アメリカ旅行記-1日目-「この中にヘミングウェイはいない」

「あんた、アメリカなんて行くんじゃないわよ」
「え?」
中高の友達と卒業旅行に行く、ということを前々から匂わせていた僕は、事後報告で決定項を母親に伝えた。そのときのアンサーが上の一言だ。切れ味抜群。取り付く島もない。
確かに、母が卒業旅行を後押ししてくれるかは微妙なところだった。そのために外堀を埋めようと先に父に相談して了承を得た。母にもなんとなく卒業旅行があること自体を匂わせて、【僕は旅行に行く】という既成事実を作り上げようとしていた。
ただ、行き先がアメリカ、海外だと伝えた途端に雲行きは変わった。むしろ土砂降り。すぐに冠水。ヘドロまみれ。

確かにこちらに非があるのだ。就活もままならないで卒業もしない息子が海外に卒業旅行に行きたいと言い出したらどうするだろう。まあ怒るのもわかる。
はじめて聞いた時に「まあいいんじゃない?」と言ってくれた父親がおかしいのかもしれない。はやく就職して前借りした旅行代を返さねばならない。

それから一ヶ月、出発まで少しずつジャブを入れてみるものの、母親の反応は芳しくない。逆に、刺激するたびに態度は強固になっているようにさえ思えた。
前金として母に借りた35万円を無駄にしないためにも、僕はなんとかしてアメリカに行く方策を考えなければならない。しかし、焦りが募るばかりで、何の成果も得られなかった。

「やっぱりあんた、アメリカ行ってきていいよ」
「え?」
出発の一週間前。
もはや諦めの境地に達していた僕は、ラストチャンスと称して、その前日にn度目の陳情を母親に試みた。そのときも、母親は「ダメよ」と審判を下した。そこで僕は諦めたのだ。さすがにもう意見を覆すことはできないと思った。
そこからの急転直下。僕の驚きようは想像に難くない。

「なんで?」
「…まあ、今からキャンセルするとなるといろいろみんなに迷惑かかるでしょ? 旅行中に迷惑かけるのはよくないでしょ」
母は歯切れが悪そうに言った。父が入れ知恵をしてくれたのだろう。ますます頭が上がらない。

ただ、母はひとつ読み違えをしている。
奴らは僕がいないからといってわざわざ僕の分だけをキャンセルするほどお人好しではない。以前、同じようなメンツで広島・福岡に旅行したとき、僕が羽田空港のターミナルを間違えて飛行機に乗り遅れそうになったことがあった。そのとき、彼らは一瞬も迷うことなく航空会社の人に「じゃ、置いていってください」と僕を切り捨てようとした。最終的になんとか間に合ったから事なきを得たし、その判断は時間と金の双方の観点から合理的だし、元はと言えば僕のミスなので文句を言う気はさらさら無い。
しかし、その一件は、彼らは究極の合理主義者であり、友達に必要以上に情けをかけるお人好しではないという僕の確信に拍車をかけた。

何はともあれ、母親の松岡に対する評価の高さが幸いした形だ。松岡は僕たちの親の評価が異常に高い。
僕たちの考える松岡像と母親たちの創りあげたペルソナとは大きな乖離がある。僕たちの中では、松岡とは「狂信的な巨人ファンで乃木オタでサークルをバックれたカタブツ」なのだ。

「あと、中村くんも留年なんでしょ?」
「うん」
「あんたも旅行から帰ってきたらまた頑張るのよ」
以前、僕は就活留年を決めた時、母親に「中村も留年らしいよ」と伝えた。中村はどこかに就職を決めていたらしいが、僕は母親に《旅行のメンツにひとり留年仲間がいる》という安心感を与えようと思ったのだ。僕は中村を売った。日本人は同調圧力に弱い。見事にその作戦が功を奏した。

かくして、僕はアメリカに行けることが決まった。僕は急いでトランクを引っ張り出し、九日分の荷物を詰めた。

では、ここで旅行のメンバーを紹介しておこう。
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僕…著者。
石川…最近彼女と別れた。こちらでは「タマキン」として登場。性豪。
中村…留学経験あり。「僕」の母親の中では就職留年することになっている。
吹野…人の心がない。人の不幸でいちばん笑う。
松岡…この旅行の計画者。最近太った。全部の予定を組んでくれているのだが…?
吉村…英語堪能。大学入学以来太り続けている。
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九月五日。
東葉高速線の東海海駅すぐの零一弐三(すうじ)の濃厚煮干しそばと油そばを食らい、意気揚々と成田空港に向かった僕は、以前の反省を活かして集合時間の一時間前に到着した。誰よりも早く到着できた。もう置いていかれるいかれないでヒヤヒヤするのは御免だ。

今回は、無事に全員が集合時間に間に合った。
高校時代、僕は一度だけ海外に行ったことがある。短期留学で二~三週間ほどシアトルに行った。当時はまだ未成年用の青いパスポートで、出国手続きも人力を使ったアナログなものだった。
その点、今回は驚くことばかりだった。
新調した赤いパスポートを機械にかざして航空機のチケットを発券し、顔認証で出国ゲートを通過し、各席コンセント完備のラウンジで休み、ボーイング787に乗り込むまでの数十分を楽しむ。
デジタル化の波はこれほどまでに便利にさせてくれるのか。五年間でこれほどまで変わるものかと驚嘆した。体験は定期的にアップデートしなければいけない。

