宮台真司のタワマン・地方移住・共同体・スローフード・幸福論


2022/11/26 に youtube 上にUL された以下の YouTube 番組へのノート第2弾.
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【宮台真司のタワマン幸福論】タワマンに住んでも幸せになれない/スローフードの真実/ 良い共同体と悪い共同体/ 地方移住の心理/人類は
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但し,安藤や司会者の発言部分は除く.

それは【ニュースキャスターとメディアの崩壊】として別記事とした.ゴミなので無視されることをお勧めする.そこでは,マスコミ・メデイアは「頭脳部分(スタッフ)の軟化症化へと進み,その全面前面公開現象」と述べた.


残る宮台の発言について結論を先に言えば,

地方を「悪い共同体」と安易に片付けることは誤り(既に共同体は無い),そして若者を「地方移住」の開拓民へと煽動するのは無責任.東京に残ったままの宮台は宣教師にもなれない.

■ TV時代と久米宏,youtube の今は


さて,TV時代を初めから終りまで同時に生きてきた,ことにふと気づく.全国放送が始まり,歩ける範囲で一軒にテレビが入った.そして翌年にはどの家も.

今はその終わり,90年代以降の失われ,そして底無しに落ち込む30年間.最初の10年はそれでも試みがあったが,断末魔の段階さえ過ぎ,今は融解に入っている.昔は米国輸入ドラマだったが,今は中国・韓国輸入ドラマ・日本の過去番組の再放送.そして….

この全体を見る羽目になるとは思いもよらなかった.代りに量質ともに雑然と進展しているのがYouTube.

その中,この宮台のトーク番組を評価してみると,知的? 雑談番組としては面白いという人が増え,受けるかも.プロデューサーがうまく売り出せば1~2年程度はもつかもしれない.

随分と昔になるがカルチャーセンターのプチブームやその後の小泉現象と共にワイドショー.そして久米宏の報道番組「ニュースステーション」があったがその週刊版に相当するものになるかもしれない.

後者についてはメディア業界の中では珍しく,世間との距離感・風通しの良さがあったが,時代が違う宮台の場合どうなるか,トータルでみるとインテリ風迎合的になるのではないかと疑問が残る.忖度ごっこと目眩まし100%の世界では.

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以下,宮台の発言の要旨,空行の後の→に続く部分が私のコメント.

■ 家族(絆・感情)・損得勘定(理性)


> いざとなったときに頼れるのは家族,という考え,これは絆を損得勘定で捉えている



なるほど.すると,
損得勘定で考えることは理性的だから,家族関係を損得勘定でしか考えられないのは絆が事実上無い家族か?

安藤の家族第一(絆)に対する反発は感情レベル(の劣化あるいは未發達)に留まり,話が先に進まない.これは絆も理性も未発達か? そして損得勘定のみでしかもそれに気付かないレベルのノッペラボーな世界に日本はなっているということか.

では,中国の拡大家族主義はどういう分類に入るのか?

宮台の論の進め方,家族の絆と損得勘定という単純過ぎる分け方は,子供じみてるが,その場限りの,しかも浅い常識レベルで使っただけなのだろうか.


■ 内発的絆・感情的誤認による社会化(ブーム)・統治コスト

> 絆は本来は内発性のもの,何があってもその人を助けたいと思う.しかし,2011年震災以降の絆ブームは(ヘソで茶を沸かす)誤認に基づくもの.



ふんふん.
では,後者は誤認に基づく感情レベルのものか?
誤認とは何か? 正確な認識とは何か?
鋭い指摘かもしれないが,そこでブツ切れでは,オオカミ少年にもなれないのでは….

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> 社会化vs社会統制 (タルコット・パーソンズ,フーコー)
> 後者:法に基づく警察・司法権力・圧力をかけることによる統制.これのコストを低減する方法,それが社会化,
> 前者:社会による洗脳で内側からそう思うように仕向けてしまう.従って,内から湧き上がる絆といえども,統治する側から見れば,統治コストの低減化材料.



