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暖かいキャンバス

「怖い話集めてるの、不思議なのでもいい?」
そう話を切り出したのは油画を得意とする木曽くんという男の子。

「学校でキャンバス張り替えるじゃん」
「そうねえ」

僕は軽く返事をしたが、キャンバスを張り替える……と言われても、もしかするとピンと来る人は少ないのかもしれない。

キャンバスそのものはきっと頭に浮かぶだろう。白い板みたいなやつである。

実はあれは、そういう絵描き用の板ではない。
あれは、ただの木枠に専用の布を張り詰めて留めてある。

絵を描き終わったらべろんと外して額に入れて飾る。
1番身近にわかりやすいのは、どんぶりや皿にサランラップを張った様子や刺繍枠に張られた布の様子が1番そのキャンバスに近いかな、といったところ。
ピン、と貼られた布に絵の具をのせていくのが油画である。

「そのキャンバスの木枠の話なんだけど」

これは木曽くんが大学に入学して、1年、2年、を順調に無事に終了し3年生になった秋頃の話。

端的にいうと、スランプに陥ったのだ、という。

何を描いても形が歪んでうまくとれない、どこかが気に食わない、ビシッときまらない……。
本来の自分を見失ってしまっているのか、過去の絵を見ればどれも大作に見えて苦しい思いをした時期が続いた。

(ああ、俺にはきっと才能がないんだろうなあ……やめちまったら、楽なのかもしれないなあ)

毎日そう思い詰めながら夜遅くまで教室に残って描き進まない油画を眺めてぼうっとしていた。

いっそ辞めてしまおうかな、とも思ったらしい。
それでも辞めなかったのは意地とか根性とかそういった物でもあるし、過去の自分の作品に今の自分が負けるのはたまらなく悔しかったからだという。

「もうやめよう、って。描いては削って、描いては削って、塗りつぶして……全然描けなくて、弱音を誰かに聞いて欲しかったけど“いや、1年前はこんなに描けていたのにそれはどうよ”って自分で自分の心を圧迫して凄く辛かったんだ」

友人や家族にその弱音を吐こうとしていた時期もあったが、何となく遠慮する気持ちや心配をかけたくないという気持ちが先行して結局何も言えないままになってしまった。

「その頃、帰り際にいつも挨拶してくれる4年の先輩がいたんだけど、その先輩が声をかけてきてくれたんだ」

いつも、帰る時に「おつかれさま」と声をかけてくれる女の子がいたのだという。
名和さんという4年の先輩で、夜遅くに残っている自分を気にかけてかいつも帰り際に声をかけてくれる。

ただ、その日は違ったのだという。

「だいじょうぶ?」

名和さんは心配そうな顔で木曽くんに声をかけた。
大丈夫かと聞かれると大丈夫ではないが、弱音は吐きたくない、と強く思った。

思ったのだが、

「大丈夫じゃないです……」

大丈夫です、と返そうとした口が、自然と真逆の事を口走っていた。

大丈夫じゃないです、と一つ口に出すと、堰を切ったように「全然描けないんです」「どうしたら描けるようになりますか」「辞めようかと思うんです」とぼろぼろと言葉がこぼれ落ちて来た。

(まずい、止まらない……)

口からネガティブな言葉がぼろぼろと溢れてくるのを、名和さんは「うんうん」と静かに聞いてくれていた。
名和さんが黙って頷いているのを見ていると、すぅと心が落ち着いてきて、落ち着いてくると急に恥ずかしさが込上げてきた。

「すみませんでした……」
「ううん、最近ずっと悩んでたぽいから気になってたの。私も悩む事あるから。ね?お互い様だよ」

謝る木曽くんに、名和さんは終始優しかった。
きっと今描いても苦しいだけだから、今日は帰ろうかと促されて木曽くんはそれもそうかと帰る事を決めた。

「それで、帰り支度をし始めたんだ。先輩が絵の具の片付けを手伝ってくれて……。
その時に“明日、よければ試し描きしてみない?大きな絵じゃなくて、小さなキャンバスに好きな物を描くの。スランプを抜け出すきっかけは一枚完成させる事だよ。明日もここで絵を描こうよ。私、キャンバス用意してあげるから”って言ってくれたんだよね」

