見出し画像

【つの版】ウマと人類史EX10:諸国官牧

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 7世紀後半、倭国の同盟国の百済・高句麗は唐・新羅によって滅ぼされ、多くの難民が倭国に亡命しました。倭国/日本は国防のため彼らを東国などへ遷し、牧(まき/うまき)を管理させることになります。

◆牧◆

◆馬◆

諸国官牧

 西暦660年、百済は唐・新羅連合軍に滅ぼされます。倭国は百済の残党を支援しますが663年に白村江の戦いで敗れ、半島から撤退します。そして668年10月、唐は高句麗を攻め滅ぼしました。同年正月、中大兄皇子が7年の間称制(即位せずに統治)していたのをやめて天皇(倭王)に即位していますが、『日本書紀』では称制より元年としているため、この年は天智天皇7年にあたります。同年7月「近江国で講武(軍事演習)し、また多くを置いて馬を放った」と日本書紀にあり、半島情勢の緊迫化により軍備が増強されたことがわかります。百済や高句麗からの亡命者は、こうした牧に派遣されて馬の養成にあたったことでしょう。

 これらの牧では軍馬だけでなく、駅馬や伝馬、農耕や運送用の牛馬も飼育されていました。倭国/日本の駅伝制は唐の制度を真似たもので、遅くとも天智天皇の時には存在し、情報伝達のために活用されています。駅(驛)路には30里(16km)ごとに駅家が置かれ、駅鈴を身に着けた使者が駅馬を乗り継いで1日に8駅(128km)から10駅(160km)を駆けました。伝(傅)は車を乗り継ぐことを意味し、駅使ほど急速ではない使者が伝符を身に着けて利用しました。使者が直接移動せず、文書などが駅家間でリレーされる逓送使という方式もありました。

 672年に天智天皇が崩御すると、大友皇子と大海人皇子の間で皇位継承を巡って争いが起き(壬申の乱)、牧の軍馬も内戦に駆り出されました。廬井鯨(いおいの・くじら)という人物は近江の大友皇子側につき、南の倭(大和国)に攻め込んで大海人皇子側の軍と戦っています。7月、彼は精兵200を率いて敵将の大伴吹負の本営を攻撃しますが、弓兵に押し留められている間に背後から置始菟(おきそめの・うさぎ)らが率いる騎兵1000の突撃を受け敗走します。鯨は白馬に乗って逃げましたが、馬が泥田にはまって身動きがとれなくなり、大伴吹負は甲斐の勇者(たけきひと)という無名の戦士に命じて鯨を攻撃させました。勇者は馳せかかって鯨を射ようとしますが、鯨は白馬に鞭打って泥田から抜け出させ、必死で逃走したといいます。甲斐では古くからウマが飼育されており、彼も騎射の技術を身に着けた騎兵だったのかも知れませんが、詳細は不明です。またこれに先立って来目という勇士が河内から攻め込んできた敵軍に騎兵突撃を行い、撃退に追い込んでいます。

『続日本紀』文武天皇4年(700年)3月条には「諸国をして牧地を定め、牛馬を放たしむ」とあります。翌年(大宝元年/701年)には唐の律令を模倣して大宝律令が制定されましたが、その中の「厩牧令」「厩庫律」が牧に関する基本法です。「諸国の牧」は兵部省に属する兵馬司が総轄し、各国の牧は国司の監督下にありました。慶雲4年(707年)には鉄印を摂津・伊勢など23ヶ国に給付し、牧の仔馬・仔牛に焼印を押させたとあり、広範囲に官営の牧が存在したことがわかります。

 牧には牧長(責任者)・牧帳(事務官)1名ずつが置かれ、牛馬100頭ごとに牧子2名が飼育や管理にあたります。放牧中の牛馬を痩せさせたり失ったり、規定の増産数(母100頭に対して子60頭)に達しない場合には牧官が処罰されましたが、規定以上に増産した場合は褒美を賜りました。

