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【つの版】度量衡比較・貨幣105

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1630年、スウェーデン国王グスタフ2世アドルフは劣勢にあったプロテスタント諸侯を支援するため神聖ローマ帝国に侵攻し、翌年にはカトリック側の皇帝軍を打ち破ります。プロテスタント勢力はこぞって彼に味方し、グスタフは大軍を率いて南下を開始しました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Map_Thirty_Years_War-en.svg

◆Rise or◆

◆Fall◆


皇軍大敗

https://en.wikipedia.org/wiki/File:Map_of_the_Imperial_Circles_(1560)-en.svg

 1631年9月、スウェーデン・ザクセン連合軍はライプツィヒ近郊で皇帝軍を撃破しました。続いて二手に分かれ、ザクセン軍がボヘミア方面へ、スウェーデン軍がフランケン・バイエルン方面へと進軍します。同年11月にはザクセン軍によりプラハが陥落しますが、スウェーデン軍はティリー伯率いる皇帝軍の決死の抵抗に手こずります。グスタフは冬の間に西のマインツへ移動してプロテスタント諸侯と同盟し、呼号10万(実数3.7万余)の兵を集めてバイエルンへ進軍、1632年3月末にはバイエルン北部の都市ニュルンベルクに入城します。ボヘミアとバイエルンが落ちれば帝都ウィーンも危険です。

 南のミュンヘンに拠るバイエルン選帝侯マクシミリアンはフランスと秘密条約を結んでいましたが、グスタフの侵攻に恐れをなして条約を破棄し、ティリー伯を支援してグスタフを防がせます。ニュルンベルクとミュンヘンの間にはドナウ川が流れていましたが、ドナウ川と支流のレヒ川が合流するあたりにはスウェーデンと同じルター派の街ドナウヴェルトがあり、その南には同じくルター派の都市アウクスブルクがあります。グスタフはこちらからバイエルンを切り崩すべく南下し、ティリー伯と対峙します。

 ティリー伯はドナウ川とレヒ川を防衛線とし、両者の合流点の南東岸にある街ライン(Rain)を要塞化して待ち構えます。スウェーデン・プロテスタント諸侯連合軍は3.7万余、大砲は72門に及びましたが、ティリー伯率いる皇帝軍はドナウヴェルトやアウグスブルクに兵を割いており、ラインには兵2.2万、大砲20門しかありません。しかし要塞に籠もり川を防壁とすれば充分に持ちこたえられる戦力差です。

 1632年4月、グスタフは陽動の砲撃を行いつつ、精鋭のフィンランド騎兵部隊「ハッカペル」300名に強行渡河を命じます。彼らは浅瀬を押し渡って対岸に達すると土塁を築いて橋頭堡とし、続いてスウェーデン軍が一斉に渡り始めます。ティリー伯はこれを阻止すべく駆けつけますが、火縄銃の一斉射撃を受けて右太ももに重傷を負い、昏倒して戦線を離脱しました。

 スウェーデン軍は兵科を歩兵・騎兵・砲兵の三種に分けていました。これはオランダ総督マウリッツが考案したもので「三兵戦術」といいます。グスタフはさらに改良を加え、大砲を軽量化して移動を素早く行えるようにし、歩兵に軽量の小銃と銃剣を装備させて一斉射撃を行わせ、騎兵には抜刀突撃で敵陣を蹴散らさせたのです。

 ティリー伯ら高級将校の負傷により指揮系統が乱れ、皇帝軍は浮足立って崩れ出します。やむなくバイエルン選帝侯が指揮を引き継ぎ、大砲や荷物を捨てざるを得なかったものの、嵐と強風によって追撃を振り切り撤退させました。この戦闘で両軍とも2000人が死傷し、皇帝軍は1000人が捕虜となります。皇帝軍はドナウ川を下って東のインゴルシュタットまで逃げますが、ティリー伯はその地で息を引き取りました。グスタフはドナウ川を渡って5月にはミュンヘンに入城し、バイエルンの大部分を支配下におさめます。

皇軍反撃

 皇帝フェルディナントは恐れおののき、出身地のボヘミアに引退していたヴァレンシュタインを呼び戻します。彼は皇帝軍の指揮権、独自に和平・交渉を行う権利を認められ、復帰を受諾します。

 この頃ボヘミアはザクセン選帝侯の軍に蹂躙されていましたが、その元帥であるアルニムはルター派にも関わらずヴァレンシュタインの親友でした。ヴァレンシュタインは3ヶ月かけて4万の兵を集めると、アルニムと交渉してボヘミアから撤退させ、グスタフの背後を脅かします。本国スウェーデンを遠く離れ、遥かバイエルンまで進軍中のグスタフにとって、兵站は生命線そのものであり、ザクセンがヴァレンシュタイン側につけばおしまいです。

 1632年9月、グスタフはニュルンベルクまで戻り、ヴァレンシュタインと会見します。両軍はともに4万-5万と互角でしたが、ヴァレンシュタインは力押しをせず要塞線を構築してニュルンベルクを包囲し、補給を遮断して兵糧攻めにします。焦ったグスタフが敵陣へ攻め込むと、ヴァレンシュタインは巧みに守りつつ騎兵を出撃させ、疲弊した敵軍を蹂躙しました。グスタフ側は2500人が死傷し、1万人が病気で死亡し、1万人以上が脱走します。

