解離性同一性障害が神格化されすぎている気がする
初めに記しておきたいのですが、
私は病そのものを疑ってはおりません。
自分なりに情報収集した結果、ああすごく身近な病かもしれない。と思うまでに至りました。
また、私は専門医でもなんでもありませんので、ただ素人が疑問を呈するだけ、ということを念頭に置き閲覧してください。
解離性同一性障害があまりにも神格化されていませんか?
これは患者を特別扱いするなとか、自分をナルシスティックに考えすぎだとか、そういった稚拙な文句のようなものではなく
「スピリチュアル的扱いをし過ぎた結果、現実主義寄りの当事者たちが病識を持つに至れなくなっていませんか?」ということに尽きます。
まず、 多重人格症 ではなく 解離性同一性障害 という名称に変更されたことから紐解いていかねばなりません。
この病気は、同一性に障害が起きる病気です。
突き詰めて考えれば、健常者が持つ、「自分」と言うアイデンティティが崩壊する病です。
(私もアイデンティティ崩壊側に立っているので健常者がどういう思考回路で生きているのかは知りません。)
この名称から大抵の抱かれがちな謎は解けます。
なんで声が変わるの?
なんで男になったり女になったりするの?
服装が変わる?
趣味が変わる?
好きな食べ物が変わる?
記憶が抜けたり、映像を見ているようになる?
全て、「同一性がないから」そして、
「同一性を拒絶するから」です。
わざとやっている、などとありきたりな発言をするつもりはありません。
まず、声ですが、自分というアイデンティティがフラフラしている状態だからこそ
自分という物体がどの音程の声を出すのかわからなくなるのでは?
電話口で声が変わる、猫撫で声、機嫌の悪い声。
これらはよく見聞きする、よくあることです。
人間とは声が変わるものなのです。
だけれども、自分という同一性を保っている人間は、あくまで自分の声というものがわかった上でのフィルターのような扱われ方しかしないのではということを考えました。
女性が一時的に男性になる。こちらも、自分というものがわからなくなっているために起きる事だと言って良いと思います。
同一性の欠如、つまり連続性の欠陥です。
女性として生きてきた、"流れ"が欠落した結果と、自分という一個体への拒絶なのでは?
神格化されている、と表現した中には、
「味覚すら変わってしまう人もいます」など、あたかも不思議なことのように表現する文論がとても多かったことからそのような表現に至りました。
この病の人間は、アイデンティティを失っているからこそ、アイデンティティを探します。
好きな食べ物、一つをとっても
自分を表す何かのように 自分を形成する一つとして大切な情報になります。
しかし、当然ながら、根底の自分というアイデンティティはブレたままです。
そして、時折こころの防衛反応として、自分ではないものになる"必要"があります。
そうなった時にどうなるか。好きな食べ物も無意識的に変わるであろうことが容易に想像がつきます。
あくまでも、食べ物、服装、格好。レッテルに過ぎないのです。
とにもかくにも、自分でなくなればいい。
そして、自分では無くなった時のアイデンティティが別に存在していればいい。
もう一つ、「女性なのに男性のような腕力を一時的に見せた」 というような文言も目にしました。
少し話が逸れますが、皆さんはリストカットする時と、硬い野菜を包丁で切る時、同じ力が出ていると思いますか?
私は、出ていないと思います。リストカットする人々を見てきましたが、力任せである人はあまり見かけず、刃物を鋭利なものに変えることで深く切っている人がほとんどと記憶しています。
野菜を切るみたいに自分を切ることは難しいのです。
精神の深層の奥深くの、力のリミッターというものが存在していると私は感じました。
では、先ほどの 男性人格の時ものすごい腕力が出た、というお話ですが
逆に、女性人格の際に力が無意識的にセーブされている と取るのが現実的であろうと思われます。
その他様々な要因から、この病気の大抵の根源というのは
「自己が同一であることへの拒絶」
ではないかという考えに至りました。
こうして記すと、全く何も奇怪なことはないように紐解かれてゆきます。
いかがでしたでしょうか?
今回私は、当事者の方々をこき下ろす意図はございません。
あくまでも、脳のしくみやこころのしくみで、十分解明できる病ではないか?
"不思議なこと"は何もないのでは?という観点から執筆しました。
ここまで読んで頂きありがとうございました。
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