資本論を受け止めて

1『誰も「クイズ王」とは呼ばれたくない…生きるために『資本論』を読む』
https://note.com/gentosha_dc/n/nc019b2d7e75e

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私(このブログ主)の感想意見。
価値を産む抽象的人間労働力が経済の結節点だから、実際に歴史が続いて来ている。

その抽象という意味内容と労働力が合わさって価値も歴史循環力も生まれている。資本論が語りかける意味はそこにあるのではないか?あるいは、そこにもあるのではないか?
もちろん労働力が価値増殖の源だという点を、つまり労働価値説を説き解明した経済学史的な新しい証明を資本論の意義とする見方が正しくもあるが、哲学的な物質(生産物の意味でも)を解明した点でもあることを、換言して物証化したという点を、見落としてはならないはずだ。
しかしそれを言う哲学者も経済学者もいない(私が確認できていないだけかも)ことが、気になるのだ。
資本論が正しく読まれているのか?その真価が受け継がれているのか?マルクスのその想いが伝わっていかなければ、資本論そのものと、資本論を書いた意味がなくなる。
つまり現実に即した実用の書としても、その現実の力として生きている意味が消されてしまうのだ。

資本論を語れども換骨奪胎では、それは資本論ではないさずだ。





2働価値説の冤罪を晴らしたい

https://note.com/ichbinw_g_w/n/nce0146012858

「価値」というと、燦然と光り輝く神秘的な何かを連想してしまうかもしれない。あるいは、価値は人間の欲求に対応して、自然発生してくる事象だと思うかもしれない。
しかし、資本論において、それらの連想は単なる幻想にすぎない。マルクスは、私たちの「価値」に対する幻想を「物神崇拝」と呼び、本来の価値と区別した。マルクスが分析する「価値」は、つまらないほど浪漫がなく部品的な概念となっている。すなわち、価値は、資本主義という複雑な社会システムを構成する、一定の機能が搭載された「部品」であって、ここに神秘性や自然性が入り込む余地はないと言う。そのため、私たちは価値という言葉の響きが持つ神秘性に囚われず、純粋に資本論を読み進める必要がある。そういう意味で「資本論を読む」とは、私たちの視界や世界観を覆い尽くしている物神性との格闘だと言えるだろう。

しかし、典型的な反労働価値論者や批判的マルクス主義者は、まんまと物神性の罠に嵌ってしまっているようだ。だから、しばしば彼らは、以下のようなことを言う。

「価値は個々の人間の欲求(需要)に対応する。だから、どれだけ労働量が注ぎ込まれたものでも需要なき商品であれば無価値なゴミ同然。売れるはずもない。真実はこうだ。価値を決定するのは個人の欲求である。しかるに、この真理に反して、労働量を注入すれば価値があると主張する労働価値説は極左の詐欺的主張にすぎない」

この批判はぜひ、労苦が価値を形成すると論じたアダム=スミスに向けて欲しいところだが(そして同じように批判したマルクスに賛成してほしいのだが)、それはともかく、彼らは上記の論を持って、労働価値説の有罪性を強く主張する。今や、労働価値説は悪名高い。
しかし、それは冤罪だと言わざるをえない。したがって、私はこう言いたい!

「労働価値説は正しい!」
実際のマルクスの労働価値説では、私たちが連想してしまうような「価値」は登場せず、資本主義社会の要件を前提にして、労働が「価値」として現象する論理的不可避性が論じられている。そこで今回は「なぜ、労働は価値として現象するのか?」という問いを中心に、””純粋な””マルクスの労働価値説を提示することで、この理論の無罪の可能性を切り開きたい。


上を読んで、私(このブログ主)の感想意見。
価値が現象なのです。生産の富(貨幣価値そのものではない)流通過程(物物交換から貨幣交換)で貨幣等価交換が成り立つ過程で、抽象的な概念としての「価値」意識が生まれた(徐々に形成)のです。その価値観の大元の新しい富を生む主因が抽象的人間労働力であり不可分に付加されてる具体的労働力でしよう。

上に対しての意見。(本論執筆者)
いいえ、違います。あなたの捉え方は「実体論的」であり、「実践的唯物論」「関係論」を土台とするマルクスの論考に相反する。
労働価値説は、ある特殊な生産関係から労働が価値へと現象せざるをえないという話にすぎません。ただただ、労働力が注入されることで価値が生まれるのではありません。


私(このブログ主)の感想意見。
まあ論争しても議論しても仕方ありませんが、事実と真実を掴むためには引き続き社会と世界を観察しつつ価値形態と現象形態を見てみましょう。

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