見出し画像

【つの版】ウマと人類史:中世後期編19・皇弟流浪

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1481年、オスマン帝国皇帝メフメト2世は崩御しました。しかしオスマン帝国は滅ぶことなく、さらなる拡大を続けます。

画像1

◆楽園◆

◆放浪◆

皇弟流浪

 メフメト2世の息子にはバヤジット、ムスタファ、ジェムがいましたが、ムスタファは1474年に死亡しており、帝位は33歳のバヤジットと21歳のジェムによって争われます。バヤジットはアナトリア北東部のアマスィヤの総督として白羊朝を防いでおり、メフメトの政策に批判的な人々がその宮廷に集まります。対するジェムは旧カラマン侯国領コンヤの総督であり、詩作に優れ享楽的で、メフメトから最も愛されていたといいます。

 ジェムとはペルシア語ジャムの訛りで、古代イランの神代の帝王ジャムシード(アヴェスター語イマ・フシャエータ)に由来する名です。インド神話では人類の祖ヤマに相当し、漢訳仏典では閻魔と訳されました。北欧神話の原初の巨人ユミルとも同語源です。

 メフメトが崩御すると、大宰相カラマニ・メフメト・パシャは二人の皇子へ使者を送りますが、ジェムへ派遣された使者はバヤジットの娘婿シナン・パシャに引き止められ、バヤジットが先んじて情報を獲得します。また帝都ではイェニチェリが武装蜂起して大宰相を殺害し、バヤジットの子コルクトが摂政となって帝都の秩序を回復します。バヤジットは悠々と帝都に入り、皇帝に即位しますが、ジェムは6日後に兵4000を率いて駆けつけ、ブルサ近郊のイネギョルを占領して兄に反旗を翻します。

 ジェムは討伐軍を撃退するとブルサを都として自立を宣言し、兄に「私がアナトリア(アジア側)を治めるから、兄上はルメリア(ヨーロッパ側)を治められよ」と提案します。怒ったバヤジットは自らブルサに進軍し、ジェムは敗北して逃亡、緩衝国であるキリキアのアルメニア人王国ラマダーン朝を経て、シリアを支配するマムルーク朝に身を寄せます。バヤジットはジェムへ使者を派遣し「帝位を諦めると約束するなら、異国で不自由なく暮らせるよう充分な銀貨を与える」と手紙を送りますが、ジェムはこれを拒絶し、1482年にアナトリアへ舞い戻ります。

 彼はアンカラの知事やカラマン侯国のカシム・ベイ、マムルーク朝や白羊朝などの支援を受けており、コンヤを包囲して奪い返そうとしますが、バヤジットは再度これを打ち破ります。ジェムはロドス島の聖ヨハネ騎士団に招かれ、フランスの仲介でハンガリーと同盟する計画を立て、船でフランスへ亡命します。驚いたバヤジットはヴェネツィアへジェムの奪還を依頼しますが成功せず、フランスに使者を送って「弟の身柄を留め置くなら身代金を支払う」と約束します。マムルーク朝のスルタンからも「ジェムを多額のカネで受け取るから引き渡せ」と使者が送られます。

 フランス王ルイ11世はこの賓客を歓迎しますが持て余し、ローマ教皇インノケンティウス8世との協議の末、ローマへジェムを引き渡しました。教皇は彼を利用してオスマン帝国に対抗せんとし、ジェムにキリスト教への改宗を提案、十字軍結成を呼びかけます。しかしジェムは改宗を拒み、欧州諸国も難色を示しました。とはいえジェムが人質として他国にいる限り、いつでも彼を新たな皇帝に担いで反バヤジット派に呼びかけられる状態となったわけで、悩んだバヤジットは教皇と和平交渉を行います。結局、バヤジットはジェムの身代金として多額のカネを教皇へ送ること、欧州諸国を侵略しないことが取り決められます。ジェムの存在が抑止力として働いたのです。

東方戦線

 東方では、ジェムを支援したマムルーク朝がオスマン帝国との対立を深めます。1485年にバヤジットはアナトリア南部へ派兵しますが、マラティヤ付近の戦いで敗北を喫します。マムルーク朝は名目上アッバース朝のカリフを君主としており、マッカやマディーナ、エルサレムなど聖地をも支配下に置いていたため、イスラム世界においてはまだ相当の権威を誇っていました。スルタンのアシュラフ・カーイトバーイは名君で、軍事改革を行って富国強兵を進め、バヤジットとの戦争を有利に進めます。

 1488年、バヤジットは艦隊を派遣して海からマムルーク朝を攻撃させますが、ヴェネツィアの妨害や大嵐によって艦隊は壊滅し、アナトリア東部のトゥルクマーン(テュルク系ムスリム)諸族もマムルーク朝側についてオスマン帝国から離反します。カプクルやイェニチェリはキリスト教徒から改宗させられた皇帝の奴隷ですから、彼らが重用されてムスリムの自由人から富を奪い取っているのは許しがたいという意見も根強かったのです。バヤジットはどうにか持ちこたえ、マムルーク朝も度重なる遠征で財政が悪化し、1491年に北アフリカ(マグリブ)のハフス朝の仲介で和平しました。これによりキリキアはマムルーク朝の領土と定められます。

 ハフス朝はリビア北部とチュニジアを治める国で、13世紀前半に成立してから200年以上もこの地に君臨し、西のアルジェリアを治めるザイヤーン朝にも影響力を及ぼしていました。さらに西のモロッコにはワッタース朝、スペイン南部のグラナダにはナスル朝がありましたが、キリスト教国アラゴン・カスティーリャ連合(スペイン)に圧迫されて風前の灯です。