木曽くんにはその時の名和さんが女神に見えたという。

小さなキャンバスに絵を描くという発想などその時は全く持っていなかった彼は今までに描いていたサイズと同じキャンバスと向き合い続けていた。

今のスランプを抜け出すために、小さなキャンバスから再出発しよう、というのが神の啓示のように思えたのだ。

「よろしくお願いします!!!」

こうして次の日に名和さんとまたこの教室で絵を描く約束をした。

次の日、名和さんが両掌にすこしはみ出す位の正方形のキャンバスを持って教室にやってきた。

思っていたよりも遥かに小さい、A4かそれより少し大きなサイズを想像していた木曽くんの気持ちがスッと軽くなった。

直前までなんとなく何を描こうか思案していた木曽くんだったが、なんだかその小さなキャンバスがあまりに可愛らしく見えて、先程まで頭に浮かんでいた構想やら難しく考えていたものが“ぽん”とどこかに消えてしまった。

そして「はい」と渡されたキャンバスは何故かぽかぽかと“暖かかった”。
しっとりと優しい重み、人肌よりも暖かい。

「手渡されたキャンバスを手に持ったら、ホッカイロみたいな暖かさがあって吃驚したんだ。先輩に「これ……」って言ったら“微妙に暖かいでしょ。でも嫌な感じはしないでしょう?ふふん”って笑うんだよ」

確かに、嫌な感じはしなかった。
素直にキャンバスに絵を描き始めると、それでもやはりスランプの焦燥感が心の中に渦巻いた。

(ああ、こんな小さなキャンバスも満足に埋められないのかもしれない、あれだけ描けていたのに、ここの部分ももっと上手く描けていたのに……)

心の中の焦燥感と焦立ちをぶつけるように、今まさに描き込もうとしている最中の要所を塗り潰そうとした。

〈……くくっ〉

手首が何かに掴まれるようにして止まった。
塗り潰そうと動いていた指先がすんでの所で止まる。
不思議に思って手を動かそうとすると、すんなりと動かす事ができた。

(きのせいかな?)

アンガーマネージメント、というやつだろうか。
今のこの瞬間に静止を受けた事で、この箇所を勢いで塗り潰してしまったら絵が台無しになっていたであろう事が木曽くんにも理解できた。

先輩の方を見ると「ほら、描いた描いた」と言わんばかりに頷いたので、それに従って描く事に集中した。

その後も何度かむしゃくしゃして塗り潰そうとした瞬間があったが、その度に〈くっ……〉と手首が暖かい何かに掴まれ静止されたような感覚がした。
その〈くっ〉を受けて何度か立ち止まると、焦りと苛立ちに任せて絵を描けなくしていたのが紛れもない自分である事を悟る事ができた。

何時間かかけて、木曽くんは一枚の小さな絵を完成させた。
木曽くんの実家で飼っている猫の絵だ。
今まで描いた中で1番小さなキャンバスだったが、出来ばえは今までに無いほど良く、1番大きな大作となった。

名和さんは「おつかれさま」と完成を労ってくれた。
その日は解散して数日後、名和さんはキャンバスが乾いた後、丁寧にその木枠から絵を取り出し、可愛らしい真四角の額に入れてくれた。

「先輩、この木枠ってなんなんですか……?」

不思議な体験をした木曽くんは、聞いてはいけないのかもしれないと思いつつも名和さんに問いかけてみた。

問われた名和さんは、どう説明しようかなぁという風に少し目線を上にした後、話を切り出した。

「この木枠、絵描きだった従兄弟の叔母さんが子供の頃にくれたの。子供の私が絵に興味を持ったから、大人がやるみたいにキャンバス貼って絵を描く楽しみを教えてくれたの。スランプの時はこのキャンバスで絵を描くと自分の悪いところがわかる……ううん、教えてくれる、かな?…………木曽くんもわかったでしょう?」

名和さんはそれ以上多くを語らなかったが、絵が好きな従兄弟の叔母さんという人物が名和さんと同じく優しい人だったのだろうという事がわかった。

「焦りすぎてたんだと思う。どうして、なんで、やり直しだ!って思って潰してた部分は、実は描けてたんだ。立ち止まってよく見てみればよかったんだって名和さんと、名和さんの叔母さんにキャンバスを通して教えてもらった。あれがなかったら俺は大学辞めてたから、本当に助かったんだよ」

名和さんは卒業後、絵をもっと学びたいと海外に飛び立った。

なのでこの話が当の“名和さん”に届くかはわからない。
ただ、今自分が絵を描く事を続けられている感謝を込めたいとの事だった。

今も木曽くんの部屋にはあの時描いた猫の絵が飾られている。

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