「好き」という感情を言語化する先に

あのミュージシャンの音楽が好きだ、とか、

あのブランドの服が好きだ、とか、

クラスのあの子が好きだ、とか、

誰しも「好き」という感情を抱くことがある。

最近、この「好き」という感情を大事にしている。

特に、買い物のシーンでそれは多いかもしれない。

服を買うときに、「第三者から見たらダサいかな?」と思ってしまうことがある。

でも、自分は「好き」だと思って、その服を手に取る。

そうした場合に、最近は
「第三者の目」よりも、「好き」ならいいじゃん!
と思う。

お気に入りの「好き」な服を身につけていればテンションも上がるから。

それにしても、この「好き」という感情はlikeにしても、loveにしても、言語化するのがなかなか難しい。

というか、

言語化するととても安っぽくなる。

例えば、服一つをとっても、

ブランド、色、デザイン、サイズ感、素材等々、

色々な条件を総合的に判断して、「好き」という感情を抱いている。

しかし、「好き」を言語化しようとすると、「ブランドが好き」とか「デザインが好き」とか一つの要素に焦点を当ててしまうことが多い。

つまり、総合的に判断して「好き」という感情を抱いているはずなのに、1つの要素以外の要素が除外されてしまう。

このことは、音楽にも当てはまる。

僕は浜田省吾の曲が好きなのだが、年齢的にいわゆる「世代」ではない。

このため、よく「なぜ浜省が好きなの?」と聞かれる。

答えは、

"全てが良いから"

なのだ。

「歌詞」が好き、と言ってしまえば、じゃあ「メロディーは?」「声は?」「サウンドは?」ということになる。

そういうことじゃなく、「彼が生み出す音楽」が「好き」なのだ。

そして、恋愛にもこのことは共通していると思う。

恋人に「どこが好き?」と尋ねる/尋ねられることがあるかもしれない。

でも、こんなのは愚問中の愚問だと思う。

人のことを「好き」に思う感情なんて、服や音楽以上に直感的で、色んな要素が掛け合わさっている。

仮にこの質問に対して、「性格」と答えるとしよう。

そうすれば、「じゃあ私の外見は?」となる。

「顔」と答えてしまえば、「じゃあ私の内面は?」となる。

それならば「顔も性格も好きだよ」と好きなポイントを列挙して答えれば良いのか?

たふん、それはそうではない。

言語化して答えようとすればするほど、直感的な素晴らしい「好き」という感情が、どんどん安っぽくなっていく。

さきほど、僕は浜田省吾の「全てが良いから好き」と述べた。

音楽に関してはこの説明はアリだと思う。

だが、恋愛に関しては「全部好きだよ」というと嘘になる。

相手のことを100%受け入れて恋愛出来ている人は少ないだろう。

つまり…

恋愛において「どこが好きか?」と尋ねることはやめたほうが良いんじゃない…か??

相手が好きでいてくれたら、理由なんてどうでもいいじゃん!

ということである。

すべての「好き」という感情に細かい説明は不要だ!!

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