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【つの版】ウマと人類史:近世編11・皇子撃殺

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 1576年、ステファン・バートリがポーランド王に選出されると、ロシアは混乱に乗じてリヴォニアを攻め、大部分を占領します。20年近く続いてきたリヴォニア戦争は最終段階に入ろうとしていました。

◆雷◆

◆撃◆

対露反撃

 モスクワ・ロシアのツァーリ・イヴァン4世は、1570年から亡命したデンマークの王子マグヌスを「リヴォニア王」とし、彼を傀儡としてリヴォニアを支配しようとしていました。ポーランド・リトアニアで国王選挙を巡る混乱が続いたため、ロシアはようやくリヴォニアへ攻勢に出、かなりの部分を制圧することに成功します。ポーランドの大貴族(マグナート)たちの中には親ハプスブルク派も多く、ポメラニア地方の港町グダニスクでは大貴族によるステファンに対する反乱が勃発しました。こうした国難に対し、大貴族の一人ザモイスキはステファンを強力に支持します。

 彼は北イタリアのパドヴァ大学に留学した知識人で、共和政ローマの研究を行い、これをポーランドに応用すべきであると考えます。元老院/議会と市民が主権者であって、皇帝や国王はその第一人者に過ぎず、その権力は法律によって制限されるというもので、いわゆる議会政治と立憲君主制です。英国やオランダではぼつぼつ見られましたが、皇帝が絶対的専制君主として君臨するオスマン帝国やモスクワ・ロシアとは真逆の政治体制です(オスマン帝国では大宰相が国政を担っていますが、皇帝の代理人に過ぎません)。

 彼は1565年から秘書官としてポーランド王ジグムント2世に仕え、彼が1572年に亡くなると、中小の貴族(シュラフタ)を含む全貴族による議会(セイム)での国王選挙を提唱しました。彼はハプスブルク家やモスクワ、オスマン帝国の影響を防ぐため、第一回投票ではフランス王子アンリを、彼が逃亡して行われた第二回投票ではステファン・バートリを支持しました。彼はグダニスクなどでの反乱を鎮圧し、立憲君主制を維持しつつもステファンへの中央集権を進め、リヴォニア奪還を目指します。

 1577年、リヴォニア王マグヌスはロシアから自立しようと図り、リヴォニア貴族やポーランド・リトアニアに支援を呼びかけ、ウェンデン(現ラトビアのツェーシス)の要塞に立て籠もります。怒ったイヴァンは軍隊を派遣してマグヌスを逮捕させ、ウェンデンを包囲させますが、残った籠城者らは火薬庫に火をつけて自爆し、要塞をロシア軍が使えないよう破壊しました。

 12月、ポーランドとスウェーデンはロシアに対して同盟を結び、リヴォニアを奪還すべく進軍します。1578年、両国の軍隊はウェンデンを占領し、スウェーデンはタリンを中心としてリヴォニア北部(エストニア)を、ポーランドはリガを中心としてリヴォニア中南部(ラトビア)を制圧していきました。ロシア軍はウェンデンを奪還すべく攻め寄せますが、西側連合軍はこれを撃破して勝利をおさめます。ポーランド軍は多くの傭兵からなる「多国籍軍」で、指揮系統は一本化されていませんでしたが、それぞれが勇敢に戦ってロシア軍を打ち破り、1579年にはポロツクを奪い返しました。

 ポロツク近郊(現ベラルーシ北部)の城は全て占領され、1580年にはヴェリーキエ・ルーキヴェリジが制圧されます。イヴァンはやむなくポーランドに停戦を呼びかけ、ナルヴァを除くリヴォニアを返還すると約束して講和しようとします。しかしステファンはナルヴァを含む全リヴォニアの返還、ノブゴロドとプスコフの割譲、巨額の賠償金を求めました。1581年にはスウェーデンがナルヴァを占領し、ポーランドがプスコフを包囲にかかり、焦ったイヴァンはローマ教皇に対オスマン十字軍への参加を持ちかけ、教皇を仲介として和平交渉を進めようとします。

皇子撃殺

 こうした中、1581年11月にはイヴァン4世の皇太子イヴァンが父の手によって殺されます。彼は父の最初の妻アナスタシアの子で、兄ドミトリーが夭折し、弟フョードルに知的障害があったことから、跡継ぎとして期待されていました。しかし父とは妻を巡って対立し、最初の妻エウドキシヤと二番目の妻フェオドシヤは父に気に入られず、修道院に追放されています。三番目の妻エレナも父に憎まれましたが、1581年に懐妊しました。

 ところが度重なる敗戦や病気で苛立っていたツァーリは癇癪を爆発させ、妊娠中のエレナに「妊婦が薄手の衣服を着るな!」と怒って殴りかかりました。彼女は床に突き倒されて何度も足蹴にされ、妻の悲鳴を聞いた皇子イヴァンは助けに駆けつけます。息子とその妻に逆らわれ、家父長としてのメンツを潰されて怒り狂ったツァーリは、錫杖で息子を滅多打ちにし、彼の頭を打ち砕きます。遺骨によれば彼の身長は178cm、体重は85-90kgもあったといいますから、相当な腕力があったでしょう。