2011年震災以降の絆ブームは,感情的に誘導され社会化されたもので,統治コストの低減化に役立った,と言う.ならば,

その時点でどういう統治に役立ったのか? どのような統治が必要だったのか? そのうちどの部分がコスト低減化のためにどのように絆もどきに社会化され仕向けられ何に誘導されたのか?

ここで唐突にタワマン問題に振られる.


■ タワマン問題:近隣が無い

> タワマン問題とは,近隣がいないこと.戸建てであればゴミ出し当番バックなどがあるが,タワマンにはない.



数十年経って今は限界オールド(元ニュー)タウン化している(5~10階建 or 戸建て)団地も最初はお上の肝いりで〇〇祭りなどやっていたが,それも含めて所詮共同作業の無い核家族用ベッドタウン.それもまた非近隣化への第一歩だったろう.タワマンはその最終段階か.

そしてそれと昔の奴隷船との違いは分厚い壁と別の用途別スペースへの移動の自由か,あるいはフーコーを出すなら独房の,自由化現代版だろう.


■ ストレス・無挨拶

> これが進展して,一緒にいること・出会うことがストレス(滑稽な進展→20年ほど前に話題になる.帰宅時エレベータで人がいれば時間つぶしにコンビニへあるいはタバコ吸いに逆行).



ストレスとか滑稽というより,一種の礼儀だろう.居住地が近隣するという物理的近接性にもかかわらず,伝統社会と違って共同体性・社会性が成立しないので(ベッドタウン,共同作業無し),見知らぬ他人という間柄を演出するのが合理的であり礼儀なのだろう.


> 最近では子供への声掛け禁止から挨拶禁止へ進展(それがストレスになり,それは良くないから).この現象は地域社会にも広がっている.



うぅ.田舎では,表面的に逆に,小学生の登下校時の,大人への挨拶運動をやっているところがある(ただし,強制的で暗い).

■ 深刻な影響


> 日本では階が上に行くほど値段高く,ハイクラス.そのイメージは学力の低さを現す.
> データを見ると,まずイギリスで1970年代以降4階以上に住む女性の流産率と死産率が高いことが知られるようになり,その後世界各国で検証された.
> 今世紀入ってからは加えて認知症の深刻化あるいは鬱化したデータもでるようになった.

仮説:
> 高層階に住むことによる孤独感.
> 上り下りにコスト(面倒臭さ)から出不精
> 子供は外遊び激減(→人間関係による感情成長劣化)
> 気温・湿度一定・季節感無し→変化への反応必要なし
> この10年+α 言われるようになった無刺激症候群
 →子供の学力低下(読解力・集中力・持続力・合理的計算能力).
 →スキルの低下やストレスの上昇

> こういった統計的事実と合理的推論がある
> にもかかわらず上層階に住む人はノータリン.



それは考えられるにしても,タワマン居住者というか利用者でこういうタイプの人今現在,どのくらいの割合でいるのだろう?
それ以外で思いつくのはお上りさんビジネス利用のセカンドルームで小金持ちの資産運用.昔の友人で1人だけ小金持ちになったのが居て,彼がこのタイプ.

宮台の想定するタイプは今現在,かれの知人にいるのだろうか? それとも現在のアンケート調査でもしたのだろうか? それとも….

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一番の問題は,タワマンだけの問題ではない.健康と集合建物の階層を問題にするならば,そもそも彼が引用したデータ「イギリスで1970年代以降4階以上に住む女性の流産率と死産率」はタワマンを対象にしたものではあるまい.さらに年代が今に近づいてもデータを取る際,「4階以上」をタワマン上層に見せかける必要はあるまい.前者は普通中層であり,それらはタワマンの数より多いだろう.

また,宮台は「日本では階が上に行くほど値段高く,ハイクラスのイメージ.それは学力の低さ故」とバカにしているが,3F 以下のアパートに住む人を知らないはずはない.そしてそこの住人はタワマン族に比べておそらく低所得者層であろうが,かれらはバカにする値打ちも無いので対象外としているのだろうか? それとも3F 以下のアパートに住むことを勧めているのだろうか? 論理的にはそうすべきだがそれには触れていない.