「別れたわ」
石川が僕に唐突にそう告げた。航空機に乗り込む直前だった。
石川の彼女、もとい別れたばかりの元カノはサークルの後輩だった。「政経、幹事長、巨人ファン、ミスチルファン、サークルで彼女を作る」という王道の人生を歩んできた彼は、これまた王道と言わんばかりに大学卒業前に関係を清算した。

「あー…そっか」
僕は少し言葉に詰まった。このところ二人が別れそうなニュアンスを感じ取ってはいた。それでも、言葉に詰まったことで、自分が思いの外ショックを覚えていることに気づかされた。
僕は、もちろん石川とも友達なのだが、石川の元カノとも友達だ(と少なくとも僕は思っている)。友達同士が別れることで関係がこじれてしまったら残念だなと思った。

「なんでよ?」
「いや、まあアイツが俺のこともう好きじゃないっていうか」
「ふうん」
石川の身に降りかかる不幸はたまらなく面白い。こと他の誰よりも石川の不幸は面白い。のはずなのに、今回は思ったより笑えなかった。
二の句を継ごうと思案するうちに、吹野がトイレから戻り、航空機に乗ろうと松岡吉村が先導して歩き始めた。
僕は窓の外に座る航空機を横目に眺めながら、石川の元カノに「お勤めご苦労さま」とLINEを送った。

ボーイング787は快適だった。
途中、前席の石川中村のモニターが上手く作動しないせいで出立が遅れた以外は何も不具合はなかった。
「罰ポイントね」と二人の横で松岡がニヤニヤしながら告げると、中村が騒ぎ始めた。罰ポイントがいちばん多い人がラスベガスで自費負担でバンジージャンプをしよう、という話が出てから、中村は罰ポイントに過敏になっている。
「だっておかしいでしょ、俺のせいじゃないわけやから」
「まあまあ」
「まあまあじゃなくて!」
「それ以上騒ぐと罰ポイントね」
「…」
それから数分後、石川中村のモニターは何事もなかったかのように起動した。

運良く窓際の席を確保できた僕は、離陸してすぐ、『Quiet Place』という洋モノのホラー映画を観た。
僕はホラー映画が苦手だ。具体的には、リアリティのある痛みを伴うシーンが苦手だ。特に足の裏に釘が突き刺さるシーン。あれはクソだね。自分が食らった時のことを想像してしまうからね。『Quiet Place』にも、そのシーンが登場した。だからクソだね。
「音を立てたら襲われて死ぬ」という設定とか家族愛とか諸々は良かったんだけど、あのシーンのせいで観ている最中に足の裏と歯が痒くなってきちゃった。クソやな。あんな映画の続編が企画されているなんて信じられない。

『Quiet Place』の次は『キングダム』を観た。
原作を読んでいたこともあるけど、これは面白かった。王騎が刀を振り回すだけで雑兵の頭がスパパパと飛んでいく。大沢たかお万歳。山崎賢人大好き。小さなモニターで観る映画は、これくらい大味な方が観ていて飽きない。

ロサンゼルス空港に到着するまでの時間を逆算して、僕は残りの時間で『翔んで埼玉』を観た。
面白い。それ以上の感想はないけど、とにかく頭を空っぽにして楽しめる。GACKTは『風林火山』の上杉謙信役以来のハマり役だった。このあたりでやっと足の裏の痒さが収まってきた。

「まもなく、当機はロサンゼルス空港に到着致します…」
『翔んで埼玉』のエンドクレジットをぼーっと眺めていると、画面が一時停止し、機内アナウンスが聴こえてきた。手動で明度を切り替えられる窓を最大まで明るくすると、そこにはアメリカが広がっていた。窓一面を覆うロサンゼルスの建物群と、それを縫うように敷かれた高速道路網。日本にはない乾燥した埃っぽささえも、僕を高揚させる材料になる。

ヘミングウェイは、「もし君が、幸運にも青年時代にパリに住んだとすれば、君が残りの人生をどこで過ごそうとも、それは君についてまわる。なぜならばパリは移動祝祭日だからだ」と言った。
ボーイング787がロサンゼルス空港に軟着陸し、乗客が降り始めるとき、僕はこの言葉が思い浮かんだ。僕が以前訪れたのはシアトルであり、ロサンゼルスとは遠く離れている。しかし、やはりそこはアメリカであり、高揚感とともにどこか少し懐かしさを覚えた。その懐かしさは恥ずかしいものだ。そして、その思いを振り切るように僕は「いやあ、なんて言うか、『ただいま』って感じだよね」と芝居じみた口調で言った。
どうせなら、この懐かしさを盛大に弄って欲しいと思った。しかし、その噎せ返るような恥ずかしさは、僕の思いに反して「いや、うるせえな!」という吉村のオーソドックスなツッコミと乾いた笑いで流されてしまった。
アメリカに着いた、という高揚感が彼らにもあったのかもしれない。しかし、処理され切らなかった僕の心は少し傷ついた。

この中にヘミングウェイはいない。

改めてそう胸に刻み、僕はリュックと期待と少しの傷を背負い、ボーイング787からロサンゼルスの地に降り立った。

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