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【つの版】ウマと人類史EX15:武総馬牧

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 古墳時代に日本列島に導入されたウマは、瞬く間に各地へ広まり、ウマを飼育するための牧が設置されました。特に東国では信濃・甲斐・坂東などに多くの馬牧が作られ、のちに武士が台頭する基盤となります。

黒ボク土の分布(赤)

◆埼◆

◆玉◆

武蔵野牧

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Geofeatures_map_of_Kanto_Japan_ja.svg

 東国は、律令制では東山道と東海道に分けられます。32の勅旨牧のうち半数の16牧がある信濃、9牧がある上野は東山道に属します(下野には諸国牧が1つあるだけです)。武蔵ははじめ東山道でしたが東海道に移った国で、諸国牧のうち2牧、勅旨牧のうち4牧が属します。また東海道には下総に5牧(うち馬牧4つ)があります。他には駿河・安房・上総に2牧、相模・常陸に1牧がありますが、武蔵と下総は特に多く牧があります。なぜでしょうか。

武蔵の牧
 檜前 :埼玉県北部の児玉郡・大里郡か 東京都台東区浅草とも(付会?)
 神埼 :埼玉県春日部市内牧か 東京都新宿区牛込とも(俗説?) 牛牧
 石川 :東京都八王子市石川町か 神奈川県横浜市青葉区元石川町とも
 小川 :東京都あきる野市小川か 町田市の小川とも
 由比 :東京都八王子市四谷町・弐分方町
 立野 :埼玉県さいたま市緑区大牧か
     川口市西立野、町田・八王子・府中・立川・横浜市など諸説あり

 武蔵(むさし)国は現在の東京都、埼玉県、神奈川県川崎市および横浜市にまたがる国で、古くは東の无邪志(むざし/胸刺)と西の知々夫(ちちぶ/秩父地方)の二つの国がありました。无邪志国造の本拠地は埼玉県北部の行田市埼玉(さきたま)で、5世紀後半から7世紀にかけて埼玉古墳群が築かれています。特に行田市の稲荷山古墳からは「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」の名が刻まれた鉄剣が出土し、被葬者がワカタケル大王こと雄略天皇=倭王武に仕えていたことが判明しています。

 行田市は利根川を挟んで群馬県と接する埼玉県北端の地で、古代の无邪志国は毛野国と同じくウマの飼育によって栄えたと思われます。また行田市の南方を流れる荒川から南には「武蔵野」と呼ばれる広大な台地、すなわち武蔵野台地が広がっています。火山灰土である関東ローム層が厚く乗っかったこの台地は、見渡す限りの草原で、ウマの牧にはもってこいです。台地の端は川が削った崖で、川ともども天然の柵となります。荒川の北の大宮台地、多摩川の南の多摩丘陵や相模原も、同様にウマの牧に適していました。

 奈良時代には武蔵国府(現府中市)が多摩川沿いに置かれますが、東山道から国府までが離れていたため支線(武蔵路)が設けられます。しかし結局海路での往来が盛んとなり、771年に東山道から東海道に移管されました。10世紀前半には秩父にも勅旨牧が2つ追加されており、武蔵国は6つの勅旨牧と2つの諸国牧、多数の民間の牧を持つ国となったのです。そういえば府中市には東京競馬場(府中競馬場)がありますね。

下総馬牧

 下総(しもうさ/しもつふさ)国は現在の千葉県北部を中心として、東京都および埼玉県の東部(隅田川以東)、茨城県南西部を含む国です。房総半島の付け根にあたり、南西には上総(かずさ/かみつふさ)国と安房(あわ)国が並びます。毛野国が上毛野・下毛野に分けられたように、この地域は総(ふさ/捄)国と総称され、それが分けられたのです。都に近い側が「上」のはずですが、房総半島は黒潮に乗ってやってきた開拓民が南から開発を進めていたため、南側が上、北側が下となりました。

下総の牧
 高津 :千葉県八千代市高津か 現・自衛隊習志野演習場 多古町高津原とも
 大結 :茨城県結城郡八千代町大間木か 茨城県常総市大生郷町から同市古間木一帯とも
     中世の夏見御厨や意富比神社=船橋大神宮と結びつけて船橋市夏見とも
 木島 :埼玉県幸手市か
 長洲 :茨城県坂東市長須か 利根川の傍
 浮島 :千葉市花見川区幕張か 東海道浮島駅の比定地

 安房国は上総国から分けられたもので、もと阿波と長狭の両国造がおり、上総国には須恵・馬来田・上海上・菊麻・伊甚・武社の六国造が、下総国には千葉・印波・下海上の三国造がいました。海上(うなかみ)とは文字通り海上・水上の交通を支配した豪族で、上総の上海上氏は東京湾に面した市原市付近を古くから治め、下総の下海上氏は銚子市を中心とする太平洋岸、および古代関東の巨大な内海「香取海」を支配していました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Touki_Ryushichi_1926a_21.png

 千葉県には1万2000を超える古墳が存在し(兵庫・鳥取・京都に次ぐ全国4位)、うち667基は前方後円墳で、これは日本一の数です(奈良県の2.5倍)。古墳の大きさでは群馬や奈良に劣るものの、市原市には3世紀中頃の出現期前方後円墳(纏向型)を含む神門古墳群が築かれており、非常に古くからヤマト王権と密接な関係があったようです。特に下総地域では6世紀後半にも100m級の前方後円墳が築造されたほか、小型の前方後円墳が大量に作られるようになっており、ヤマト王権の東国経営に関わると思われます。

 武蔵と同じく、下総には広大な下総台地が存在しました。標高は平均20-40m、利根川の北の常陸台地と合わせて「常総台地」とも呼ばれ、分厚い関東ローム層と黒ボク土のため水に恵まれず、畑作や牧畜には良くとも稲作には向かない土地です。下総の牧はここに設置され、東海道や東山道、ないし海路によって畿内へウマが輸送されたのです。東山道に比べ、東海道は川越えはあるにせよ、水運・海運を利用して大量の物資を輸送できました。

 平将門は下総国に生まれて坂東を支配し、全国的な武家政権である鎌倉幕府・江戸幕府は坂東に拠点を置きましたが、その基盤はこうした牧だったわけです。室町幕府を開いた足利氏も下野国足利郡(栃木県足利市)の出身ですから毛野の中心地に近く、ウマとの縁は深いと言えるでしょう。そういえば千葉県船橋市には中山競馬場がありますね。

◆馬◆

◆娘◆

【続く】

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