 1492年、ナスル朝はスペインに降伏して滅亡し、ムスリムやユダヤ教徒はキリスト教に改宗を命じられ、従わない者は国外へ追放されたり処刑されたりします。彼らは庇護を求めて対岸の北アフリカへ渡り、ここも危ないとなると東へ逃れ、ついにはマムルーク朝やオスマン帝国へ流れ込みました。バヤジットは彼らを庇護して商人・学者・文人・技術者を重用し、国政改革を行って国際的な劣勢を跳ね返そうとします。

劣勢挽回

 幸い、1490年には白羊朝の君主ヤアクーブとハンガリー王マーチャーシュが逝去し、1495年にはマムルーク朝の君主カーイトバーイ、バヤジットの弟ジェムが相次いで逝去します(暗殺とも)。ローマ教皇はナポリを巡ってフランス王と対立しており、フランス軍がイタリアを蹂躙する有様でした。これを好機とみたバヤジットは、久しぶりに遠征を開始します。

 1492年にはハンガリー領ベオグラードを攻撃し、これは失敗したものの、モルダヴィアを属国化することに成功します。またドナウ川河口部、黒海西岸のブジャク地方を制圧し、ここを通って属国クリミアの騎兵戦力が投入できるようにしました。1495年にはハンガリーと10年間の休戦条約を締結し、北方と東方、南方を安定化させると、ついに西方へ再び目を向けます。

 オスマン帝国は陸軍が主力で、海軍はいまいち強くありませんでしたが、この頃に海戦のプロとして地中海の海賊を雇い入れました。エーゲ海や北アフリカ沿岸部にはムスリムの海賊が長年跳梁跋扈しており、ヴェネツィアやスペインの船を襲っていたのです。また西欧からも積極的に造船技術や海事知識を人間ごと導入し、帝国海軍を増強します。

 1499年、バヤジットはギリシア西部のヴェネツィア領レパント(ナフパクトス)へ陸路で親征します。ここはパトラ湾とコリントス湾を扼する要地です。別働隊としてアドリア海からオスマン艦隊が南下し、陸海からレパントを攻め立てます。ヴェネツィア艦隊は応戦しますが撃破され、8月にレパントはオスマン帝国に占領されました。

 1500年にはモレア(ペロポネソス)半島南端に出兵し、ヴェネツィアの拠点モロン、コロン、ナヴァリノを制圧します。ヴェネツィアは教皇庁に働きかけてスペイン・フランス・ハンガリーと軍事同盟を締結しますが、連合艦隊の規模は小さく、バヤジットは優勢を保ったまま1502年末にヴェネツィアと講和しました。一声で万の軍勢を召集できるオスマン皇帝に対し、ヴェネツィアは経済力はともかく軍事的には劣勢で、西欧諸国も一致団結とはいきません。抑止力であったジェムもいないのです。

 これら東方の脅威に対抗する必要もあり、ポルトガルやスペインは大西洋へ進出し、アフリカやアジアの富を獲得しようとしました。ポルトガルの冒険家たちはアフリカ大陸を海岸沿いに進み、1488年にバルトロメウ・ディアスがアフリカ南端の喜望峰を発見しています。1492年にはジェノヴァ出身のコロンブスがスペインの支援を受けて大西洋を横断、インディアス(アメリカ大陸)に到達しました。1496年にはポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰を越えて東アフリカに至り、インド洋を横断して南インドのコーリコード(カリカット)まで到達しています。1500年にはポルトガルのカブラルが同じくインドへ向かおうとしますが、偶然にもブラジルに到達しました。航路が発見されるとポルトガル艦隊は次々にアフリカやインドへ送り込まれ、イスラム諸国の海上交易路を南から脅かし始めます。

薩非王朝

 1501年、東方では白羊朝の首都タブリーズがシーア派のサファヴィー教団に攻め落とされ、14歳の教主イスマーイールがシャー(国王/皇帝)に即位してサファヴィー朝を建国しました。彼は白羊朝の名君ウズン・ハサンの娘を母とし、テュルク語でクズルバシュ(赤いターバン)と呼ばれる信徒から救世主として崇められていました。彼らはこの地に住まうトゥルクマーン、テュルク系ムスリムの騎馬遊牧民で、勇猛果敢にして狂信的でした。

 当初はオスマン帝国と友好関係を結び、1508年にバグダードを落として白羊朝を滅ぼすと、東へ目を向けます。当時中央アジアとイラン高原ではティムール朝が崩壊し、ウズベク人を率いるシャイバーニー朝が南下して勢力を広げていました。イスマーイールはこれに乗じてイラン高原を攻め取り、1510年にはシャーバーニー朝の君主ムハンマドを討ち取ります。その首は髑髏杯に加工され、バヤジットのもとへ送りつけられました。

 さらにイスマーイールはサファヴィー教団の宣教師をオスマン帝国へ送り込み、各地に信者を増やしていました。特にアナトリアは同類のトゥルクマーンが多く、西欧かぶれの中央政府に反感を抱いていましたから、草木が靡くように信者は増え、シャー・クル(シャーであるイスマーイールの奴隷)を名乗って1511年に大反乱を起こしました。バヤジットは皇子らや宰相を派遣して反乱を鎮圧させようとしますが手こずり、民心はますます離れます。これを契機として第三皇子セリムがクーデターを仕掛け、イェニチェリの支持を集めて1512年に父を廃位し、47歳で自ら帝位につきました。

 バヤジットはまもなく65歳で崩御し(暗殺とも)、セリムの兄たちも始末されます。30年に及んだバヤジットの治世はここに終わり、「冷酷なヤヴズ」と呼ばれるセリムの時代が訪れました。彼は8年という短い治世の間に領土を大きく広げ、オスマン帝国は黄金時代を迎えるのです。

◆ラス◆

◆プーチン◆

【続く】

つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。