私と母と父の3人での人生が始まる前の話

私は、駆け込み平成元年ベビーです。
ギリギリ、平成元年、もう少し遅かったら平成二年ベビー。
あ、歳がバレましたね。

母と父は視力障がい者同士で結婚しました。
本来なら白杖をついて歩いてもいい視力ですが、母も父も生まれつきで小さい頃から杖なしで生活していたので、特別な理由がない限りつこうとはしませんでした。

「目が見えへんと思ってばかにするな」
と多々言われていましたし、母も父も自分のことを「社会的弱者」と表現することもありました。「視力のせいで」ともよく言っていました。
白杖をつかない理由はそこにあるような気がします。
つかなくても歩けるというプライド、障がい者というフィルターをかけられず生きていたいという願い。
「視力がないのにこんなことをしてる、できている、こんなことをしていたんだ」という話もよく聞かされました。
いつしか、母や父の苦労や生きづらさ、想像できないような葛藤、それを素直に「すごいなあの人たちは。」と思う気持ち
それと共存して「そこがなくなったら困るんじゃないの」「それがあるからこそ威張れるし、言い訳もできているんではないか」と思う気持ちも生まれていました。
多分それはことあるごとに「あんたは健常者で生まれて何不自由なく五体満足で生きているのに、なんでこんなに出来が悪いんだ。視力障がい者で重度な私の方がよほどできた。あんたがハンデのある私より出来損ないなのは、努力していないからで、私は血もにじむような思いで努力していたし、何度も奥歯を噛み締めてやってきた。」という言葉を冒頭文として過去の話を散々夜通し聞かされていたから。

ここで出てきました「五体満足で健常者なのに」という言葉と「自分はハンデを持ちながらあんたより出来た」という言葉「血もにじむような思い」「奥歯を噛みしめる」はよく母親から出てくる言葉でした。

ここで、母も父もアダルトチルドレンだったのではないかという話になります。

母は九州の田舎で生まれ育ち、実家は大きな商店を営んでいました。私の雛人形はマンションのリビングが3分の2埋まってしまう程の何段にもなり大きい立派なもの。母の実家からいただいたそうです。誕生日には歴史の本が1冊1000円以上するのに全巻40冊いただいたり、帰省の費用やお祝い事などはしっかりとしていただいていたと記憶しています。
形をしっかり守る、見栄えもしっかり守る、堅い一族の長女として母は生まれ育ちました。と言っても何歳か上のお兄さんがいたので、跡取りはお兄さん。
「自分は視力が悪く産まれたので、大学にもいかなくていい、高校も中学も小学校さえも通常校に行かなくていいといわれ、はなから期待されなかった、お兄ちゃんばっかり期待されていた、私の存在は恥で隠したい存在だったんだろう」と恨みつらみを聞いたことがあります。

母は、私にとっての祖母と祖父、つまり母の両親が大好きだった。そして自分が一番愛されたかった。私からすれば、祖母も祖父も母を愛していたけれど、祖父はあまり口に出すタイプではないし、私は祖母が母に愛情を持っていたことも、祖母や祖父の行動の裏にある想いもなんとなく察してはいましたし、十分祖母は直接言葉でも母を認めてはいましたが、長年親への恨みをエネルギーにしていたところがあった母にとっては今更受け入れられないといったところだったのかもしれない。遅かった。と言ってしまうとそれまでなんだけれど。

