見出し画像

テキサス・レポートについての報告書

「テキサス・レポート 20210629」
近年ますますその貴重さを増しつつある24時間営業のマクドナルドにて記す

ーー男の手記にはそう書かれていた。標題に付された数字は、西暦と年月日を表したものであると推察される。
かつて男が住んだという部屋からこの文書が発見されたとき、我々はくたびれた紙の様子や纏いつく匂いからこれを手記と呼んだが、現代からしても、またはレポートが書かれた年代を考慮しても、電子デバイスの普及した環境における「手記」とはどのような形式を指すのかという難題を我々に突きつけずにはおかなかった。つまりは、スマートフォンに打ち込んだ文字が電子データとして保存されているものまで広く手記と呼んでいいものか、あるいはもっと保守的に、このような問題がそもそも発生しようのない時代にまで遡り、紙にペンで書かれたものだけを手記と認めるのか、というような問題である。
さしあたって、この問題はどうでもよい。我々の目的は論争ではないのだから。この手記論争について立場や意見を表明することを我々は慎重に避けるべきなのだが、まあしかし、白状しよう。人間が人間である以上、集まれば目的遂行の上では不必要であるとしてもあの非公式な会合はどうしたって発生してしまうのだ。私は雑談のことを言っているのだが、例の問題については、ちょっと話してみただけでも、その場にいた5、6人のスタッフのあいだですら統一的な見解を得ることがほとんど不可能に近いだろうということを、その場にいた誰もが悟ったのである。
ところがこのような事実にも関わらず、我々の中の誰かがいつの間にか、私のデスクの上に置かれたこれを手記と呼んでおり、調査が進んでも、誰も異論を唱えずにそのままこれを手記と呼んでいたという事実が、今になって私には特に重要に思われてくるのだった。その意味、いや、意味などないのかもしれない。少なくともそれは検証不可能である。このレポートはパソコンか、あるいはスマートフォンで書かれたものだろう。しかし、それにもかかわらず、このレポートはわざわざ紙に印刷された状態で、何年もの間、誰もいない物理的な空間で眠っていたのだ。まるで、誰かを待つように。そこに何か意味があるということを、我々の誰もが初めは意識せずとも、それを認めていたということではないのか。
私もこれを書きながら、ずいぶんと戸惑っているようだ。だがこの戸惑いを記しておきたかった。どういうわけか、そんな気分だった。

ここにある男の手記を、
「テキサス・レポート 20210629」を公開するーー

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?