■ 対応策・責任


いずれにせよ,健康を脅かすデータがあるならば,それらに対する厳しい建築規制が数十年前から必要だったろう.宮台はその時分に提言したのだろうか? 当時それをせず,今頃タワマン住人ノータリン説で遊んでいるのだろうか?

このデータは研究者しか知らないのだろうか.功労所もとい厚労省あたりの仕事ではあろうが,日本はしなかったのだろうか? 「学力の低さ故」なんて,意地悪っこぶりをする暇があるのなら,代りに広報担当を引き受けて数十年前になすべきだったろう.タワマン業者の圧力など無かったろうし.

さらにハイクラスにも色々ある.その分類もしたらさらに見えてくるものあるだろう.
また,近い環境と言って良い刑務所かその種のものとの比較調査を,社会学者なら何故しないのだろう?


ここでいきなり,孤独なタワマン・ノータリンから,共同体論に急転される.

■ 共同体問題


> しかし,地方から出てきてIT企業に勤める人にとってタワマンは? シガラミから開放されたいはずだし,仕事も生活も摩擦を避けるのが第一,それが幸福では?(司会者のコメント)



安藤の思い付き発言はともかく,どうも番組制作者は個人の安易な幸福度の視角に焦点を合わせたいようだが,おそらく事前の調整無しの番組なんだろう.一方,宮台は「共同体」に大きく舵を切る.

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> 定理《共同体が空洞化すると共同体主義が増える》埋め合わせとして.(マンハイムの図式)
> 内発性が乏しくなり,そうあるべきだ!とお互い外圧を加え合うことによる規制が増え,自粛警察化.
> これが共同体?地方にあるのは良い共同体なのか?



ふんふん.共同体と似て非なる共同体主義.しかし共同体が少しは残っていそうな日本の地方にはその残滓すら無いのに,今更言挙げする意味があるのか? せいぜい国策・地方活性化ブームに乗った町の子の移住者による共同体ゴッコしかないのなら,宮台は変種のマッチ&ポンプ,共同体主義のポンプ&地方活性化マッチに加担している.

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> 国家から自立した共同体か



共同体主義が増え空洞化した共同体と,「国家から自立」は別の問題.

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> 地方に残っている多くは悪い共同体
> 選択2つ:
> それを良い共同体にする,
> 悪い共同体にうんざりしたからと一人ぼっちで孤独になる



宮台は何の根拠も経緯も示さず,共同体,そしてそれに悪いのと良いのがある,という図式から出発した.

分かりやすいとはいえ,まるで中学生が英語単語帳あるいはその延長上に,白黒のようにはっきり区分して両者一緒にペアとして効率的に覚える.それを拡大して大きな事象もエイヤッと料理するスタイルがこれ以外にも目立つ.が,それでうまくいくのだろうか?

タワマン住人をノータリンと見做した宮台は.何故,「地方に残っている悪い共同体」に向かう地方移住者を,批判しないのだろうか? これもシステムのクズの新しい形ではないのだろうか?

逆に「良い共同体にする」宣教師扱いしているように見える.あるいは悪い共同体しか残っていないので開拓民を勧めているのだろうか? いずれにしろ半端な考えであれば,お遊びかペテンとなる.

共同体に悪いものと良いものがあるというよりは,そもそも今や共同体が無い,ということをかれらは知らないらしい.かりに共同体らしきものが残っているとすれば,田舎ではなく,都市の下町がもし機能している地区があれば,そこが唯一の可能性だろう.

ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの時代や,日本では高度成長期以前ならともかく,今,共同体という概念が有効とは思えない.

何処に行ってもゲゼルシャフトしかない.地方においても荒廃地や空き家は見えても共同体は無い.都市以上に地方に共同体は無い,と誰でも見て取れるだろう.

元々歩いて行くことが出来,共同作業が必要な地理的範囲内でそれに関係する限りの共同体が成立するのであろう.