そう、私の目から見た母は

親に愛されたいけれど、今更愛されていたと納得してしまったら生きる指針がなくなってしまうんではないかと。
愛されていない、自分は一人で頑張ってきたということが、自分でありそれがそうではなかったとなることに恐れて
嫌だ嫌だと言いながら、実はその状況が彼女にとっては必要で、その不幸で嫌だ辛いと思うことがいつしか居場所になっていて、その経験というか物事に依存しているように見えていました。
彼女は「私は何かのせいでかわいそうだ」という主張が出来なくなるととても反発するから、宗教関連含め救いの団体も、これからのことを考えようという団体には反発しすぐに寄り付かなくなりますが、そのまま泥のように負の感情に溺れてかわいそうだった自分を癒そう(そういう時間も必ず必要ではあると思っています)、癒し続けてお互い慰め合おうと、再び新しい依存先を提案する団体には何度もついていってしまうし、すぐに依存してしまっていました。
多分、今も、全肯定してくれている団体に依存していると思います。
ちなみに、私を含め母を知る公的機関の人や知人も、実父以外はみんな、彼女自身精神的な病を持っている気がすると言っているので、アダルトチルドレンではあるだろうし共依存の気もあったんだろうけど、それ以上に母は本当に病気なんだと思います。治療が必要な病気。彼女も苦しんでる。性格と病気に。
ただ、彼女が病院に行くことはないと思う。


父は、母の実家とは反対に田舎の治安が良いとは言えないところの大家族の一人に産まれました。
兄弟はなんだかギリギリのことをしているし、私からしたら祖母、父からしたら母の、祖母は家出したと思えば妊娠して帰ってきて、離婚せずになんなら誰にも言わずに育てていたり、、、(父はうっかりその事実を知ってしまったそう)
それでも、あまり父は祖母や祖父のことを言いませんでしたし、私は父の実家に怖いや、嫌な感情は全然持っていませんでした。
むしろ、父方の実家に行くと小銭をもらって駄菓子屋に行ったり、「内緒やぞ」と黄金糖をもらったり、飼っていた犬と遊んだり、やんちゃな従兄弟がすごく遊んでくれたり、泊りたいと言えば、めんどくさそうな顔しながらも必ず布団を出してくれるところも嬉しかった。
ご飯は食べに行くことなんてないから手料理、、、何より、勉強はどうなんだ、小学校では何を学んでいるんだ、宿題はしているのか、とか全然聞かれなかった。逆に友達は?とかも聞かれなかったけど。
「あー?来たんか」くらいに、スゥーっとその場に入れてもらえるんです。
タバコの煙と、ずっとついている野球中継から聞こえるバンッバンッと応援で叩いてる音とかサイレンの音、小さなちゃぶ台にテレビ見る用事もないのになんとなく全員が集まってキチキチに座っている感じ、ちゃぶ台の上にはパチンコの景品でもらったお菓子があってテイクフリー。
母は大嫌いだったみたいだけど、私は好きだった。
斜め向かいにいるお姉ちゃんがいつも話しかけてくれた。綺麗な人で笑顔が優しくて好きだった。おじちゃんは私と同じくらいの子供がいて、そのいとこともよく遊んだし、よく話しかけてくれたし、イケイケな人たちだったから私は話すたびに自分とは違う世界の人だなぁと芸能人を見ているような気持ちになった。もう一人のおじちゃんも、日曜の夕方日本が誇るご長寿アニメの2つは黙って私にテレビを譲ってくれたし、見ないからと行って側から離れることもなかった。
見てはないけど一緒にいてくれた。幼いながら独特な暖かさを感じたのは父方の実家でした。
祖父の単車のマフラーで大火傷をして、雑草のように生えていたアロエを目の前で折ってそのまま塗られたあの日、あの時はなんてこったこのじぃちゃんは!と思ったけど、今ではなんだか笑える私の幼い記憶で私が持つ唯一の「普通の家族の良いエピソード」のような場所。

母の実家もいとこはいたし、祖父も祖母もよくしてくれていたし、近所の人は畑で色々体験させてくれたり、声かけてくれたりしたけれど、どこか背筋を伸ばして生活すると言うか、ほんと「いいとこのご家庭」のデフォルトみたいな家だったんだと思う。

そんな中、なぜ父がアダルトチルドレンと思ったのか。

祖母が亡くなった時に初めて父が「好き勝手してた人やから、仕方がないわ。それでも寂しい」と言葉にした。
父の祖母への気持ちは、それが本当に本心なんだろうなって感じてる。父は、祖父のことをどう思っているんだろう。
正直、父は本当に言わない、他人のことを言わない、母のことに関しては離婚してから私たちに悪口のようなものを言うようになったけれど、それでもよくわからない価値観で「お前が母親の面倒見な誰が見るねん、お前はなんのために生まれたんや。あの人は寂しい人間なんや。お前が捨てたらほんまに一人になってまうぞ」と言うようなことを言うくらいには、人への不満をフルスロットルでいうことはない。ちなみに自分はいち早く私たちを置いて逃げたくせに。笑

