見出し画像

死ねば許されるのか、仇討ちと呼ぶのか。

昨日、加害者の死亡を知って、その日に弁護士に損害賠償請求の債務を加害者が負っていることを息子に知らせてもらうように委任した。はっきりいって、今までの法的手続きの中でこんなにまで無意味で空しいものはないと思った。
言ってみれば、赤の他人の相続問題を違う角度から解決しようとしている、そんなようなものだと思う。昨日、本当に気分が悪かった。寝た気がしなかった、私の体に抱き着いてきたその感触というものは今でも鮮明に覚えているけれど、その人間が8年間服役をしてその直後といっていいくらいの時期に不審死しているのだ。昨日、すごく辛辣なことを書いたと思うけれど、訂正するつもりも加筆するつもりもない、新鮮な気持ちだった。

家族と私の1番の心配事であった「出所後の復讐」という不安はとりあえず排除された、けれど、どんな前科者でも子どもを亡くした親は、きっと私を恨んでいるだろうと思う、全てがこの事件によって起こった不運な結果だと。他責思考の親でなければ、公判の情状証人として母親が来ず父親だけが出廷するとは思えない、その際に、なぜ母親は出廷できないのかと言うことを聞かされたが「仕事が休めないから」という、半分見放したような理由だった。生まれ持った器質的な問題で、衝動性が高い性格であったかもしれないし、後天的な環境の問題で精神疾患を発症してしまったかもしれない、それは私には分からないけれども、その一端に親が関係していないと言うことは考えられないのだ。であれば、逃げるという選択をしていいとは思えない。
弁護士からも家族からも「彼が自分で選んだことだから、関係がない」という言葉や「きっと、私を恨んで死んでいって、親も怨んでいると思う」と言うと、「恨んでないと思うよ」と返ってきた、そう言うしかないと思うし、私自身がその問いを投げられたら、「あなたは関係ないし、誰も怨んでいないよ」というしかないと思う。

めちゃくちゃ厳しいことを言えば、犯罪加害者とその人間を育てた両親たちに人権があるとは思っていない、江戸時代なら仇討ちされて命を取られても文句の言いようがないけれども、明治からそれが禁止になっただけで、時代や国が違えば、仇討ちすら正義なのだ。民主主義の現代、司法が法によってその刑罰を与えることに形を変えただけで、人がそれぞれ持っている尊厳というコアの部分を傷つけられたら「殺してやりたい、その家族も」と思うことは何の疑問でも罪でもない。加害者の家族が悲惨な末路をというが、少なくとも一等親の親族には責任がないとは思っていないし、幸せになる資格すらないと思っている。世の中に対して一生申し訳ない、被害者やその家族に対して一生の償いきれないダメージを与えたということを決して忘れていいわけではない。

しかし、当時2歳だった加害者の息子はどうなんだろうか。私は、その子には、幸せな人生を歩んでいってほしいと思っている。今の年齢であれば、相続するか放棄するかは、母親が決めることだろう。ひょっとしたら、父親という存在は年齢的に覚えていることもなく、すでに死んでいるくらいに伝えているかもしれない。こういった形で、現実を1つ、また1つと突き付けていくことを死という選択をしたことで負わせてしまうことになったのだ。
仮に、母親が家裁に相続放棄の申し立てをせずに3か月が経過したら、息子はいきなり多額の負債を負うことになってしまう。何もできなかった父親が最期にしていいことなのだろうか。

こうやって考えると、原点回帰してしまう。そもそもが、やはり私以前の犯罪に手を染めることなく生きていくことを選ぶべきだったのだ。公判で述べた、「恐喝で成功をして、変な自信がついた」という言葉から、人の持っている共感性の著しい欠如を感じるし、酌量の余地があるものでもない。
私がずっと被害に遭ってから心に持っている言葉がある

「天網恢恢疎にして漏らさず」
悪行を働いたら逃げられた、思った通りにいくかもしれないが、最終的には必ず網に捕らえられて、働いた悪行の報いを受ける。という意味で、光市母子殺害事件の本村洋さんの取り調べ担当の刑事さんが言ってくれた言葉でもある。

犯罪被害者が立ち直る、もう1度生きていこうというマインドになるには、途方もなくどれだけの力や時間がいるかはわからない。それでも、生きていくと決めたならば、不条理を条理に変えて、過去から這い出すために死ぬほどの努力をしなければいけない、けれども被害者が立ち直っていくことをけなす人間もいる。その1番は、その犯罪行為をした加害者であって、事情も分からない外部の人間が何気ない思い付きの言葉で何度も切り付けていく。