そこに道路等のインフラと自動車が普及すれば,活動範囲の広域化が生じる.それはゲマインシャフトではなくゲゼルシャフトの進展に直結する.と同時に農家の兼業化と個別的機械化により共同作業は一層の矮小化・有名無実化,要するに共同体は本質無しの陽炎になるとしか言えまい.

3年ほどそこで生活すれば.あるのは,共同体の残滓・田舎の劣化した悪い面と半端な物的都市化(精神も含めて).結果は醜悪きわまりない,補助金とそれに伴う裏金フローに仕えるシステム.それに群がる貧困精神が普通となり,加えて公的部門の劣悪なサービスと不祥事が蔓延する.

これは文明化へは向かわない悪しきゲゼルシャフト化であり,共同体というより昔の共同体より狭い範囲でのかつ一時的な金銭的な繋がりでしかない.

一方,それに積極的に加わらない孤独ではない人たちもいる.その程度はややマイルドなゲマインシャフトの残滓.それは地元の人で言えば,例えば家族あるいは一族の誰かの老人が農業をしていれば食料と家には困らないから.だから孤独になるという緊張感も,良い共同体にしようという志も,生まれる可能性がほとんどない.

■ 地域活性化と共同体


他方,外部から来るものは,特に最近の地方活性化ブームで寄るものは,昔の範疇で言えば,(本人には意識がないだろうが,)移住者・移民というより芸の無い旅芸人か棄民が多い.政府の無責任な地方活性化や地方移住政策ではそうなるしかないし,ましてや宮台のけしかけたゼミ生や小グループ運動では種火も火も作れまい.

彼らの資質以外に,社会形成のために必要なものがある.一定の(人口)数的規模と一定の期間継続が必要.そして個体経営と全体経済の再生産可能性.

だから,良い共同体にする,というのはモデルが無いし曖昧すぎるし,プログラムさえ無いアイデアである.要するにペテン.

宮台の語彙,引用されたマンハイムのもので纏めると;共同体は空洞化しその代りにあったはずの共同体主義さえ今や無い.

その遺産を継いだわけでも無い若者たちに良い共同体は見えるはずも無し.それらしきものがあるとして彼らを煽るのは安手の宴・ペテン.


司会者の個人主義的幸福論をやさしく無視した宮台の空虚な共同体論の後で,それ以下の,再度の安藤を加えてのしつこい幸福論が続く.

■ 幸せになるために!自分らしく生きるために!(タワマンと地方移住)


(空気を読めない安藤の脇見運転)

> 地方移住パラダイス風のテレビ番組が目につくが,シガラミの無いタワマン ぱらだいすと田舎どちらにしろ,
> そこで得られる何かを満喫するためか ,
> それとも自分が自分らしくあるために行くのか,
> 自分の幸福度が上がるか否かがキモ



ここでのテーマが共同体なのに,それを無視して強引に個人の幸福度にとって何が良いか(タワマンと地方移住)という問題にすり替えている.しかもその意識が無い様子.これでは安藤はシラフの酔っぱらいオジサン.

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> 自分らしく生きるためにタワーマンを選ぶか地方に移住するか(安藤)地方へいらっしゃった方が,近所の人がベルも鳴らさずにズカズカ入って来る,と言うが,それが嫌ならそもそも行かなければ良い.

> 何を求めて行くのか? 自分が自分らしく生きるために….内省的な価値観で軸としての自分の幸福度が上がればどちらの選択でも構わない…



先ず,町から田舎に行った人が習慣の違いにびっくりすることはある.嫌というより気に入らないこともある.

しかし移住となると話は別.先ず,当然,事前に情報収集するから.しないのは子供.時間が経って気づくびっくりは別だし,その場合もふつうはそれなりに対応し慣れる.

だから,「それが嫌ならそもそも行かなければ良い」という安藤の反応は,いまだに子供のセンスしか無いものの放言.地方に移住する可能性が無いだけでなく何も知らない者が,しかも上から目線での軽薄放言と言われよう.

