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「私を被害者にしてくれてありがとう」

一昨日、昨日と家族と一言も言葉を交わさなかった。家事も出来なかった。

もう、半分死んだような眼をして「絶望」と言う言葉が一番ふさわしいようなそんな風に、自室で辞めていたお酒を飲んで一点を見つめていた。

「一体、この10年と言う歳月、そもそもどこで間違ったのか。何が根幹の問題で、何をどうしたら一番いいのか」と言うことを考えていた。

昨日、父とLine通話をしていた。父は一人っ子で、私も一人っ子で相続の話をしてきた。恐らく、コロナウイルスに感染して死を悟ったからだと思う。今は回復しているようなので、よかったが。

私自身、数年前に入水自殺を図った時に保険証、預金通帳、損害賠償請求の判決(相続できるので)、実印を一まとめにして川に飛び込んだことがある。案外、死ねないものだったのだ。ずぶ濡れの体で川のカニを手に握って、笑いながら「カニを取ってきたんだよ」と主人に言った。主人は全部知っていたと思う、私が自殺を図ったということを。それくらいまでに、私は堕ちるだけ堕ちたときがあった。自分が女性と言う性で生まれてきたこと、あの日は普段乗らない電車に乗ったこと、迎えに来てと言わなかったこと、全てが後悔でしかなかった。あの日、私はドトールで紅茶を飲んで電車をずらした、翌年はやることが決まっていたのでTwitterで「がんばるぞ」とツイートした、それが最後だった。その15分後には犯罪被害者としての人生が待っていた。この10年で、刑事公判の全ても参加をし事件当初から「絶対に求刑を上回る判決を取ってやる」と言う気持ちだけで、臥薪嘗胆と言う言葉だけで生きてきた。結局、アドレナリンが出ていただけで、結果が思った通りでも「被害が消えるわけじゃない」と一気に正気に戻ったのである。

昨日、もう無理だ、こんなに後遺症の痛みや精神的な苦しさにいつまでと言う日が決まっていないのに戦い抜ける気力がないと。

今日「そうだ、死ねばいいんだ」と一点を見つめて思った。結局のところ、私が心の中で大事にしていた悲惨な結果をもたらした加害者を生きるための糧として利用し、心の中で罵倒し現実の世界では法武装をして戦ってきた。けれども、私の心の加害者はこの広い地球のどこにもいない。そのうえ、正当な法による権利の主張もできない。仮に、加害者が死亡したことによって、私に被害や後遺症による痛み、精神的苦痛がすべて消え去るなら私は、加害者の死を歓喜したかもしれない。

結局のところ、刑事公判中の責任回避的な態度や嘘、刑務所での態度、出所後の嘘も全部私は、これから一人きりで自分一人の精神に委ねて、超えていかねばいけない。

これが、犯罪被害者のおかれた、いや、おかれてしまう現実だとしたら、あまりにも「人権」と言うものが憲法からずれた場所にあると思えてならない。加害者の人権と被害者の人権が同じものと言うのは理解するが、どう考えても現行の法は加害者の人権と言うものを過剰に保護している。被害者は被害に遭った時の職業や年齢、扶養家族の数によって命に値段がつけられる。当時の私が犯罪被害者給付を申請したときに帰ってきた言葉は「給付対象ではない」である。命に貴賤があること自体がおかしい。私は、自分でも思うほど「頭が少しばかりおかしい」。おかしいが故に、この世の不条理を時間がかかっても条理に変えてやろうと変えられるだろうと思っている。