と、まぁ父は本当によくわからない。
ただ、私の考察でしかないから父の真実とは違うかもしれなくて、もっと深い何かがあるのかもしれないけど。
父は難しい話や真面目な話が壊滅的にできない。警察や児相で「あなたが親だってわかってますか?」と呆れられたほどには、真面目な話ができない。
私の考察は父は永遠に「自分に自信がない怯えた幼児」だということ。
父はアル中だと思う。アルコールを毎日浴びるほど呑む、呑んで怪我をする。縫うほどの怪我をしても呑むのをやめられない。幼い子を連れながら泥酔してしまい電車の車内で「ドアあけんかぇ」とドアをガンガン蹴ったりする。理性以上に呑んでしまう。
でも長生きしたいし病気にはなりたくないから食にこだわる。アルコールは止めることはできない。どれだけ呑んでも仕事は真面目に行く。障害者雇用であることに引け目を感じて誰よりも早く行き毎日掃除をしている。仕事内容に掃除は無い。なぜするのかという問いに、自分はハンデがある分周りに迷惑をかけているに違いない、と。
だからこそ嫌われたく無いから、居場所を守るため、自分の価値を保つため、にするのだと酔った時にいっていた。なんて自己肯定感が低い人なんだろうと思った。
アルコールを飲むと陽気になって、普段周りを気にして何も話せなく本心も出てこない人間だけれど、何も考えず心のままに楽しんで言葉が出てくるんだと思う。だからアルコールが手放せない。
真面目な話ができない、向き合う事が苦手。家族は欲しいし大事にもされたいけれど、精神的な面までは支えられないし教育もできない、自分が未熟で自分の内面と向き合うこともできないのに他人と向き合えるわけがないから。
図星なことを言われると、自分を全て否定されたように感じ、いたたまれなくなるし、素手で解決するしかないと手を出すことで話を終わらす。
子供や配偶者などには、威張れるし普通に話せるけれど、他人には無理。「俺なんかが」と思っているのだと思う。
現に、児相や警察でのオドオドとした態度は、自分の父親ながら「この人に頼っても時間の無駄だ」と痛感したほど頼りなかった。
自信がないから唯一ねじ伏せれる手が出ていたんだと思う。それでも子供に手は出さなかったけれど、それでも母親に「なんで子供は殴らないのよ」と毎日責められすぎて、じゃぁ殴ろうと殴ってきていたので、やっぱり短絡的な人なんだと思う。

母とは、共依存だったと思う。
後日談、父が再婚したお相手のことを「身寄りがなくモテなくて恋愛経験もない俺しかいない子」と言ったときに、あーこれは、、、と思ったし、再婚相手の方もまた、前妻との間にできた私たちにヤキモチを妬いてしまうから会いたくないし関わりたくないと言っているということからも、また何かを、誰かをかこって幸せを目指したんだなと思った。
離婚するまでも、離婚してからも、この違和感を時々父に伝えてはいたけれど、彼は聞く耳は持たないし、私の家族がやり直すこともないし。とある時期から、何も言わなくなった。
形は人それぞれであるし、今父が、嫁と喧嘩しただの何だの言ってこようが、私の感じている違和感は伝えなくていいことだから言わないし、これ以上考えることもしない。
自分の居場所を父もまた欲しかったんだろうと思う。
それが、自分を出せる場所となると、父にとっては自分より格下の人間と思う人間としかその場所は難しいから、私たち家族は対等で平和でお互いを尊重し尊敬しあえる家族にはなれなかったのだと思う。
そして、私はこれからも年に1回くらいは父と連絡をとるだろうし、誘われれば会う、でも、私はこれからも父と本心で何かを共有したりすることはないと思ってる。



今日は、このへんで



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