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21世紀、ジャズは一周回って自由を手に入れた


最近、ジャズが面白い。


思えば私のジャズ遍歴は90年代末で止まっていた。
社会人になって自由な時間が限られたという事情もあるが、身も蓋も無い言い方をすれば“飽きた”というのが最大の理由だったと思う。

1940年代ビバップ以後、ジャズは時代と共に変化を遂げ、80年代に全盛期を迎えたクロスオーバー・フュージョンは90年代に円熟期を迎えてかつての勢いを失いつつあり、M-BASEなどの新しいジャズを模索する試みも市民権を得るに至らず、UKで流行したアシッド・ジャズも王道ジャズファンからは歓迎されない空気があった。

そんな90年代末のジャズは閉塞感に包まれ、このままジャズは進化を止めて、伝統芸能のように形式を重んじながら継承されていく存在になっていくのかと勝手に考えていた。



ところが、どうだろう。

生活環境の変化により音楽を聴く時間を作れるようになったのと、サブスクリプションの導入がきっかけで、1年位前から私はジャズの新譜を再び聴くようになったのだが、20年ぶりに聴いたジャズは、予測不能な驚きに満ちた絶賛進化中の音楽に生まれ変わっていたのである。

いや、生まれ変わったという表現は余りにもジャズに失礼だ。
90年代に既にその種は蒔かれていて、ゼロ年代にそれらの幾つかが芽吹き、10年代に爆発的に花開いていたのだった。
私がそのことに気付いていなかっただけなのだ。


2021年の新譜を聴くようになってまず驚いたのが、アドリブらしき演奏が見当たらない曲、あってもまるで主張していない曲のあまりに多いことだった。


1940年代に幕を開けたビバップは、ピアノ又はギター、ベース、ドラムスの3名によるトリオ編成か、そこにトランペットやサックスが入るカルテットやクインテット編成で通常演奏された。
12小節、または32小節で完結するコード進行を反復するというのが基本形式で、最初にテーマ、続いて各演奏者が順にアドリブ演奏を数コーラスずつ、最後にもう一度テーマを演奏して終わる。
一部のフリージャズを除けばこのスタイルは90年代まで維持されてきた。

90年代以前にも新しいジャズへの挑戦は常に行われていた。にもかかわらずこの構造が維持されてきた理由として、ジャズという音楽がアドリブを中心に発展してきたからだと思われる。

楽譜通りに演奏するクラシック音楽と異なり、ジャズはアドリブで自由な演奏をする。アドリブこそ演奏者達の最大の見せ場だった。他人には出せない音を出す、それこそがプレイヤーにとってもリスナーにとっても最大の関心事だった。
アドリブをしている演奏者のみならず、それを支えるピアノやギター、ベース、ドラムスも自由に演奏することが許されていた。アドリブが盛り上がれば、ピアノが、ギターが、ドラムがそれを盛り上げる。そのインタープレイがスリルと感動を生んでいた。

だからといってそこに何かルールがなければ音楽として成立せず支離滅裂になってしまう。
そのルールとはテンポとコード進行だった。
それさえ守っていれば何を弾いても・吹いても・叩いても何とかなるのだ。


他人には出せない音を出す、という挑戦の中で、より自由度の高い演奏を生み出そうとするミュージシャン達は少なくなかった。

ビバップの細かなコードチェンジはアドリブに制限を生む。そこで導入されたのがモードという概念で、細かなコードチェンジをスケールによりもっと大枠で解釈し直すことでアドリブの自由度が高まり、かつてアヴォイド・ノートと呼ばれた不協和音もクールでカッコいい音として昇華された。

更に自由な演奏を求めて生まれたのがフリー・ジャズだが、これは余程強烈なリーダーシップを取るメンバーが居なければ演奏が空中分解してしまうので、聴くに堪える音楽に留めるには困難を要した。

要するに一定のコード進行の反復という構造はアドリブ演奏を優先に考えた場合に好都合だったのだ。クロスオーバー・フュージョンも多くはこの形態をとった。



ところが最近の作品はこの伝統的な構造をとらないジャズが増えている。

よく見られるのがビートミュージックにみられる、数小節からなるフレーズを反復し変化させていくいわゆるミニマル・ミュージックのような構造で、その場合、コード進行も単純になることが多く、自由度の高いアドリブ演奏が可能になるが、それについてもジャズのアドリブというよりミニマル的な発想でフレーズを変化させる程度に留めているようなものもみられる。

或いはもっと複雑で、まるでクラシック音楽のように起承転結を定められていて、アドリブらしい旋律が介在しない曲すらある。

そもそも昨今の実験的なジャズに取り組むミュージシャン達はアドリブにこだわっていないように感じる。例えばトランペット奏者のリーダーアルバムでありながらトランペットがまるで脇役のような曲があったりする。
プレイヤーとしての見せ場を演出することよりも、むしろプロデューサーに徹してトータルコーディネートすることに面白さを見出しているような、ビートメイカー的な発想のミュージシャンが目立っているような気がするのだ。

90年代にいわゆる打ち込みの技術が進化し、ビートミュージックの敷居が下がった。ヒップホップやハウスなど、ダンスミュージックに幼少期から馴染み、手軽に音楽を作れる環境が身近となっていた現在20代〜30代の若いミュージシャンにとって、音楽制作の向き合い方の変化はごく自然な傾向なのかもしれない。


これらの、いわばジャズの構造改革というべきエポックメイキングな変革は、ジャズとはどんな音楽かという前提をも覆した。




そしてジャズの変化は構造だけに留まらない。


例えば楽器演奏者のリーダーアルバムにゲストヴォーカルやラッパーを招いた曲も少なくないが、これも従来のジャズ・ヴォーカリストの作品とはスタイルが異なっている。

元々ヴォーカル作品とインストゥルメンタル作品は別のジャンルとして認識されていたようなところがあった。
ヴォーカルの入った曲は一部の共演作品を除けば通常ヴォーカルが主役で演奏は脇役であり、間奏に演奏者のアドリブが入った。一方で、インストゥルメンタル作品の一部の曲にヴォーカリストを招くというのはあまり例がなかった。

今は楽器演奏者のリーダーアルバムに複数のヴォーカリストやラッパーをフィーチャリングすることも珍しくない。そしてヴォーカル或いはラップをまるで楽器の一つのように取り入れたりもしている。


リズムにも大きな変化がもたらされた。
4ビートで演奏された作品は今や稀な存在となり、クロスオーバー・フュージョンに見られたファンクやロック、R&Bのみならず、ヒップホップ、ハウス、ブレイクビーツ、その他世界中のありとあらゆるビートがジャズに取り込まれている。今やジャズとの融合が試みられていない音楽は存在しないのではないかと錯覚する程である。

プログラミングされたビートミュージックの導入も普遍的となり、更には生演奏をサンプリング元にして再構築するという試みまでなされている。




2022年現在、最早形態や形式でジャズを定義することはできないのだ。

敢えて言うなら、自由な発想で作られた音楽は他のどこにもカテゴライズできず、便宜上ジャズとタグ付けされているようにすら思われる。



21世紀、ジャズは一周回って自由を手に入れたのかもしれない。








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