IQを重要視したことがない
※人によっては不快になる可能性のある文です。
ご意見は受け付けますのでよろしくお願い致します。
時折、120↑のIQを診断された者が
"自分は天才だったのか"と、嬉しそうにしているところを見かける。
それを見るたび、IQの脆弱性や、そもそも思考能力とは何か、人として備えられた能力とは、など
根源的問いに辿り着くことはなかったのか、と
瞬時に見下してしまうのだった。
お断りしておかなければならないのは、私はIQテスト(wais)を受けたことがないということだ。
なので、IQが高いから(または、低いから)この発言をしているわけではない。
そして、今のところ受ける気はない。
IQを知って何になるのか、わからないから。
そもそも、IQは、人が決めた指標だ。
人の基準で、人が決めた範囲での上下である。
この社会で生きる上で定められた固定のテストで、人間の思考能力を測るものではない。
私は高すぎる人とも、境界知能の人とも話したことがある。(両者とも医師の判断によるもの)
両者に確かに言語能力や運動機能には差があるとは言わざるを得なかった。
例えば、長文のLINEが支離滅裂であるのは境界知能の方によく見られたし、所謂ギフテッドの方は思考が働きすぎている…というふうに、私からは見られた。
高くとも低くとも生きる上で障害ではあるという事に異論はない。どちらもサポートが必要だと思う。
しかし、一個人として関わるにおいて、知能はさして問題ではない。
その人の一つの要素であるだけで、その方々と関わりたいと考える(または離れたいと考える)要素というのは、知能ではない。
人というものの素晴らしさは、知能にまつわることではない。
境界知能であっても、偏見や差別を持たず、フェアに接しようと努力している人も居れば
知能という人間の一方向だけで人を見下す高IQの者もいるということだ。
対人の世界で、テストが何問解けるかどうかが重要になるシーンはあるだろうか?
もう一つ付け加えておくと、ここまで書いておいて、私は知的な人が大好きだ。
話が面白くて宇宙を見ているようで興味深いから。
思慮が浅い人とはあまり話をしたくない。
でも、"思慮深い"とは、テストが解けるかどうかではない。
世界という箱をひっくり返して一つ一つ懐疑していくような人種が好きなだけで、その人がいくつ問題を解けるかなど興味外で。
そして、人間の魅力、美しさはそこに詰まっていると考える。
こういった理由から、IQという点数が高いだけで喜べる思考でも、その点数が出てしまうのか。と、思ってしまうのだった。
そして、IQというものの奥行きの狭さを今一度考えたこともないのか、と 思ってしまうのだった。
そして、人に与えられた"能力"ごときで、人の価値が変わるとでも?と。
そんなもんで済むなら苦労しないわ。と。
そもそも価値って何だろう、って始まらないんだ、って、思ってしまうのだった。
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