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『クリュセの魚』を読む② ズレの方法

テクストにおけるコミュニケーションに時差をもたらす迂回の方法を読む。また、「象徴」が多義的な意味をもち同一性を切断する志向があることを示す。
① 枠の意識

†コミュニケーションの時差

『クリュセの魚』は恋愛小説であり家族小説であるが、しかしその主題にはアイロニカルな視線があると述べた。ではそのなかで、彰人と麻理沙はどのような関係を結ぶことになったのだろうか。視点を変えて言い換えると、恋愛といい家族という小説の主題は二人のどのような関係から立ち上がってくることになるのだろうか。

〈枠〉によって象られた小説の記述は、その規定された〈枠〉の意識に寄りかかりながらひとつのジャンルとして括られる物語を生み出す。しかし同時に、物語の登場人物の語りや行為によってそのジャンル規定に微妙なズレや切断を含ませながら物語は進行するものである。ふつうストーリーが人物の変化を核に構成されるものである以上、その事態は避けられない。ジャンル概念が小説内で不断に生成され変容し続けるのである。よって、ここでの注目はそのようなジャンル規定と人物の行動との変化に向けられる。枠によるひとつの読解のコードが、物語の最初から最後にかけてどのように変容していくかを見ることにしたい。

例として、枠として機能する語りの構成による、しかしそれでいて家族へのアイロニカルな視点をもつ彰人の語り口を前回で指摘した。「おもちゃのような家」という語りの記述からは、経験的な恋愛や家族の感触を突き放しつつキッチュなものとして語る視線を感じることができる。そこに含まれる家族や恋愛といった対象に関する、疑いなく本物であるとも、しかし一面的に偽物であるともつかないものの視点による語り口は、テクストの構造からどのようにして生まれてきたのだろうか。

まず基底にあるのは、麻理沙と彰人の出逢いであり恋愛関係である。同一の血脈的ルーツを持ちながら、しかしお互いに「孤独」を感じていた二人のコミュニケーションはどのような緊張をはらんでいたのか。二人の行為から読み取れる含意を見ておこう。

火星における人間のやりとりは、拡張知覚に接続しそれを媒介することでおこなわれる。その関係は、「たがいのアドレスとエージェントを交換し、いつどこにいても、あるいはだれといても、網膜上にたがいの呟きがだらだらと流れ続ける、そのような無制限の繋がり」によって結ばれている。現代におけるSNSの中毒的なコミュニケーション様式を想起せずにはおれないような火星の拡張知覚は、コミュニケーションの時間と空間のリミットの無化であり、主体と他者との境界を曖昧にする装置といえる。

しかし彰人は拡張知覚を落とすことを「悪癖」としていた。いまここの人間のつながりを時間・空間的に無制限に延長するデバイスである拡張知覚を無効化することは、コミュニケーションの持続的なつながりを切断し主体の内省的な感覚を構築する意味をもつ。コミュニケーションの様式から見れば、彰人が「孤独」を覚えるのはこうした感覚がもとになっているといえるだろう。だがもちろんそうした「悪癖」によって構築されるのは、他者とのコミュニケーションの切断によるなにものでもない自己である。彰人の抱える「孤独」とは、他者とのコミュニケーションを忌避することによる、対他的な関係を捨象する空虚な自己像のことを意味している。

拡張知覚は、テクノロジーを生体に移植することにより延長的で持続的なコミュニケーションを可能にする。だが彰人と麻理沙はそのようないま・ここを起点とする現前的コミュニケーションの方法を取らなかった。それは拡張知覚に接続してしまえば、嘘で隠していたお互いの本当の素性が露呈することを恐れていたからであるし、彰人にとっては、拡張知覚を媒介させないことが倫理的なコミュニケーションのやり方だと感じていたからでもある。ここにおいて、二人のコミュニケーションには正しさをめぐる感覚が胚胎している。時間と空間の隔たりを消去する拡張知覚のコミュニケーションに対して、嘘を媒介としたコミュニケーションの優位性が彰人によって語られているのである。嘘は本当のことへの理解を時間的に遅らせる結果を生む点において、コミュニケーションの在り方に時差を作る。このテクストにおける倫理は、持続的なコミュニケーションを切断することへの志向において語られるのである。

拡張知覚によらない二人のコミュニケーションの方法は、「何世紀もまえの地球に戻ったかのよう」な古風といってよい手紙による方法だった。植物が貴重な資源でありすでに電子媒体が一般化されていた火星では、「生まれてから死ぬまで、文字を紙に記したり、文字が印刷された紙をめくったりする、そんな体験をいちどもすることがない」。手紙によるコミュニケーションは、それ自体現前性の支配を脱しようとする迂回的な時間の襞を構成するといえるが(注1)、この『クリュセの魚』においては、そうした手紙による現前性の切断が物語世界の現実と連関して二重に提示されているのである。

