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【つの版】邪馬台国への旅26・魏晋交替

ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

魏志倭人伝での、また『三国志』での倭の記述は終わりました。しかし歴史は途切れることなく続いていきます。以後は臺與から倭の五王に至る100年余りの状況をざっくり見ていきましょう。邪馬臺國がヤマト王権へ繋がるのか否か、断絶/繋がるとすればどのようにしてか、ということです。

◆Perform◆

◆This Way◆

晋書

ここからは『晋書』を参考にします。卑彌呼の死から400年後、唐の貞観22年(648年)に完成したもので、316年に西晋が滅んでから332年後、420年に東晋が滅んでから228年後に様々な史料や伝説をもとに編纂されました。そのため多数の怪しげな話を含んでおり、あまり信頼できません。まあ8世紀成立の『日本書紀』や『古事記』に比べればマシだと思いますし、これを用いねば晋代が理解らないので、眉に唾をつけながらやっていきます。

『晋書』四夷伝・東夷・倭人条には、こうあります。

倭人在帶方東南大海中、依山島爲國、地多山林、無良田、食海物。舊有百餘小國相接、至魏時、有三十國通好。戸有七萬。男子無大小、悉黥面文身。自謂太伯之後、又言上古使詣中國、皆自稱大夫。昔夏少康之子封於會稽、繼發文身以避蛟龍之害、今倭人好沈沒取魚、亦文身以厭水禽。計其道里、當會稽東冶之東。其男子衣以橫幅、但結束相連、略無縫綴。婦人衣如單被、穿其中央以貫頭、而皆被髮徒跣。其地溫暖、俗種禾稻糸甯麻而蠶桑織績。土無牛馬、有刀楯弓箭、以鐵爲鏃。有屋宇、父母兄弟臥息異處。食飲用俎豆。嫁娶不持錢帛、以衣迎之。死有棺無槨、封土爲塚。初喪、哭泣、不食肉。已葬、舉家入水澡浴自潔、以除不祥。其舉大事、輒灼骨以占吉凶。不知正歲四節、但計秋收之時以爲年紀。人多壽百年、或八九十。國多婦女、不淫不妒。無爭訟、犯輕罪者沒其妻孥、重者族滅其家。舊以男子爲主。漢末、倭人亂、攻伐不定、乃立女子爲王、名曰卑彌呼。宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見、其後貢聘不絕。及文帝作相、又數至。泰始初、遣使重譯入貢。

これだけです。大部分は魏志や後漢書、梁書での記述のコピペで、新しい情報は少ししかありません。すなわち、

宣帝之平公孫氏也、其女王遣使至帶方朝見、其後貢聘不絕。及文帝作相、又數至。泰始初、遣使重譯入貢。
宣帝(晋室の祖である司馬懿)が(遼東)公孫氏を平定すると、その女王(卑彌呼)が使者を遣わして帯方郡に至らせて朝見し、その後も朝貢・聘問(挨拶)は絶えなかった。文帝(司馬懿の子・司馬昭)が相(相国、総理大臣)となるに及んで、また数度(使者が)至った。(晋の)泰始年間(西暦265-274)の初めに、使者を遣わし、通訳を何度も重ねて朝貢に来た。

これだけです。臺與については書かれていませんが、卑彌呼の死後も倭國は魏や晋に朝貢していたのです。ただ、晋書の本紀(皇帝たちの記録)において文帝紀に倭使のことは見えません。前に見た宣帝紀の「正始元年春正月、東倭重譯納貢」、また武帝(司馬昭の子・司馬炎)紀に

泰始二年(266)十一月已卯、倭人來獻方物。

とあるだけです。そしてこれを最後に、倭に関する記述はチャイナの史書において途切れ、晋書安帝紀に「義熙九年(413)…是歳、高句麗、倭国、及西南夷銅頭大帥、并献方物」とあるまで147年も現れなくなります。それでこの時期を「空白の(西暦)4世紀」と呼んだりしますが、調べれば特に空白でもありません。まず、晋が成立するまでを駆け足で見ていきましょう。

司馬師

正始10年(249年)1月の高平陵の変により、魏の実権は司馬懿とその一派の手に握られました。司馬懿自身は年齢も70歳になり、魏を乗っ取り皇帝になろうという野望はなかったようですが(曹操も魏王にとどまり、帝位にはつきませんでした)、なにしろ漢魏交替という前例がありますから、司馬懿の次は、という空気はどうしても生じます。司馬懿の息子たちである司馬師と司馬昭はまだ40歳前後の壮年で、野心を漲らせていました。