 諸国には徴兵制(兵役)が敷かれて「軍団」が置かれ、半島などからの侵略に備えた他、蝦夷や隼人、国内の反乱者に対して動員されました。しかし軍団兵の士気や練度は低く、次第に健児(こんでい)という精鋭兵が選抜・募集されるようになります。彼らは武芸の鍛錬を積み弓馬に秀でた者で、特に優れた者は中央に集められて近衛兵となり、政治抗争に関わりました。

左右馬寮

 諸国の牧で生産された牛馬のうち、優れたものは畿内(首都圏)や近畿地方へ、西海道(九州)諸国からは大宰府へ送られ、宮廷での儀式や行幸、護衛などに用いられました。これは馬寮(めりょう)という部署が管轄し、唐制でいう典厩(てんきゅう)にあたります。馬寮は直轄の厩舎や牧(寮牧)を持ち、また畿内・近畿・大宰府に置かれた「近都牧」を管轄しました。また馬寮の官人は武官として帯剣を許され、治安維持にもあたりました。

 馬寮は首都圏の軍事や治安維持、輸送や伝令を司るのですから責任重大で、当初は権力が集中しないよう左右に分けられ、各々を頭(かみ)が統括しました。これを左馬頭(さまのかみ)・右馬頭(うまのかみ)といいますが、712年には皇族の葛木王(橘諸兄)が左右馬寮を統括する馬寮監(めりょうげん)に任命されています。律令に定められていない官職(令外の官)のひとつです。彼は昇進を重ね、8世紀中頃まで権力を振るいました。

 馬寮の原型は、古来倭王権に仕えた職能集団である馬飼部(うまかいべ)に遡ります。彼ら1000戸余は律令制に組み込まれて飼戸(しこ)と呼ばれ、馬寮のもとで下級官人の馬甘(うまかい)・馬部(うまべ)となり、実際に馬の飼育・養成を担いました。出仕中は雑役等が免除され、それ以外の時は秣(まぐさ、馬の飼料となる草)を貢納したといいます。

 大宝令や養老令において、天皇や首都圏の警備は衛門府・左右衛士府・左右兵衛府の五衛府が担いました。しかし707年には令外の官として授刀舎人寮が、728年にはこれを昇格させる形で中衛府が設置され、五衛府の上に置かれます。また759年には授刀衛が設置され、765年にはこれを近衛府と改称しました。天皇や皇族、藤原氏など中央貴族の勢力争いによるものですが、近衛府には内厩寮という部署が置かれ、宮中の厩を司ると定められます。

 中央には馬寮がありますが、内厩寮は天皇直轄の牧(勅旨牧)を司り、優れた軍馬を飼育・養成・供給する役目を担っていました。781年には左右の馬寮が再編されて「主馬寮」となり、792年には桓武天皇が軍団の大部分を廃止します。808年には内厩寮・主馬寮・兵馬司が再編され、主馬寮が「左馬寮」、内厩寮が「右馬寮」となって兵馬司は廃止されます。

 こうして平安時代の日本には「諸国牧(官牧)」「近都牧(寮牧)」「勅旨牧(御牧)」の三種の牧が存在することになりました。10世紀に編纂された『延喜式』には各々の場所が記録されています。見ていきましょう。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Gokishichido_Seven_Circuits_Japan_Map.png

諸牧分布

諸国牧
東海道 駿河 2 岡野・蘇弥奈馬牧
    相模 1 高野馬牛牧
    武蔵 2 檜前馬牧、神埼牛牧
    安房 2 白浜・[金分]師馬牧
    上総 2 大野馬牧、負野牛牧
    下総 5 高津・大結・木島・長洲馬牧、浮島牛牧
    常陸 1 信太馬牧
東山道 下野 1 朱門馬牧
東国  8国 16牧 馬12・牛3・馬牛1

山陰道 伯耆 1 古布馬牧
山陽道 備前 1 長嶋馬牛牧
    周防 2 竈合馬牧、垣嶋牛牧
    長門 2 宇養馬牧、角嶋牛牧
南海道 土佐 1 沼山村馬牧
    伊予 1 忽那嶋馬牛牧
中四国 6国 8牧 馬4・牛2・馬牛2