このように、嘘と手紙によって媒介されていた彰人と麻理沙のコミュニケーションは、持続的なコミュニケーションの手続きを切断する志向をもっている。二人が選んだ方法は、生体に導入された拡張知覚が支配する現前性の時間を相対化し、〈遅れ〉の時間を挿入することだった(注2)。そうした時間はしかし、どのようにして二人に体験されていたのだろうか。

注1 守中高明『脱構築』岩波書店、1999。

注2 グローバル化による市場原理と自己規律原理の二重化が進む現代において、時間の〈遅れ〉に肯定的な意義を求めようとする研究に、春日直樹『〈遅れ〉の思考』東京大学出版会、2007。

†なりそこないの象徴

このテクストの物語内容の時間と語りの現在の時間がズレをもって語られ始めていたことからすでに予感されるように、人物のあいだにもコミュニケーションの速度のズレが自然と観取されるのは、見やすいところだろう。もちろんこのズレが他者を求める欲望の亢進剤にもなっている。しかし彰人と麻理沙が互いを求める欲望の原因となったものは何だったろうか。

彰人と麻理沙が初めて出会ったときに眺めたものは、記念堂近くの丘で放し飼いにされていた「名前も知らぬ魚」だった。「生体の自己複製に厳しい制限が課せられて」おり、また「雨の大部分は乾いた砂礫に吸い込まれ、(…)海と呼ばれるものはかろうじてヘラス盆地にひとつ開けているだけ」で水が「希少財」である火星にとって、人間の管理下になく、自由水面上で生物が棲んでいることはまさに「奇跡」だった。「都市と法の外側」に生きていた魚は、二人を惹きつける。

この「クリュセの魚」は、テクストで唯一はっきりと言及される人類以外の自然生体であり、彰人と麻理沙の二人の「孤独」を結びつける媒体として存在している。火星の人間はすべてナノマシンによって情報的にコントロールされているが、魚はそうした人間相互の監視社会をすり抜け、生殖をおこなう生物である。その殖え方は二人にもわからない。情報論的に魚はテクストにおいて完全に空所として生きる存在なのである。麻理沙は、そのような空白をもつものだからこそ、魚に「火星の未来」を重ね合わせて夢見ている。

魚は麻理沙にとってそうした「象徴」だった。ただし、それはなりそこないとしての象徴だ。魚は「象徴にはなれなかった」からである。

麻理沙はなぜ魚を象徴としたかったのだろうか。それは魚の代わりに何が必要となったのかを考えることで見えてくるだろう。麻理沙が魚について興味を抱いていた特徴は、それがどのような方法で殖えるのかというものだった。麻理沙の視線は魚の生殖に向けられているのである。そして「象徴にはなれなかった」魚の代わりに麻理沙が選んだのが、彰人だった。麻理沙は彰人と関係をもち、子供を産むことを選んだのである。魚への欲望と子供への欲望は、それが生命を表象する存在であることにおいて共通している。麻理沙の関心は、世界のなかでこれから生まれる新たな未来の生命に向けられているのである。呪われた出自をもち世界の秩序に革命をもたらすためのテロリストとして育てられた麻理沙が抵抗したのは、テロリズムが作り出す破壊と暴力がはびこる世界であって、魚はそうした世界への抵抗となる生命の象徴といえるだろう。だからこそ魚は必要とされたのではなかっただろうか。

象徴について言及した。麻理沙による魚への言及を皮切りに、テクストのなかで象徴とは頻出される言葉である。テロリストとして死んだ麻理沙は火星の独立を果たす「変革への欲望の象徴」になるし、火星人の求めているのは「物語があり歴史」として機能する「酒」の味、すなわち死んだ麻理沙に代わる「新たなカリスマ」の栖花である。

失われた日本の王朝の血脈を引く麻理沙と栖花は、変革やカリスマという言葉で表象される。ここで象徴という言葉を指標として、麻理沙と栖花が民衆の期待の上で背負わされているのは、物語や歴史の中心の座標となる記号の役割である。ワームホールゲートの開通は地球と火星を無時間的に結びつけることで、(字義通りには正しくないが)宇宙のグローバル化を強力に増進させるものである。それは反動として、忘却されていた「帝国主義とナショナリズムの味」を民衆に想起させる。つまり麻理沙と栖花が担うのは、失われた王朝の復活を可能にする民族の血脈的同一性であり、グローバリズムに対抗するナショナリズムが引き金を引く変革の主人公となる物語論的同一性である。この二つの文脈において、象徴とはそうした同一性を示す記号として機能している。

しかし、クリュセの魚が担うのは、そうした同一性を示す記号を反転させた象徴の機能であるといえる。魚は、法や制度の外部で自然に増殖する生命という前記号的物質性の象徴であるし、特定の名を欠いた非物語の象徴である。

コミュニケーションに〈遅れ〉を伴った二人を結びつけるのは、そのような在り方をした象徴である。象徴は二人のコミュニケーションの媒介として機能する。しかしそれは情報や物語的同一性を欠いた、生命という物質的強度が強調された存在なのである。クリュセの魚は民族や物語といった同一性を切断する、無名としての象徴なのである。(続)

③ 名前の物語

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