 その場に居合わせた家臣ボリス・ゴドゥノフがツァーリを止めようとしますが、彼も錫杖で殴られて怪我を負います。ようやく正気に戻ったツァーリは愕然としました。皇子はこの時の傷が原因で数日後に死亡し、エレナは生き延びたものの流産してしまいます。ツァーリは罪悪感に苛まれて不眠症に罹り、ますます正気を失っていきました。

 あまりに劇的なので本当かどうかわかりませんが、皇太子イヴァンがこの頃に死んだのは確かなようです。ボリスは妹イリナを皇太子の弟フョードルに嫁がせており、彼がフョードルを帝位につけて実権を握るために仕組んだことなのかも知れませんが、真相は定かではありません。

大戦終結

 1582年1月、ポーランド・リトアニアとモスクワ・ロシアはローマ教皇の仲介によって講和条約を締結し、10年間休戦して各々の領土を戦争開始以前に戻すことを取り決めました。ポーランド軍はプスコフの包囲を諦めて撤退します。1583年にはスウェーデンとの間にプリューサ条約が結ばれ、ナルヴァとラドガ湖西岸地域はスウェーデンの手に譲渡されました。

 ロシアはリヴォニアから完全に追い出され、バルト海への出口は塞がれて開戦以前の状態に戻ったのです。25年にも及んだうえに敗戦で終わった大戦争はロシアを著しく荒廃させ、重税や飢饉に苦しむ農民は難民化して国外へ逃れ、自由を求めてコサックや盗賊となりました。

 イヴァンはこの頃何番目かの妻マリヤ・ナガヤを娶っており、1582年に53歳にして皇子を儲け、夭折した長男と同じくドミトリーと名付けました。三男フョードルは知的障害者で帝位につくには不適格とみなされており、ドミトリーが立派に成人すればイヴァンも安心してあの世へ行けます。ただイヴァンは既婚者にも関わらずしつこく英国王室の女性との婚姻を望んでおり、英国は回答を先延ばしにしてあしらっています。

東方拡大

 晩年のイヴァンにとって数少ない朗報は、東方からもたらされました。大貴族ストロガノフ家はツァーリの権力を後ろ盾にしてヴォルガ川上流域の森林地帯へ冒険開拓団を派遣し、地元住民に毛皮をせっせと集めさせ富を蓄えていましたが、1574年にはついにウラル山脈を越えてシビル・ハン国の版図まで到達します。ストロガノフ家は事業拡大のためにコサックを雇い、砦を建設して襲撃を防ぎ、河川交通を利用してシビル・ハン国を襲わせます。

 1579年か1581年、ストロガノフ家の傭兵イェルマーク率いる500人余りの部隊は、火縄銃を携えてシビル・ハン国の首都カシリクを襲撃します。シビル・ハンのクチュムらはやむなく草原地帯へ撤退し、イェルマークはカシリクを占領しますが、別にシビル・ハン国が滅亡したわけではありません。1584年には反撃を受けてイェルマークが戦死しています。

 広大で自由な東方へは多くの逃亡農民やコサック、盗賊らが移住し始め、開拓が進められて行きます。西欧諸国が海洋進出を行い植民地を築いたように、ロシアは東方の内陸ユーラシアへ進出したのです。ただしこの征服活動は河川交通で繋がり強力な遊牧政権の少ない北方の森林地帯に限られ、その南に広がるカザフ草原の遊牧民たちやホラズム、ブハラ、オイラトやモンゴルなどに対しては直接対決を挑んでいません。

 1584年3月、イヴァン4世は側近ボグダン・ベルスキーとチェスをしている時に失神し、3月18日に脳卒中の発作を起こして54歳で崩御しました。遺言により三男フョードルが擁立されて即位し、ボリス・ゴドゥノフら五人の摂政団が後見人となりました。モスクワ・ロシアは荒廃しつつも東方の大国として存続し、しばし小康状態を迎えることとなります。

 イヴァン4世は、18世紀前半のロシアの歴史家ヴァシーリー・タチシェフの著書『ロシアの歴史』において、グローズヌィ(groznyj)というあだ名をつけられています。これは英語でterrible(恐ろしい、恐怖、ひどい)と翻訳されますが、ロシア語のニュアンスとしては「峻厳、威厳がある、恐怖によって畏敬される」といったもののようで、formidable(手強い、恐るべき、畏敬される)と訳す説もあります。ロシア語grozaには「恐怖」の他に「雷雨」の意味もあることから、いつしか「雷帝」と和訳されました。実際天災めいて恐ろしい暴君であったことに違いはありませんが。

◆雷◆

◆撃◆

 タイムリーにもロシアとツァーリズムの原型をたどることができました。次からはロシアを離れ、同時代のイランやインド、中央アジア諸国、そしてモンゴル高原へ戻っていくこととしましょう。

【続く】

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