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犯罪被害者は負けた人ですか。

昨日、カウンセリングの日だった。

一昨日、一睡もできずに「いったい何なんだろう」と言う気持ちで、カウンセリングに向かった。

結局のところ、私が犯罪被害の全てにおいて受け入れている状態ではないのにも関わらず、真相の分からない死と虚構にまみれた報告の2行が私の中でより、被害自体の意味が「そもそも意味のないもの」と言うように思えてならなかった。

生産性のない10年を無駄に生きたという感覚と、私の力と言うものは何か起きる現象に手の施しようもないという無力感に恐れるだけだった。私は、ずっときれいごとを並べて、聖人のよう性善説を信じて生きていこうとした紛い物であって、実際には聖人でもないのだ。

今までの人生の中でもチョイスしたものが誤っているということは度々あったけれども、選んでしまった現実の世界で充足するように努力する以外に策はないと思った。それは、自身で選択してきたことなので納得はいっている。が、一方手な暴力の様に押し付けられた犯罪被害による尊厳、心身の健康、社会的地位を失った気持ちを「自分で選んだことなんだから」と言うような思考にシフトは当然できない。

もどかしいくらいに、犯罪被害者にとっては生き辛い世の中である。それでも、なんの被害にもあっていないように生きていくしかない。そうやって、自分自身が遭った被害と言うものをさも、他人が受けたかのような事件として一歩、時空をずらしたような見方でその日を見ている。ニュースで犯罪被害や犯罪のニュースは毎日起きている。ここのところは、睡眠薬やアルコールを用いた性犯罪であったりそういうものを見ていると、必ずと言っていいほどその被害者を責めるような言葉と言うのは乱立している。

性犯罪の被害に遭った女性を「別にいやじゃなかっただろう」や「何も減ったりするわけじゃない」と言う人がいる。夜道を歩いていたら、時間が遅くなくても落ち度がある、夜中に飲みに行っていたらそりゃ狙ってくれと言ってくれているようなものだ。と言うような言葉がある。もしも、これを殺人に置き換えたらどうだろうか。どの場面においても「別にいじゃなかっただろう」だとか「減るもんじゃないんだし」とか「夜道だからね」と言えるだろうか、それが性犯罪と言う被害だから言われているだけで、いつまでも勝手なステレオタイプで「女性」「男性」と言うくくりで「らしさ」や「こうであるべき」を求める。女子高生が痴漢に遭った時に「短いスカートはいてるなら、触ってくれって言っているものだ」と言う言葉がよくあるだろう。どのような格好をしていても、法に触れていないのに性犯罪に及ばせている、被害を誘発しているかのように語る人たちが今もいるが、そもそもが人に触ってはいけないのだ。確かに、世界規模で見たら外務省の渡航情報などで退避などと出いたら、危ないから帰国した方が良いだろう。少なくとも、法治国家である日本である。それでいても、性犯罪が発生したら加害者と同じかそれ以上に「被害者はどんな人なんだろう」など好奇心を働かせて、深くも考えていないような言葉で心をえぐる。誹謗中傷に強い、気にしないなんならば「誹謗中傷をしてくるアンチが世論に問題を浮かび上がらせられる手段としての一番の養分である」と考えられる人ばかりでもないし、何か中傷されて被害者に利益が発生するわけでもない。しかし、「だからといって、触っていいわけでも性的なことをしていいわけではない」と言ったところで「何言ってんだよ」と言うような、さも性的な目で見せさせる人間が悪いと言うような論調がまだあることに憂いを感じる。

運が悪かったとか、状況が悪かったということだけで犯罪行為を幾ばくかでも、擁護するべきだろうか。

「私は、ただ春を待っていた。明日と言う日が絶望と思わず、死を保険と思わずに以前の生活を手に入れたい、それのどこがわがままなんですか」と。

恐ろしいくらいに、私は回復していない。厭世的な目で世界を眺め、一時はの精神状態がピークに逝っていたいたときは「批判してきたやつらは、犯罪被害に遭っても加害者を許すくらいするんだろうな、同じ目に遭ったらいい」ととても残忍なことを考えていた。励ますつもりで言葉を投げかけた人と、明らかに悪いギャグの様に投げかけた2種類が存在する。命を奪われそうになり、仮に言葉をかけるとしよう、100歩譲って「辛いだろうけど、忘れて未来を考えよう」と言うのは、確かに二次被害のような部分はあるが、多くの人は「ここにこだわっていても碌な人生にはならない」と理屈で分かっていも心では分からないからこそ「いら立ち」を感じて、その人たちとの距離をとったりする。