正始10年4月、改元して嘉平となります。司馬懿派が政権の中枢に据えられる中、「このままでは魏が滅ぶ」と危惧した人々のうち、曹操以来の老臣である王凌がいます。彼は皇帝を幼く頼りない曹芳から、曹操の息子で年齢も50代半ばという曹彪を擁立しようと画策しますが、嘉平3年(251年)に露見してしまいます。司馬懿は王凌を硬軟両面で説き伏せて降伏させましたが、王凌は誅殺される前に80歳で服毒自殺しました。司馬懿は乱の平定後の6月に病気となり、8月に72歳で逝去しました。

跡を継いだ司馬師は撫軍大将軍として軍権を掌握し、翌年には大将軍に昇格します。この年の5月には呉の孫権が70歳で死に、子の孫亮が帝位を継ぎます。孫権の晩年には跡継ぎを巡る「二宮事件」で国内が混乱しており、多くの功臣が処刑されるという、魏にとっては喜ばしい事態が起きていました。孫権もストレスやプレッシャーや大酒でだいぶ耄碌していたのでしょう。

嘉平4年(252年)冬、司馬師は孫権死後の混乱に乗じて孫呉を攻撃します。しかし孫呉の諸葛恪に阻まれて大敗を喫し、撤退しました(東興の戦い)。勝ち誇った諸葛恪は翌年に魏の合肥新城を攻撃しましたが、毌丘倹・文欽・司馬孚ら諸将の奮闘により陥落させられず、撤退します。司馬師の面目はなんとか保ったものの、立ち上がりから躓いた感は否めません。

嘉平6年(254年)、李豊・夏侯玄・張緝(張既の子で外戚)らは、この微妙な空気に乗じて司馬師を排斥せんとし、23歳の皇帝曹芳を抱き込んで計画を練りましたが、露見して一族郎党が誅殺されます。司馬師は皇帝曹芳を廃位して斉王に戻し(それで史書では○帝とは呼ばれません)、協議の末に明帝曹叡の甥にあたる13歳の曹髦を帝位につけました。崩御や譲位でなく廃位されたので即座に改元され、嘉平6年10月は正元元年となりました。

司馬師は曹操の子で年齢も50過ぎと思しき曹據を推挙しましたが、郭太后が「文帝・明帝の血筋を立てるべきだ」と主張し、曹髦を強く推したといいます。曹髦は利発でしたがまだ13歳で、御しやすいとは思ったのでしょう。あまり司馬師の意見ばかりを通すとまだ問題がありますし、曹爽排除の詔勅を出した郭太后の意志とすれば文句はつけにくいはずです。

正元2年(255年)、孫呉との国境地帯である寿春(安徽省淮南市)で毌丘倹と文欽が反乱を起こし、司馬師の排斥を求めました。毌丘倹は李豊や夏侯玄と仲が良く、文欽は元曹爽派だったためですが、司馬師は大軍を率いて鎮圧します。ただ司馬師は同年に病死し、弟の司馬昭が地位を引き継ぎます。

司馬昭

司馬昭は甘露2年(257年)の諸葛誕の乱を鎮圧し、甘露5年(260年)には皇帝曹髦が司馬氏打倒のため挙兵したのを鎮圧、曹髦は弑殺されます。司馬昭は下手人の成済を三族皆殺しにして全責任を被せ、曹宇の子(孫?)とされる15歳の曹璜(奐と改名)を擁立しました。それで曹髦は帝位につく前の高貴郷公として史書に記録され、○帝と呼ばれることがありません。このへんの話は『三国志』では司馬氏側の「大本営発表」しか載せていません。

景元4年(263年)、もはや国内無敵となった司馬昭は、孫呉より弱敵である蜀漢を討伐します。鄧艾・鍾会・諸葛緒らの活躍により蜀漢はたちまち滅亡し、蜀で自立を企てた鄧艾・鍾会は誅殺されました。なお王頎はこの頃には帯方太守から転任して西の天水郡の太守となり、蜀漢と戦っています。