 包囲するヴァレンシュタイン側も疲弊は大きかったものの、この間に彼はザクセンへ部下のホルク率いる騎兵隊を派遣し、騎行(掠奪)を行わせてグスタフとの同盟から離脱させます。グスタフは残った兵をまとめて必死で防衛線を突破し、ザクセンへ向かいました。

 1632年11月、ヴァレンシュタイン率いる皇帝軍とグスタフ率いるスウェーデン・プロテスタント連合軍はライプツィヒ近郊のリュッツェンで対峙し、決戦を行います。歩兵はともに1万余、騎兵は6000-7000と互角でしたが、皇帝軍は大砲24門(うち重砲は1門のみ)に対しプロテスタント軍は60門(うち重砲20門)を有し、火力では大きく上回りました。これに対しヴァレンシュタインは街道沿いに塹壕を掘らせて銃兵を伏せ、待ち構えます。両軍とも騎兵は左右両翼に配置され、大砲は歩兵戦列正面に主に配置されます。

 午前11時頃に霧が晴れると、グスタフは砲列に火蓋を切らせ、砲撃で援護させつつ中央の歩兵に前進を命じます。歩兵は塹壕を突破して皇帝軍の歩兵戦列を押し込み、大砲を奪い取りますが、ヴァレンシュタインは自ら騎兵を率いて駆けつけ、敵歩兵を押し戻します。左右の騎兵同士の戦闘では、プロテスタントの左翼側は敵の砲撃で前進できず、グスタフ率いる右翼側が敵左翼を圧倒して前進していました。グスタフは中央が崩れるのを防ぐため自ら少数の騎兵を率いて駆けつけますが、霧と硝煙と近視により敵中に突出してしまい、皇帝軍騎兵の突撃に巻き込まれて戦死しました。

 ところが視界が悪かったため両軍ともグスタフの戦死に気づかず、そのまま戦闘を続行します。午後3時にようやく悲報が伝わり、プロテスタント側は浮足立ちますが、副将ベルンハルトが指揮を引き継いで混乱を鎮め、宰相オクセンシェルナもこれを輔佐しました。両軍は死物狂いで最後の突撃を敢行し、双方に多大な死傷者を出しながらも、ついにプロテスタント側が皇帝軍を撤退に追いやります。ヴァレンシュタインはライプツィヒを経てボヘミアへ撤退し、プロテスタント側は敵の大砲と陣地を全て占領しました。

戦争続行

 ヴァレンシュタインを撃退してザクセンを奪還したものの、プロテスタント側が支払った代償も甚大でした。グスタフの死は士気を大いに低下させ、多くの将兵も喪失し、占領地は傭兵による掠奪や殺戮、放火で荒れ果て、物資の調達も困難な状況でした。しかしこの状況でスウェーデンが兵を引けばプロテスタント陣営は総崩れとなります。戦争続行しかありません。

 ベルンハルトはドイツ人の傭兵隊長であったため、スウェーデン人グスタフ・ホルンが総司令官となり、これまでの占領地を維持することにつとめます。ヴァレンシュタインはグスタフを討ち取ったものの戦いには敗れ、ザクセンを奪われたため立場が悪化し、積極的な攻勢に出られなくなります。

 オクセンシェルナはスウェーデン本国へ飛び戻り、6歳の王女クリスティーナを女王に擁立して摂政となります。そして翌年4月、南ドイツの帝国都市ハイルブロンでプロテスタント諸侯と改めて同盟を結びました。しかしザクセン選帝侯はスウェーデンが盟主となることを拒絶し、フランスも以前の条約を盾に資金援助凍結をちらつかせて脅しをかけたため、この同盟はカトリック国のはずのフランスの影響を大きく受けることとなります。しかもベルンハルトはホルンと反目し、同盟軍は一致団結できませんでした。

 1634年2月、ヴァレンシュタインは反逆の疑いで皇帝フェルディナント2世により暗殺され、皇帝の嫡男でボヘミアとハンガリー王であるフェルディナント3世が皇帝軍総指揮官の地位を受け継ぎました。皇帝軍はスペインからの援軍を得て南ドイツの領土を次々と奪還し、帝国都市ネルトリンゲンを包囲します。同盟軍はこれを救援すべく進軍し、決戦となりました。

 激戦の末に同盟軍は皇帝軍に敗れ、スウェーデンの将軍ホルンは捕虜となります。ザクセン選帝侯、ブランデンブルク選帝侯はハイルブロン同盟から離脱し、同盟軍指揮官ベルンハルトとともに1635年5月末にプラハで皇帝と和平条約を締結しました。帝国諸侯も皇帝との折衝の末に大部分が和平に同意し、残ったスウェーデン軍はポメラニアに撤退します。しかしフランスはスウェーデンをなおも支援し、ついに直接介入に踏み切ることになります。

◆Bloody Power◆

◆Fame◆

【続く】

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