恐らく、どれだけニュースで「良かれと思った言葉が二次被害をしている」と言うことを報道したところで、なくなるような課題ではない。だから、被害者は一生涯にわたって「大丈夫」と言うことで、自分の身を守るということをしている。実際のところ、何にも大丈夫なことなんて存在していないのだ。毎日の一瞬一瞬のいら立ちや法整備の不備などに嘆き悲しみ、置き去りにされているこの現実を受け入れられるほどに柔軟ではないのだ。仮に、受け入れたときに犯罪被害の事実も消え、尊厳も回復され、健康も回復されるというようなことがあったら、受け入れるかもしれない。

重ね重ねになるが、どうして犯罪を犯すと決意をして人の尊厳を奪った人間たちが恐ろしいまでに人権や衣食住までを守れ、仕事まで紹介してもらえたり、協力雇用主がいれば家まで用意してもらえる。

被害者は、どうやって尊厳を回復していいのか、健康被害は不可逆的で戻らない、事件現場が近かったり現場が家だったら引っ越したいと思っても、税金で支払ってなんてもらえない。職を失うことだって往々にある、犯罪被害に遭ってしまって精神的にや身体的に後遺症が残っているから、若干の配置などの配慮を願うということが出来ないのだ。だから、普通のふりをして生きていくということを社会が暗黙の元で求めている。

私は加害者の死を知るまでは「未来を近未来、一番直近の明日を恐れなく迎えたい、生きているそれだけで頑張ているものだ」と思えるようなマインドになれるようにカウンセリングを受けていた。しかし、最後の最後まで私一人に「死」と言う暴力を与えて、罪悪感を感じさせる。思い出したくないけれど、何かのトリガーでフラッシュバックしたときには生きている加害者が存在している。しかし、現実の世界では死んでいる。そんな現実が恐ろしく、私は線香と地獄絵図を封書で送ってやろうかと思うほどに昨日は憤りを感じていた。しかし、私の中の超えてはいけない一線と言うものがあるゆえに、そのようなことはできない。

私は、死ぬときに「この人生でよかった、悔いなく幸せだった」と言えるだろうか。このままの調子で生きたら、平均余命を85歳としたとき残りの50年を消化試合の様に生き、事件当時の恐怖に縛られ続ける。恐らく、死ぬときには「やっと、この恐怖の音が鳴りやむ。」と思ってしまうだろう。私は、幸せの概念と言うのは人の感じ方に過ぎないと思う。煩悩がさらなる欲求を満たそうとするが、衣食住に困っていない時点で幸福なのだ。こうやって、ネットを通じて主義思想を表に出せるだけでも幸せなのだ。

今日も、助けてほしいと思う被害者が生まれている。その人たちが、早期に回復をできるような仕組み化を作らなければ、いけないとおもっている。犯罪被害者は何に困っているかを現実で言えるプロである。私たちを置き去りにして、法案を決めないで。とそう思う。

私は、不条理を不条理のままにしておくことにする。しばらくは。昨日のカウンセリングで「どうやったって、この加害者の死は私の中で条理にならない」と言うようなことを話した。私はカウンセリングで語るたびに無力感であるとか自分の置かれているポジションを改めて感じる。そこには大きな屈辱が存在しているが、そこを払拭するということは極めて難しい課題であって、私の考え方の癖以前の問題だと思おう。

世の中の一部の「自分には犯罪被害は関係ない」と思っている人たちの心無い言葉が私たち犯罪被害の生きる場所をどんどん狭めていく、それは司法だって同じである。私たち被害者が証人に呼ばれたり、意見陳述するのは公判の材料にすぎないということも分かっている。恐らく、被害者も意見が言えるし、裁判員の市民感情に効くだろうしと思っている部分はあると思う。裁判員も職業裁判官と同じように証拠によって有罪・無罪・量刑を決めるということになっているが、恐らく裁判官自身もすべての事件において証拠のみで判決を下していることは少ないと思う。この根拠については追々書こうと思う。人が証拠だけを見て、特に裁判員が自分に置き換えたりせずに決めることは難しいと思う。証拠によって・・・と言うのは建前で実際にはごく平凡な市民の感情を反映させる場所なのだろうと思う。故に、性犯罪や保護責任者遺棄致死においては量刑が重くなっている傾向にあるし、仮にに証拠のみに縛られていたら、量刑が重くなる傾向にはいかないだろう。そもそも、自分の公判を担当する裁判員の主義思想が大きく関係している時点で一種の賭けのようなもので、大きくずれた人が考えたときに平等な刑が科されないこともあるだろう。しかし、主義思想など聞いて選んではいられないのだ。色々な人がいるということが重要であるし、そういう人がいたっていいのかもしれない。一番に問題があるのは、その裁判員裁判によってでた結果を控訴審で覆したりする司法である。じゃあ、初めから職業裁判官が判決までを担当しろよと言う話だ。民意を求めない裁判員裁判は存在しないと思う。法律には裁判官によってでも同じような事件で判決に大きな齟齬がある。それが司法であるならば、身勝手だなと言うほかない。

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