私が被害に遭ったのは25歳の時だ、刑事裁判が開かれるまでに三か月。控訴に上告でどれだけ時間が掛かって、なにも手続きが進まない中でも、何もなかったかのように世間で生きていくためにどれだけのペルソナを被って、社会的マイノリティであるということをひた隠しにしながら生きてきたのか、それだけのビハインドを抱えながらも死にたくなっても生きてゆく、その立ち上がりというものはとても痛々しい。

民事訴訟の時、相手に資力があるなんて言うことは一切思っていなかった。回収できるとも思っていなかった、それでも不条理に奪われた尊厳に相応しい対価を紙の上だけでも取り返そうと思ったら、様々なものを切り売りしながら、「司法」という武装をして戦うことしかできない。

事実、過去に何度も「こいつを殺して、私も死ぬ」そう思ったことがあった。けれど、そうしてしまったら、私自身が犯罪被害者を産み、加害者家族を作ってしまう。血がにじむ思いで拳を握って、全部を自分に向けて生きてきたこの10年近い人生になる。

どうして、私の家族までもが犯罪被害の苦しみを負わなければいけないのか。その点においては、一切、宥恕するべきような点は思い浮かばない。なぜ、私の子供を抱き上げてあげることも後遺症からできなくなり、PTSDを発症してから情緒的な関わりすらが怖くなってしまったのか、けれども加害者の子どもは普通に生きている、ピークでメンタルが狂ったときに一度、加害者が離婚する前の家の前に行ったことがある。

「あなたのお父さんはね、人を殺そうとした犯罪者なんだよ」そう告げてやろと。

けれども、ハンドルを握りしめて頭を何度も叩きつけて泣くことしかできなかった。そんな残忍なことが、どうして許されるのかと。

だから、今、加害者の息子が「父親が不審死をして負債を負っている」という現実を知ることがあったら、私が心の中の一命を取り留めておいた意味が何だったのかと思ってしまう。

加害者が死亡したことにはストーリーが存在している。私という人間と極めて悪い形で関わったことだ。きっと、どこかで大きな罪を犯して捕まっていたかもしれない。留置所、拘置所、刑務所に収監されていた日々の中で何があったかは分からない。偶然、電車に乗らない私が電車で出かけ、1本電車をずらした。もしも、そうでなかったら違う女性が被害に遭っていたかもしれない、だとしたら「私でよかった。これで、よかった」とそう思った。警察署での取り調べで、私以外に7人の女性が性被害に遭い被害届を出すこともなく、今でも苦しんでいると思うと、犯罪被害の発生から検挙までの時間、数年前には到底叶わなかった刑事裁判に参加をして思いや求刑に意見を言えたのだ。私が、最期まで戦い抜こうと思ったのは、その7人の女性たちの屈辱を晴らすためでもあった、聞こえのいいことかもしれないが、言えるのは立ち上がって向かうことが出来る、私しかいないと思ったからだ。

そのために犠牲にしたものは、多かった。平穏な日々を壊しながらぬぐえない轍を残しながら進まなければいけない。そのためにたくさんの人の人生を巻き込んだことに対して、どう贖罪したらよいのか未だにわからない。

被害者が法廷で裁判員という市民に向けて、加害者に向けて、心情陳述をすることがのちの判決にどれだけの影響を与えるか、起爆剤になるかということを良くわかっていての皮肉を込めたA4用紙3枚分を読み上げた。不条理な暴力に屈した被害者が、一矢報いるためには恥を恥とも思わずにこらえて淡々と述べることだけだ。どれだけ加害者が理解できていて心に留めていたかということは私には知りうるすべもないが、のちの民事訴訟も紙の上の「司法」に勝っただけで、加害者には負けているのだ。

死という、最高の飛び道具で逃げられたら、追いかけることなど不可能であって、この状況でできることは「相続の権利がある」ということを知らせることで、最後の人間までが放棄してこれは終わるのだ。

負けて勝つ、勝って負けた。

加害者がこれから過ごす懲役は終われば法的に許される、前向きに進む時間かもしれないが、同じタイムラインを過ごしながらも私は塀の外でずっと、心身の傷と向き合っていかないといけないと陳述したけれども、身柄が自由のない塀の中で拘束され、自由になった加害者にとっては、塀の中も外も不自由なものだったのかもしれない。

詰み筋の道をまっすぐ歩んだのかもしれない。

生まれた時点で、詰んでいっていたのかもしれない。最期の迎え方、というのがあまりに悲惨かつ形容のしがたいものになってしまった現実を受け入れるというにはまだ、時間があまりにも経っていなさすぎる。
せめて、生きて私と戦い抜く生きて苦しめと陳述した意味を一切思い返すこともなく、灯は消えたのかと思うと混沌とした世界はまだ続く。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?