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【つの版】ウマと人類史:近世編・インデックス

 ドーモ、三宅つのです。新たにインデックスを作りました。

 つのの記事はつのに属しますが、ミームが広がるのは歓迎しますので、紹介したり感想を書いたりする程度はご自由にして下さい。You Tubeとか書籍とかでつのの記事に基づく仮説を披露しても構いませんが、その場合は出典を明記して下さい。つのも参考文献一覧を作りました。

 なお主な舞台となる中央ユーラシアは大変広く、世界各地に話が飛びますので、世界地図をご用意下さい。なければGoogle Mapで充分です。

◆序◆

01.海洋進出

 今から500年前、世界はどのような様相だったのでしょうか。

◆スレイマン大帝編

02.欧州遠征

 1520年に即位したオスマン皇帝スレイマン1世は、ハンガリーの東半分を征服し、ウィーンを包囲してヨーロッパ世界を脅かします。

03.女人天下

 スレイマンは東方ではサファヴィー朝を破り、地中海では欧州連合艦隊を撃破します。その宮中では権謀術数が渦を巻いていました。

04.老帝晩年

 スレイマンは晩年に至るまで戦い続け、1566年に戦場で崩御します。

◆イヴァン雷帝編

05.雷帝戴冠

 1547年、モスクワ大公国でイヴァン4世が戴冠式を行いました。

06.俄羅称帝

 モスクワ大公国は、ルーシとローマの正統後継者であると称しました。

07.喀山征服

 1552年、モスクワ・ロシアはカザン・ハン国を征服しました。1556年にはアストラハン・ハン国を占領し、ヴォルガ川流域を制圧します。

08.利沃紛争

 1558年、モスクワ・ロシアはバルト海沿岸のリヴォニアへ侵攻します。

09.恐怖政治

 長引く戦争により国内には不満が鬱積しますが、イヴァン4世はモスクワ市民を煽動して非常大権を獲得、恐怖政治を敷きます。

10.莫斯炎上

 1571年、クリミア・ハン国はモスクワを襲撃して火を放ちました。

11.皇子撃殺

 リヴォニア戦争に敗れたイヴァン4世は、苦悶のうちに崩御しました。

◆韃靼動乱編

12.西域韃靼

 近世ユーラシア世界では、モンゴル帝国の後継国家が栄えていました。

13.黄金可汗

 モンゴルの君主アルタン・ハンは明朝と和平し、チベット仏教を導入して権威の箔付けとしました。

14.建州女直

 モンゴルの東方では、女真/女直族が再び勢力を伸ばし始めます。

15.秀吉侵攻

 1592年、日本の豊臣秀吉は朝鮮へ大軍を派遣し、明朝を脅かしました。

16.後金建国

 女直族をまとめあげたヌルハチは、明朝へ反旗を翻します。

17.大清建国

 ヌルハチの子ホンタイジは大元・モンゴル帝国から天命が遷ったと称し、国号を後金から大清と改めました。

18.明清交替

 1644年、清朝はチャイナの征服を開始します。この頃はモンゴルやオイラト、チベットも激動の時代でした。

◆清露紛争編

19.動乱時代

 1598年、フョードル1世の崩御により、モスクワのリューリク朝は断絶します。

20.羅曼王朝

 ポーランドの侵攻による大動乱の末、1613年にミハイル・ロマノフが新たなツァーリに擁立され、ロマノフ朝が始まります。

21.西伯征服

 16世紀末から17世紀半ばにかけ、ロシアは河川伝いに要塞を置き、シベリアを征服していきます。

22.清露紛争

 アムール川流域まで進出したロシアに対し、清朝は反撃を行います。

23.哥薩大乱

 1648年にポーランドでコサックの大反乱が起きると、ロシアはこれに乗じて西へ勢力を広げます。

24.噶爾丹汗

 ロシアと清朝が争う中、オイラト部族連合がジュンガル部のガルダン・ハンによって統一され、中央アジアに覇を唱えます。

25.蒙蔵平定

 清朝はジュンガルに反撃し、モンゴルとチベットを平定します。

◆ピョートル大帝編

26.西欧歴訪

 1694年に親政を開始したロシア皇帝ピョートルは、開明的な君主でした。

27.北方戦争

 ピョートルは国政改革を行い、デンマーク・ポーランドと同盟し、バルト海の大国スウェーデンとの戦争に踏み切ります。

28.瑞露大戦

 ピョートルはスウェーデンとの大戦争に勝利し、ついにバルト海東部の覇者となって、「全ロシアのインペラートル」を名乗りました。

29.大帝崩御

 ピョートルは数多くの改革を推し進めましたが、反発も呼びました。

30.女帝擁立

 1725年にピョートルが崩御した後、ロシアは女帝や幼帝が相次いで立ち、女帝の寵愛を受けた貴族たちが実権を握る時代となります。

◆オスマン帝国編

31.母后聴政

 16世紀後半から17世紀半ばにかけて、オスマン帝国は暗君や幼君が続き、母后とその取り巻きが実権を握りました。

32.維納再囲

 オスマン帝国は大宰相キョプリュリュ家のもと盛り返し、ハンガリーやクレタ島、ウクライナ西部に進出、1683年にはウィーンを再び包囲しました。

33.領土割譲

 オスマン帝国は第二次ウィーン包囲に失敗し、神聖ローマ帝国の反撃を受けてハンガリーなどを失います。

◆ナーディル・シャー編

34.波斯分割

 18世紀初め、サファヴィー朝では各地で反乱が頻発し、1722年にはカンダハールのパシュトゥーン人が首都イスファハーンを陥落させました。ロシアやオスマン帝国は混乱に乗じてペルシアへ侵攻します。

35.摂政登極

 サファヴィー朝を復興させた功臣ナーディルは、オスマン帝国からバグダードや南カフカースを奪還し、1736年に自ら王位につきます。

36.印度遠征

 ナーディル・シャーはカンダハールを陥落させ、インドに侵攻してムガル帝国の首都デリーに入城、莫大な戦利品を獲得しました。しかし1747年に彼が暗殺されると、その帝国はイランとアフガニスタンに分裂します。

◆ジュンガル編

37.準部滅亡

 清朝は1755-59年にジュンガルを攻め滅ぼし、1762年にイリ将軍府を置いて軍政下に置きました。

【続く】

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