曹操以来の大敵のひとつであった蜀漢の滅亡は、司馬昭の権威を非常に高めます。魏の天子は彼に相国・晋公・九錫を下賜する詔を何度も与え、司馬昭は5度辞退した末に6度目にようやく受けるという見え透いた腹芸によって相国・晋公となります(同年12月に郭太后が崩御)。景元5年(264年)には晋公から晋王に昇格し、位人臣を極めました。曹操が丞相や魏公や魏王になったのと同じで、もはや魏晋交替は秒読み段階です。しかし翌咸熙2年(265年)8月、司馬昭は脳卒中の発作を起こして54歳で逝去しました。

彼は晋の文王と諡号され、のち文帝とされましたから、「文帝が相」であった期間は263年から265年までの3年だけです。この3年間に親魏倭王の臺與は数度、おそらく毎年使者を遣わして朝貢したわけです。当然、司馬懿の功績を思い起こさせ、司馬昭を祝賀するためにほかなりません。

249年から263年まで14年も期間が開いていますが、魏志本紀に記録された倭使は243年だけですし、記録されない朝貢もあったでしょう。なぜ記録していないかは陳寿や魚豢、晋書の編纂者やもとになった史料の編纂者に聞くしかありません。なんらかの政治的な意図があるのでしょう(そも歴史書とは極めて政治的なものです)。

魏晋交替

司馬昭の子・司馬炎が跡を継いで相国・晋王となるや、同年12月には傀儡であった皇帝曹奐に迫って禅譲させ、魏は曹丕以来5主45年で滅びました(曹奐の子孫は200年以上「陳留王」の爵位を受け継ぎますが)。晋の皇帝(武帝)となった司馬炎は即座に泰始と改元しますが、もう12月なので元年は1ヶ月しかなく、すぐに泰始2年(266年)を迎えます。ただ禅譲と即位の式典には「設壇於南郊、百僚在位及匈奴南單于、四夷會者數萬人、柴燎告類於上帝曰」とありますから、倭使も四夷の中にいたかも知れません。

そして泰始2年11月に「倭人來獻方物」となるわけです。第二代親魏倭王である臺與(の使者)は魏から賜った金印紫綬を返還し、新たに「親晋倭王」の印綬を受けたことでしょう。新時代の始まりを象徴するセレモニーです。

なお、「倭人來獻方物」に続いて

並圜丘、方丘於南、北郊、二至之祀合於二郊。

という文章がありますが、これは天子が都の郊外で柴を焚いて天地を祀る「郊祀」という儀式です。チャイナでは天は円(丸い)、地は方(四角い)と考えられ、天を祀る円丘を南郊壇、地を祀る方丘を北郊壇と呼びました。後漢の鄭玄は「壇と丘は別である」とし、王粛は同じであるとしましたが、魏晋及び南朝では王粛の説が採用され、北魏や隋唐では鄭玄の説を用いました。また通常冬至に際して南郊で天を祀り、夏至に際して北郊で地を祀るのですが、この時は「二至之祀合於二郊」、すなわち天地の両方を同じ時に祀ったことになります。冬至でも夏至でもないのにいいのでしょうか。

倭人、円丘・方丘と来れば、前方後円墳を思い起こさずにはいられません。実際前方後円墳とはチャイナの天地を祀る儀式の壇を模したものだという説は割とあります。ただ本来は都の南北に別々に祀るものですから、ひとつに纏めるのも禮儀に反しますし、天地を祀るのに墳墓の上を用いるなど天地が怒りそうです。「晋の武帝が行ったこの祭儀を倭人が見て伝えたのだ」という説もありますが、前方後円墳は既に3世紀初頭には出現しています。あるいは遼東公孫氏がしていた郊祀の影響かも知れません。

また『日本書紀』神功紀に「晋起居注云、武帝泰初二年十月、倭女王遣重譯貢獻」とありますが、泰を泰、十月を十月と誤記しています。起居注とは皇帝が起きてから寝るまでの日々の記録を書き留めたもので、史書はこれを参考にして編纂されますが、日本書紀の編者はどこから手に入れたのでしょうか。かつ、神功皇后は卑彌呼と臺與の二代に渡る期間に活動した(西暦269年に当たる年に100歳で崩御した)とされていますから、神功皇后を倭女王とすると、卑彌呼の死と臺與の即位が誤っていたことになります。日本書紀の方が真実だとか云うなら勝手にして下さい。

◆終わりの終わり◆

◆Re Start◆

この年を最後に、倭國の記録はチャイナの正史から一旦途絶えます。ということは、臺與や邪馬臺國に何か変事があったのでしょうか。引き続き見ていきましょう。

【続く】

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