少しだけ、この記事を読んでいる人の考える時間をください。

もしも、明日、あなたが誰かの悪意によってそれまであった普通の生活が壊され、人としての尊厳を奪われたとしましょう。きっと、これからどうやって日々の糧を得て、精神を保ち、もしも健康を損なったならば、どうやってそれを抱えて生きていこうと思うでしょう。しかし、残念なことに国は刑事裁判が終わったら、「被害者の人、参加ありがとうございました」と言わんばかりに、何もしてくれません。犯罪被害者のサポートは公判が終わるまでです。仮に、加害者に実刑が下ったとしても、あなたの被害が消えることはなく、むしろ損害賠償請求をしても刑務所に入っていることにより、回収が出来なくなります。その訴訟費用は全額、すでに疲れ切ったあなたが払うのです。しかし、ある日その権利が消滅する時効が来ます。その時効を止めるためには、再度訴訟提起するしかないです。その繰り返しで、その日々の中でも健康被害の部分の窓口負担、もしもカウンセリングが必要ならば実費で50分8000円などを払わなければいけません。誰も払ってくれません。それでも生きていく糧を日々得なければならず、日常は鳴りやみません。その時にどう思うでしょうか、加害者だけの責任と思うでしょうか。

それとも「未熟な犯罪被害者の権利拡充の日本の現実」でしょうか。

私が、直面した全てです。

私は、こういった思いをする人が今日も明日も生まれるということが分かっているからこそ、権利拡充をしなければいけないと思っています。日本は災害大国でどこでいつ地震などの自然災害が起きてもおかしくないからこそ、人は免震や堤防の建築などに税金を投じることに大きな意義を唱えませんが、自分と関係がないと思う事柄に関しては「それって、自分に関係あるかな」と思うでしょう。私自身がそうでした、自分は犯罪被害に遭うということを一瞬たりとも思ったことがありません。ニュースで見る凄惨な被害者の人たちをその時は「大変なことが起こったんだな」と思っても、その次の日には忘れ去っています。その人たちが、今も苦しんでいるとかそういうことを考えることは全くありませんでした。しかし、現実に誰しもがその危機に晒されています。朝、玄関で「行ってらっしゃい」と送り出した人が、もう帰ってこないかもしれない、悲惨な姿になっているかもしれない。私たち犯罪被害者は、いつも「もしも、こうしていたら」と言う「もしも」を常に考え、自分の落ち度と言うものを探し続ける旅に出るのです。それは、自分にも落ち度があったならば仕方ないと思えるかもしれないという、単純な精神の防衛機制でしかなく、犯罪被害者に落ち度があるということはないのです。

私の10年間は地獄であって、その地獄の音は鳴りやまず。複数の中にいればいるほどに、自分が孤独であるということを認識する。どうして、どうして、どうしてと返して、返して、返してと駄々をこねるように怒りを持ちながら、私はそれでも生きることを選んだんだって、そう思うしかない。溺れても、10年泳ぎ続けてきたのにむざむざ、死ねるわけがないと。

私は、先月、あすの会の申し込みをした。私が出来ることは民意の声を大きくすることが法案を通すには一番の近道だと考えている。一番の悪は、

「見たくないものを選択的に見ず他者に状況を変えてもらおうとする民意」

だと思っている。おかしいとおもっていることをおかしいということによって、糾弾されてしまうこともあるかもしれない、中傷的な意見を言われることもあるかもしれない。意見が分かれてしまうことだって、人の主義思想によってあることは重々承知の上である。

今、この生きて活動ができる犯罪被害者が「まあ、誰かがやるでしょう」と布団を顔までかぶって寝てしまっているのは、いずれ犯罪被害者になってしまう子々孫々の尊厳を守ることが出来ないのではないかと思う。

時々、私に「性犯罪被害者の権利拡充なの?」と問う人がいるが、私はすべての犯罪被害者の権利が平等に拡充されるべきであると思う。仮に、性犯罪被害に限ったとしたら、犯罪被害者と言う存在の中での齟齬が起きてしまう。すべての犯罪被害者の権利が拡充されることで、性犯罪被害者の権利もおのずと拡充されると考えている。私は男女で人権の差があると言うように考えてはない、どういった犯罪であっても利益の発生する犯罪は存在しないと断言できるところから、そういったことを提言している。

私たちが支払った税金の使い道は、私たちが選挙で選んだ代表者が決めている。けれども、その詳細や明細と言うもののすべてを知ることはない。

犯罪加害者の矯正施設の運営等に係る税金を国民一人で割ると2000円の負担である、被害者への支援等の税金を国民一人で割ると6円である。

これが、「すべての国民は平等である」という日本の現実だ。この国は、これだけの差があっても平等であり、先進国なのだということをマイノリティは隅っこで黙ってろと言うようにしている。

