衝撃のデビュー作 伊坂幸太郎 著『オーデュボンの祈り』
今回ご紹介する1冊は、今年作家生活20周年を迎えた伊坂幸太郎さんのデビュー作、『オーデュボンの祈り』です。デビュー作にして、圧倒的な完成度。ミステリの要素を含みながらも大人の童話、とも表現し得るこの1冊。読み応えあり、考えさせられるシーンありでとても大好きな1冊です。
あらすじ
コンビニ強盗を働いた伊藤が連れて来られたのは得体の知れない荻島。
150年前から外の世界との関わりを絶っているという荻島は伊藤の知っている日常と少しかけ離れていた。その中でも特に異彩を放っていたのは人の言葉を話し、未来が見えるカカシの優午の存在である。
この島に古くから伝わる言い伝え、『ここには大事なものが、はじめから、消えている。だから誰もがからっぽだ。島の外から来た奴が、欠けているものを置いていく』
この島に欠けているものとは一体?
様々な死生観
物語が進むに連れて、この島の住人が殺されたり、命を落としてしまうシーンが増えて来るのですが、それぞれの命の終わり方や価値、意味について、遺された人たちの考察が随所に散りばめられています。
伊藤がこの島に来てからというもの、本当によく人が亡くなってしまうのです。こんなに毎日身近な人が居なくなってしまうなんて現実世界で起きたら大変です。事件です。
こんなに簡単に人が死んでしまうのもファンタジーの世界だからこそだなぁと思って読んでいました。ファンタジーの世界ではあるものの、描かれている死生観はとてもリアルで現代を生きる私たちにも「生きるとは」「命とは」を投げかけています。
人生とはエスカレター・行列のようなもの
前半のエスカレーターの話は“ケセラセラ”を彷彿とさせる話ですね。(ケセラセラとは「物事はなるようにしかならない」という意味です。)
みんな「自分の人生だから」と自らで人生を切り開こうと足掻くけれど、運命は決まっているのだからうまくやろうとしなくていいんだよ、ということを伊藤に伝えたかったのでしょう。孫を思う優しい祖母の気持ちが垣間見れます。
一方、行列の話。
エスカレーターと同じように列を為す状況を比喩していますが、こちらは“ケセラセラ・なるようにしかならない”と楽観的な思いを表していると言うよりも、入念な準備をする間もなく舞台に上がらないといけなくなってしまう悲観的な思いを表現しているのかなと感じました。
人は誰しも自分の限界を越え、頑張らないといけない時があると思います。
普段から経験値と力を溜めているからこそ大舞台でも頑張れるのですが、知らない間に押し上げられ気付いたら舞台の上だった、そんな状況では持てる力を発揮することは難しいでしょう。
日比野が言う「人生とは行列のようなもので気付いたら列の先頭に来ている」は、自分の不甲斐なさは予期せぬタイミングで舞台に挙げられてしまうシステムの問題だと必死に自らを保身し守っているように感じられました。
私たちが知らず知らずの内に乗せられ一員となっているこの人生という列は、どんな舞台に進んでいて、大舞台に投げ出された時私たちは一体どんな姿を晒すのでしょう。
再読必須の終焉
物語はどうして優午が死んでしまったのか、この島に欠けているものは一体何なのか、この2つの疑問がスッキリと解決されて終わりを迎えます。これまでに散りばめられていた伏線が綺麗に回収されていき、「こういうことだったのか!」「なるほど!」となってしまうこと間違いなしです。
そして私はまた冒頭から再読しました。再読するとまたそれぞれの登場人物の発する言葉の重みが異なって感じられ、違う側面が見えるのです。
読めば読むほど味が出る、そんなスルメのような物語でした。
余談ですが…
「詩を食べて生きる」
この一言にうっとりしました。「詩を食べて生きる」、きっと桜が食べた詩は彼の一部となり、彼の思考となり原動力となるのでしょう。
最近話題沸騰している「ぼくもだよ。 神楽坂の奇跡の木曜日 」のキャッチコピーも「人は食べたものと、読んだものでできている。」であり、こちらも大変素敵です。なんだか桜の一言と通じる部分があるように思います。
「詩を食べて生きる」の他にも「花を育てるのは、詩を読むのに似ている」というフレーズも出て来ます。
読書好きにはたまらない一言ですね😊
うちの金魚に美味しいエサを食べさせたいと思います。