に広まり、噂は噂を呼び、「彼らは現世に再臨したケツァルコアトルか、その使いではないか」という伝説を産みます。あるいは、マリンチェたちがそのような伝説をわざと吹聴したのかも知れません。この宗教的プロパガンダと軍事力により、コルテスらはこれ以上抵抗を受けることなく、アステカの帝都テノチティトランへ進軍します。

帝都入城

 1519年11月8日、コルテス一行はついに周辺諸国の王侯貴族らに案内されてテノチティトランに入り、皇帝モクテスマと平和裏に会見します。

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 当時のテノチティトランは人口20万から30万に達していたと推測され、ヨーロッパ世界ではパリやコンスタンティノポリス(イスタンブール)に匹敵し、スペインやポルトガルの首都に勝るとも劣らぬ大都市でした。湖上には家屋や神殿が立ち並び、ヴェネツィアめいた運河網の間には無数の浮島農園が広がり、メソアメリカ全土から交易商人が来て市場で取引を行っていました。コルテスたちはあまりの光景に度肝を抜かれ、夢か幻を観ているのではないかと我が目を疑ったといいます。しかし神殿ではこれまでと同じく偶像が祀られ、人間が生贄に捧げられており、コルテスたちはそのおぞましさに吐き気を催します。文化が違うだけと言えばそれまでですが。

 皇帝は彼を友好的に迎え、高貴な異国の客人として亡父アシャヤカトルの宮殿に滞在させました。スペインとはどこだかわかりませんが、トラスカラやトトナカの軍勢、周辺諸国の王侯貴族を率いている以上は敵に回せば大変ですし、神の化身や使いだとすれば鄭重に扱わねばなりません。しかしこの頃、アステカの総督がベラクルスを攻撃し、7人のスペイン人と多数のトトナカ人を殺すという事件が起きます。またモクテスマもスペイン人やトラスカラ人が長居することを好まず、立ち去ってくれるよう要求しました。これを聞いたコルテスは11月14日に皇帝を自らの邸宅に招き、幽閉します。

 モクテスマはメンツを保つため「朕は先帝の宮殿に滞在しているだけであるぞ」と人々に告げましたが、コルテスは皇帝の権威を後ろ盾として首都にいた貴族や有力者を逮捕し、自分に従う者を優遇しました。また神殿の偶像のいくつかを取り除き、マリア像や十字架を立て、祭壇を置いてミサを行わせます。アステカ帝国は奇妙な二重統治状態に陥り、人々は混乱しました。

悲痛之夜

 こうした状態が半年ほど続いた後、ベラクルスでまた事件が起きます。キューバ総督ベラスケスが、命令に背いたコルテスを逮捕せよと部下のナルバエスをベラクルスに派遣したのです。1520年3月、彼は1500人の兵士と19隻の船を率いて出発し、途中で6隻の船を失ったものの4月にベラクルスに到達します。ナルバエスは居残っていたスペイン人の守備隊を攻撃し、センポアラを占領しますが、守備隊はトトナカ人と手を組んで頑強に反抗しました。

 1520年5月初め、コルテスは知らせを受けてベラクルスへ戻ることとし、120人のスペイン人を残してテノチティトランを立ち去ります。5月27日に周辺部族を率いてセンポアラに駆けつけると(375kmを25日で駆け抜けたとすれば1日15km、山岳地帯で大多数は歩兵ですからこんなもんでしょう)、激しい雨の中に奇襲をかけ、銃砲が使えぬナルバエス軍を散々に打ち破りました。ナルバエスは負傷して捕虜となり、彼が率いてきた軍勢はほとんどがコルテスに降伏したため、コルテスの勢力はさらに増す結果となりました。

 しかしこの間、テノチティトランで事件が起きます。帝都ではメシカの主神ウィツィロポチトリに生贄を捧げる祭礼が行われていましたが、留守を預かるスペイン人アルバラードらが宗教的義憤に駆られ、祭礼のために集まった人々を虐殺してしまったのです。怒ったメシカ人らはモクテスマが滞在しスペイン人が拠点とするアシャヤカトル宮殿に攻め寄せ、知らせを受けたコルテスは急いでテノチティトランに戻ります。この事件によってメシカ人はスペイン人を大いに恨むようになり、モクテスマを廃位して新皇帝を立てるべきだとし、モクテスマの弟クィトラワクを擁立しました。

 1520年6月29日、モクテスマはコルテスに要請されてアシャヤカトル宮殿を包囲するメシカ人の前に現れ、攻撃の中止を命じました。しかしメシカ人たちは「我らはもう新しい王を選びました」と答え、石や槍を投げつけて彼を弑殺してしまいます。コルテスらは暴徒と化したメシカ人の追撃を受けながら必死でテノチティトランを脱出し、命からがらトラスカラまで撤退しました。この敗北で150人のスペイン人、45頭の馬、2000人以上の同盟先住民が殺害されたといい、スペイン人は「悲しき夜」と呼んだといいます。

 こうしてスペイン人たちはテノチティトランから追放されました。しかしコルテスは捲土重来を期してトラスカラとの同盟を強め、ナルバエスの率いていた軍勢を再編成します。神はどちらに微笑むのでしょうか。

◆侵◆

◆略◆

【続く】

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