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規格の中で競う限り、絶対不可侵な「松本人志」は再生産される(マザー・テラサワ時事放談)『暇』2024年3月号

 2023年末、週刊文春で告発された「松本人志性加害疑惑」。言語を絶するような性被害や「セックス上納システム」の実態が毎週のごとく報道されている。一連の文春の報道に対し松本人志サイドは訴訟を起こす意思表示しているものの、報道の真偽に関して松本自身や吉本興業サイドからの具体的な釈明会見は2024年2月時点でもなお行われていない。かくして松本人志は「裁判に専念する」という理由で活動休止し、地上波テレビのレギュラー番組やコマーシャルから完全に姿を消すに至った。
 「ダウンタウン以前/以後でお笑いが根本的に変わった」と言わしめるほど、松本人志が日本コメディ界に与えた影響の絶大さは疑うまでもない。1990年代以降、全ての若手芸人のメルクマール的存在であり続けた松本が、休止という形にせよここまで急速にテレビから去る状況は業界的にも世間的にも想像だに出来なかった事態であろう。
 女性芸人が増加しジェンダーの多様な芸人も散見され事情は変化しているが、未だにお笑い業界における男性芸人の絶対数は多い。それ故にホモソーシャルな価値観が支配的な世界になりがちでもある。かつて松本は放送作家・高須光聖と共にTOKYO FMのラジオ番組『放送室』のDJを担当していた。ちなみに私もこの番組のリスナーであった。番組内では「カキタレ」、即ち「男性芸人の性欲処理のための女」の話題が頻繁に出てきた記憶がある。性行為目的の関係でも異性間の相互了解がある「セフレ(セックスフレンド)」に対し、「カキタレ」は男性芸人の欲望の赴くままに取り換え可能な存在だ。その意味で「カキタレ」は極めて女性を物的に捉えるニュアンスの強い概念だと思われる。『放送室』のオンエア当時はミソジニーに対する規制の意識も低く、インターネットも未発達で情報は伝播し難かった。加えてラジオ番組は熱烈な松本ファンが集うクローズドな環境だった。そんなオンエア内容を黙認する状況の中で、「カキタレ」をカジュアルに語る事が芸人として当然だという価値が、業界関係者やお笑いファンの中に無意識的に浸透していった側面はあるのかもしれない。当時ラジオの放送を聴いていた私自身も自己反省すべき点として言及せざるを得ない。
 しかし受容していた価値観が誤っていると気付いた場合、その価値を否定・アップデートしていく事は可能であった筈である。文春の報道通りであれば、松本人志とその周囲を取り巻く芸人はその辺りを怠った。では何が彼らのアップデートを阻害したのか?
 業界創生期には社会的にドロップアウトした存在達が最後の縁として「お笑い芸」を生業とし、糊口をしのいでいた。「遊びも芸の肥やし」「芸人には倫理が無い」「売れていれば芸人は何をしても構わない」と言われて来たのも、過去のお笑い芸人のバックグラウンドゆえ倫理意識が脇に置かれる傾向があったかつての「状況」の名残のように思われる。
 底意地の悪さや屈折した精神性を抱く芸人ほど、世間の常識を異化しそれを笑いへと昇華する能力に長けている事は私も同意する。しかしだからと言って、芸人があらゆる意味で治外法権的な存在である訳では無い。法に抵触したり社会通念上の禁忌を犯したりすればその責任は厳しく問われて当然だ。芸人の社会的影響力が高まっている昨今ではその傾向は更に強くなっているだろう。それにも拘わらず、「芸人であれば多少の不祥事は許されて構わない」と芸人の不祥事を免責する言説が、ある種の業界人から未だに発せられている。業界内で倫理が脇に置かれた過去の傾向的な「状況」を、芸人の「必要条件」であると履き違えて解釈していることを、その手の主張を展開する論者は気付いていない。

マザー・テラサワ

 また、売れている芸人/売れていない芸人で経済的社会的格差があまりに大きくなる、お笑い業界特有の構造も強者がその価値をアップデートする機会を阻害する要因であると思われる。語弊を招かないように言うならば、お笑い業界は全ての価値に勝って「面白さ」が絶対的かつ超越的価値として君臨する世界である。なおかつ近年はネタの賞レースシステムが確立することで、芸人を競わせその格を測定する装置が良くも悪くも整っている。かくして「決まったレースシステムの中で勝ち抜かないと芸人としての価値が無い」という観念が業界全体に浸透し、観念は既成事実化する。
 松本人志はM−1やキングオブコントなどのレースで常に審査員として君臨して来た。「レースで松本人志ら審査員から認められないと真の芸人ではない」という数多の若手芸人の思いが、松本の絶対性を補強する。前述通り、松本が表現し続けて来たお笑い芸人としての天賦の才は圧倒的で多くの支持を得て来た事は首肯せざるを得ない。しかしその圧倒的な才能を、吉本興業も、大手のメディアも、当の芸人や視聴者も、あまりに手放しに評価してしまった。そうしたプロセスの中で、松本人志が絶対不可侵な存在になった事で、彼の社会倫理的に抵触する行為を咎める事が出来ない状況もまた生まれてしまったのではないか。
 こう言及すると、「まだ裁判で決着がついていないにも関わらず、松本人志批判で論陣を張るのは早計ではないか」という意見も受けるかもしれない。しかし性被害の告発が複数人から出ている事、そして告発に対する本人からの具体的な釈明が未だに無い状況は、イメージを売るタレントとしてあまりに印象が悪いと言わざるを得ない。松本の出演番組の大手スポンサーがクレジット提供を控えるなど強気な対応を見せたが、それはそうした大手企業がビジネスをグローバルに展開している故である。欧米のマーケットは性加害について日本の比にならないほどに姿勢は厳しい。かつて日本のムラの理屈で誤魔化せていた事もそう出来ないほど、社会状況が変化しているのだ。
 松本人志の一連の疑惑報道は一介の無名芸人である私にとっても衝撃的であった。と同時に、この業界に身を置く立場として「あり得る事ではあるな」という感覚も抱いた。少ない活躍のチャンスを得るべく膨大な数のプレイヤーで競う構造が残る限り、チャンスを与える側の立場は絶対的となりその構造で勝利した芸人の立場も尊大になる。そのシステムの中で今後も倫理が蹂躙される危険性は常に孕まれている。一連の報道の中で、西川のりおが「お笑いは本来競わせるものではない」と、賞レースシステム自体に疑問の眼差しを向けている事が注目を集めている。本来表現にルールは無いし、新たな価値を提示するものほどそのルールを破る性質を帯びる筈だ。しかし、お笑い業界は逆行するようにレース化と規格化が加速度的に進んでいる。この流れがある限り、「絶対不可侵なお笑い芸人」は常に再生産される。たとえ小さな抵抗でも、今はその構造に囚われないお笑い表現を求めるべきではないか。身分不相応に業界に嚙みつく文章を書いたのも、その一歩目だと思っていただきたい。


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