西海道 筑前 1 能臣嶋牛牧
    肥前 6 鹿嶋・庇羅・生属馬牧、柏嶋・樋野・早崎牛牧
    肥後 2 二重・波良馬牧
    日向 6 野波野・堤野・都農野馬牧、野波野・長野・三野原牛牧
    4国 15牧 馬8・牛7

合計  18国39牧 馬24・牛12・馬牛3
駿河
 岡野 :静岡県沼津市 愛鷹山南東麓
 蘇弥奈:静岡県静岡市曽比奈か 愛鷹山西麓

相模
 高野 :神奈川県南足柄市か

武蔵
 檜前 :埼玉県北部の児玉郡・大里郡か 東京都台東区浅草とも(付会?)
 神埼 :埼玉県春日部市内牧か 東京都新宿区牛込とも(俗説?)

安房
 白浜 :千葉県南房総市白浜町白浜 房総半島南端
 分師 :千葉県南房総市珠師ケ谷 本字は[金分]師

上総
 大野 :千葉県いすみ市大野、市原市駒込など諸説あり
 負野 :千葉県袖ケ浦市飯富か

下総
 高津 :千葉県八千代市高津か 現・自衛隊習志野演習場 多古町高津原とも
 大結 :茨城県結城郡八千代町大間木か 茨城県常総市大生郷町から同市古間木一帯とも
     中世の夏見御厨や意富比神社=船橋大神宮と結びつけて船橋市夏見とも
 木島 :埼玉県幸手市か
 長洲 :茨城県坂東市長須か 利根川の傍
 浮島 :千葉市花見川区幕張か 東海道浮島駅の比定地

常陸
 信太 :茨城県稲敷郡美浦村信太か

下野
 朱門 :栃木県栃木市藤岡町赤麻 渡良瀬遊水地の北

伯耆
 古布 :鳥取県東伯郡琴浦町古布庄 伯耆大山の北西

備前
 長嶋 :岡山県瀬戸内市邑久町虫明 長島

周防
 竈合 :山口県上関町 長島 蒲井(かまい)村がある
 垣嶋 :山口県光市 牛島

長門
 宇養 :山口県下関市豊浦町小串(旧宇賀村)
 角嶋 :山口県下関市豊北町 角島

土佐
 沼山村:高知県幡多郡三原村今ノ山

伊予
 忽那嶋:愛媛県松山市野忽那島 忽那諸島

筑前
 能臣嶋:福岡県福岡市西区 能古島

肥前
 鹿嶋 :佐賀県鹿島市
 庇羅 :長崎県平戸市 平戸島
 生属 :長崎県平戸市 生月島
 柏嶋 :佐賀県唐津市 神集島
 樋野 :長崎県 島原半島
 早崎 :長崎県 島原半島南端

肥後
 二重 :熊本県阿蘇市車帰 二重峠付近(阿蘇外輪山の西部)
 波良 :熊本県阿蘇市西湯浦か(阿蘇外輪山の北西部)

日向
 野波野:宮崎県小林市野尻町か 野後(のじり)に駅がある
 堤野 :宮崎県小林市堤 小林盆地
 都農野:宮崎県児湯郡都農町 都農牧神社
 長野 :宮崎県都城市高城町 長野神社か
 三野原:宮崎県西都市三納か
近都牧
五畿内 摂津 3 鳥養、豊嶋、為奈野
東山道 近江 1 甲賀
山陰道 丹波 1 胡麻
山陽道 播磨 1 垂水
    4国 6牧 摂津の3牧は右馬寮、他の3牧は左馬寮が管轄
摂津
 鳥養 :大阪府摂津市鳥飼
 豊嶋 :大阪府箕面市
 為奈野:兵庫県伊丹市稲野