しかも止せば良いのに他人事感覚で「自分らしく生きる」という言葉を取って付けている.それが夢想の世界で杖を振ったことになり,たちまち皆んなを主体的世界に導いて幸福になる話をつけたつもりだろうか?

つまり,タワーマンを選ぶか地方に移住するか,いずれにしてもそれを内省的問題・「自分らしく生きる」ことに繋げ,共通の軸としての幸福度の選択の問題としている.(そもそも両者で共通の軸としての幸福度など存在するのか.言葉の遊び).これは,すくなくとも宮台の論点・枠組みとは外れている.

さすが宮台の傍にはタワマンでそういう「自分らしく生きる」内省的価値観の連中はいまい.特にタワマン論議では,そこに住む者はバカにされ学力の低いノータリンと言われるから.ということは,それが「自分らしく生きる」幸福と見てしまう安藤の理解力は(意地悪婆さんぶりを隠しているので無ければ)ノータリン.(この番組制作者が安藤を呼ばなければ,恥をかかなくて済んだものを).

要するに,安藤は宮台の話を聞いてもそれを理解する能力が無く,宮台はワザとその表現を用い悪役ぶって注目を引く.2人で,捻った上級? 漫才.

宮台さすがに呆れて安藤の上擦った放言を遮り,話題を変え,やっと社会学者の本領発揮する.

■ スローフード運動と共同体


> イタリアで1986年カルロ・ペトリーニたちによって始められた食の社会運動.以降ヨーロッパを中心に世界中に広まった.10年後,それに恐れをなしたアメリカの巨大流通資本ウォルマートが対抗して LOHAS (Lifestyles of Health and Sustainability) を推進した.

> 違いは,前者が仲間のための,資本主義に対する構えとしての(否定では無い)ソーシャルないしコミュニティ運動.他方後者は個人主義的なライフスタイルで流通資本が提供する摘み食い的なもの.

> これに繋がるのが宅配・Amazon(E-Commerce)
であり,その帰結は人間関係・コミュニティが損なわれる.あんぐり口を開けて待つ豚馬な消費者しか残らない.このメンタリティの者は地方に行っても新しいソーシャルスタイルを作れるはずが無い.

> 何故,こんな当たり前のことが分からないのか.これに対する反省があるのであれば,自分たちであるべき共同体を作るべき.


次に,定住生活と幸福論に入る.

■ 生き残りのためのコラボと集団定住生活 vs 幸福


幸せは本当に「人それぞれ」なのか?
宮台によれば,それは悪しき発想.

> 進化的心理学によれば,体も脳も小さいホモサピエンスはコラボしないと生き残れなかった.コラボをするにふさわしい心の態度を発言させる遺伝子をもつ集団の生存確率が高まった.獲得に200万年.

> 社会学では本能という言葉は禁止.学習プログラムで書き換え,という考え方.しかし,ゲノム的なものがない訳がない.…孤独を含めて幸せには普遍的な要素がある.孤独なそれは文化的なプログラムの書き換えによる誤魔化し.

> 次に,言葉ではっきり言うこと,法に従うこと,損得勘定ができることは,良いこと.そういう構えは,1万年前の定住によって始まる.定住生活では,ダンバーズナンバー(50-150人)の集団で安定した関係を結べた.

> 言葉や損得勘定・法が大事と思うようになったのは,ごく最近の3000年前の大規模定住から.それ以前は言葉も掛け声.

> 定住生活はストレスフル.だからお祭りをやるようになった.



定住生活を前提とする以上,お祭りは必須.しかしニュータウンのイベントでは長続きしない.大規模団地やタワマンでは考える人もいない.そうするとタレントの主催するイベントに出掛けるしかないのか.あるいはVRに没入する….これをコラボと言えるのか?

そして年寄りと子どもはどうする? 宮台の幸福はどこへ行けば手に入るのか?

人間は自由でない集団的定型生活がベース.したがって幸福も自由度は少ない.その上でどうするか?

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