命に値札をつける人は誰か、それは司法である。私の背中のタグには命の値段が書いてある値札がぶら下がっていて、司法はそれをひっくり返してみては、「じゃあ、これくらいが妥当なんだろうね」と言う。そこまでだ、そこまでしか司法や政府はしない。あとは、当事者どうして債務債権の関係で金員を支払え、ないなら払えないねしょうがないね、被害者の人もないところから取れないから、諦めなさい。と言うことをしている。被害者が全くの無資力なうえ精神的にも四面楚歌であったら、主張できる権利すらもが主張できずに時効を迎える。そこに手を差し伸べてくれるような、天使が存在したとしてもいいじゃないか。

そもそもが、被害を申告できない状態にある人たちがある日、勇気を振り絞って自分のあった犯罪被害を告白したときに心無い言葉が投げかけられるときがある。じゃあ、そういう言葉をかける人たちは奪われてもいいと思っている人たちなのかなと思っている。以前、光市母子殺害事件の本村さんが再婚されたというニュースに「なんで自分だけ幸せになってるんだ」とか「結局、忘れるんだな。妻も娘も」と言うコメントがあった。被害者は一生不幸なまま、新たな理解者や幸せを手に入れる権利もないのかと思った。一生不幸な姿で、一度限りの人生を終えろと本気で言っているのかと。被害者らしさと言うようなものを求める一部の人の存在が恐ろしい。

私は、奪われたものはそれにふさわしいだけ奪い返すというスタンスで生きているから、一生かかっても加害者や加害者の民事訴訟で意味のない扇動した加害者の両親を許すことはないだろうが、もしも犯罪被害者の権利が拡充できたときには、心から感謝するだろう「私を被害者にしてくれてありがとう」と。

可能性が0であると思っていないのだ、たった一人の犯罪被害者がこんなところでああでもないと講釈を垂れたところで一体何が変わるんだと思う人もいると思う。しかし、いつの時代でも誰か一人の声とそれに賛同した人たちが不条理に扱われた現実からの解放を果たしている。だから、私は同じような主義思想を持っている団体に加入して、活動をしたいし小さくとも一人でも聞いてくれていれば万歳なのだ。

世論を味方にすることを正しい形で出来れば、きっと時間がかかっても叶うことだと思う。私は、犯罪被害者と言う自分の姿をこの社会から消して、社会の中で生きてきた。そうしなければ、あまりに不都合なことが多すぎる。この現実の世界で犯罪被害者と言うことを晒して生活をするということがどれだけの危険性があるかと言うことを身をもって体験している。

人は願うものがある限り果てしなく、矛盾を超えることが出来る唯一の生命体だと思っている。私たちが日々の中で思う事柄には少なからず、矛盾が生じている。しかし、それを考えることで心や思考を乱さないようになかったことにする、それは悪ではなく防衛なのだ。しかし、大きな矛盾を抱えたときに人は先人たちが唱えた様々な論理を当てはめたりして、その矛盾を越えようとする。しかし、その先人たちの論理や哲学で解決できないことがこの移ろう時代の中で新たに生まれてしまう、ならば作ればいい。新しい哲学や論理を。

私は、一人でこの犯罪被害の結末を受け入れていくだろう。受け入れられずに死ぬかもしれないし、そんなことは天のみぞ知ることである。死と言うものは暴力だと度々、記載しているが、その間の出来事は不条理を制する可能性がある限り向かい合うべきであると思う。だから、皆さんの力を貸してほしいです、私の声はとても小さく、かき消されてしまうような幼いものです。しかし、この声に添ってくれる優しき未来を思う人が力を貸してくれたならば、パラダイムシフトは起こせると思っています。このnoteの記事をいつも読んでくださり、助けてくださっている皆様に厚く御礼を申し上げるとともに、この小さな声をかき消されないくらいの大きな声として戦ってくださる人たちを心から求めます。今後も皆様の変わらぬご愛顧を賜れますようお願い申し上げます。

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