近江
 甲賀 :滋賀県甲賀市信楽町牧

丹波
 胡麻 :京都府南丹市日吉町胡麻 胡麻川がある

播磨
 垂水 :兵庫県神戸市垂水区、または兵庫県小野市垂水町(加古川流域)
勅旨牧
左馬寮(もと主馬寮)
 甲斐 3 穂坂・真衣野・柏前
 信濃 16 山鹿・塩原・岡屋・平井手・笠原・高位・宮処・埴原・大野・大室・
      猪鹿・萩倉・新治・長倉・塩野・望月

右馬寮(もと内厩寮)
 上野 9 利刈・有馬島・沼尾・拝志・久野・市代・大藍・塩山・新屋
 武蔵 4 石川・小川・由比・立野 

合計4国32牧
甲斐(山梨県)
 穂坂 :韮崎市穂坂町 甲府盆地北西部
 真衣野:北杜市武川町牧原 「まきの」と読む
 柏前 :北杜市高根町念場原 「かしわざき」と読む 八ヶ岳南麓

信濃(長野県)
 山鹿 :茅野市豊平           諏訪郡
 塩原 :上田市浦野、小県郡青木村    小県郡
 岡屋 :岡谷市             諏訪郡
 平井手:上伊那郡辰野町平出       伊那郡
 笠原 :伊那市美篶           高井郡
 高位 :上高井郡高山村高井牧      高井郡
 宮処 :上伊那郡辰野町伊那富宮所      伊那郡
 埴原 :松本市中山・内田        筑摩郡 「はいばら」と読む
 大野 :松本市波田           筑摩郡
 大室 :長野市松代地区大室村      水内郡
 猪鹿 :安曇野市穂高          安曇郡 「いが」と読む
 萩倉 :諏訪郡下諏訪町萩倉       諏訪郡
 新治 :東御市祢津地区新張       小県郡 「みはり」と読む
 長倉 :北佐久郡軽井沢町        佐久郡
 塩野 :北佐久郡御代田町        佐久郡
 望月 :佐久市望月・浅科、東御市北御牧 佐久郡

上野(群馬県)
 利刈 :渋川市北牧・南牧か 「とかり」と読む
 有馬島:渋川市有馬
 沼尾 :吾妻郡長野原町羽根尾か(諸説あり) 沼尾川流域
 拝志 :渋川市赤城町(林庄)
 久野 :沼田市上久屋町・下久屋町
 市代 :中之条町市城
 大藍 :沼田市白沢町尾合
 塩山 :甘楽郡南牧村大塩沢
 新屋 :甘楽郡甘楽町

武蔵
 石川 :東京都八王子市石川町か 神奈川県横浜市青葉区元石川町とも
 小川 :東京都あきる野市小川か 町田市の小川とも
 由比 :東京都八王子市四谷町・弐分方町 「ゆい」と読む 由比野とも
 立野 :埼玉県さいたま市緑区大牧か
     川口市西立野、町田・八王子・府中・立川・横浜市など諸説あり

 39+6+32=77牧です。牧数では信濃が16と突出して多く、ついで上野の9、肥前と日向の各6(ただし牛馬半々)、下総の5(うち牛牧1)、武蔵の4などとなっています。また承平年間(931-938年)には勅旨牧に武蔵の2牧(阿久原・小野)が増設されましたが、これは宇多院と陽成院が私有していた牧を編入したものです。他にも民間の牧は数多くあったでしょう。

 勅旨牧からは毎年8月に朝廷へ馬を貢納する「駒牽」が行われ、甲斐から60疋、信濃から80疋、上野から50疋、武蔵から50疋、合計240疋が献上されました。武蔵に2牧が増えると60疋が増やされ総勢300疋となります。これらの牧には中央から牧監(もくげん、武蔵には別当[べっとう])が派遣され、監督していました。こうした官営・民営の牧を司る者たちの中には、武力や経済力によって他者を兼併し、中央政界と繋がりを持つ者も現れます。東国の豪族で「相馬小次郎」の異名を持つ平将門はその代表格です。

◆馬◆

◆娘◆

【続く】

つのにサポートすると、あなたには非常な幸福が舞い込みます。数種類のリアクションコメントも表示されます。