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『クリュセの魚』を読む① 枠の意識

東浩紀『クリュセの魚』の読解を数回に分けて試みる。はじめに、この小説の物語は恋愛や家族を主題として書くが、その前の地点である小説の読み方自体に注意を向ける必要があることを述べる。
目次
① 枠の意識
② ズレの方法
③ 名前の物語
④ 天皇(制)の明日に
⑤ 否定形の正史

†分析の仕事

単行本の帯にはこういう惹句がある。「壮大な物語世界が立ち上がる/渾身の恋愛小説」と。どうやら「恋愛」を描いた作品であるらしい。

このようなキャッチコピー=パラテクストは、私たち読者が小説の世界へこれから乗り出すときの期待であり、またあちらの世界からの誘惑として機能する。しかし、これは単純にある規定された何かの小説ジャンルであることの宣言のようにも思われないのだ。それは「立ち上がる」という現在形で記された行為の時制から明らかではないだろうか。何もない場所から物語が自ら姿を現す……。物語を読むことに関する不安定な現在が、この語句からは伝わってくるようなのだ。そもそも、わざわざ「渾身」とうたう語句の熱量からは、ふつうのジャンル意識をはみ出した小説だという緊張した予感も覚える。だから、これは単純な「恋愛小説」として読むわけにはいかなそうなためらいも読む前から少しばかり感じてしまうのだ。この小説がどういうジャンルなのかは、小説を読む私たちの意識や行為とともに関係し、決定されてくる。これはそのような緊張関係をはらんだ動的なプロセスが念じられたコピーではないだろうか。どうやら『クリュセの魚』は読むことの現在に敏感であった方がよい、どうもそんな覚えを必要としてくるテクストに見えるのだ。

まだ帯のキャッチコピーにしか触れてないのに、少々先走った深読みをしてしまったかもしれない。しかし、そうした些細な周辺に配置された語句にまで神経を行き届かせているのが、すぐれた小説の力量というものである。そしてその価値を読み取り、同時代や未来に向かって幾葉にもひらいていく行為こそ、私たち読者が任された楽しみであり仕事であるだろう。

いまからここに読もうとするのは、東浩紀『クリュセの魚』(河出書房新社、2013)である。批評家であり小説家としても活躍する東浩紀の、三島由紀夫賞受賞第一作として発表されたハードSF作品だ。書誌的なことを記しておくと、この小説は、河出文庫で展開されていた「書き下ろし日本SFコレクション NOVA」シリーズに2010年から2012年まで掲載された作品群をもとに、単行本として出版された。2016年には文庫版も発売されている。

小説家としての東は、この作品の発表と同時期に「パラリリカル・ネイションズ」という作品を連載執筆していたが、そちらは現在に至るまで未完状態のままである。よって、東の小説的技術や物語創作の仕事の肌理をまとまった形で触れられるのは、この『クリュセの魚』が最新作ということになる。小説家としての東の仕事をここで精読する試みも、その点に根拠を預けている。

とはいえ、単行本の発売からは五年、初出の掲載からは八年がすでに経過している。作品の時評にしては遅すぎるし、同時代の小説や周辺言説と突き合わせて、時代の意味を炙り出す文学研究のような仕事の分析対象として扱うにはいささか早いような気もする。

では、なぜいまここで『クリュセの魚』を読もうとするのか。その理由は後の記述にいったん託そうとおもうが、ひとつだけあらかじめ記しておくならば、それはいまの時代を覆う終末の感覚とそれでもなお残る未来の予感――それもとりわけこの国の王権にかかわる――を、この小説が先取りして描いているからだ、といっておきたい。テロリズム、排外主義、変容する親密圏……。小説世界の想像力と遅れて追いついてきた時代の思潮とが現在において奇妙に同期している感触を、ここでより確かに自覚して記しておきたいのだ。その感触の顕在化に資するためのはしがきとして、小説の読解をここに試みたい。

ときに小説は、その書かれた時点において予感されていたものを超えて、現在よりも未来、それよりもなおいっそうの未来への想像力を、描く。時代の流れに敏感であり、つとめて分析的であろうとする作品ではそれがはっきり痕跡として記されている。ましてやSFというジャンルではなおさらのことだ。そして、現在から振り返って過去の小説から考古学的に時代の診断を取り出そうとするとき、小説の時間と読むことにおける時間の流れは重なり合い、あらかじめ計算された予想を超える答えが現れる。比喩的なことをいえば、過去から未来を掘り当てることができるのだ。それは現実の時間による分断を超えて、フィクションの上で異なる歴史や世界との連帯を構築する読書の楽しみである。そうした想像力をここでは楽しめればいい、そのようにおもう。

しかし、それにしても『クリュセの魚』は名前による誘惑の多い小説になっている。ブラッドベリ、アマルティア・セン、フーリエ、クリプキ……。小説世界にちりばめられたこのような固有名群は、テクストから隠れたメッセージや思想を発見し解読したい読者にとっては、いったい何が埋まっているのだろうと思考を巡らさずにはいられないだろう。思想史やSF史から召喚された綺羅星のような人物たちが、そこかしこに星座のように配置されることで、宇宙的スケールの解釈の海に誘っているのである。

そうした固有名のなかでもひときわ輝きが強いのは、なんといっても作者としての「東浩紀」であるだろう。批評家兼小説家というのは読解の枠組みとして実に厄介なものである。書き手の個性を理解しようとするほど、小説家としてのモチーフのこだわりと批評家としてのそれ同士が、互いに混線して解釈の筋が出しにくくなるからだ。たとえば、この小説に託された偶然や家族、生殖といった主題群は、最近の東の著作や発言によって彼の思想の動向を知るものにとっては、馴染みの主題であり興味深い。いきおい、そうしたテーマの視点から発展的な読解を始めたくもなる。

しかし、それはこの小説の言葉でいえばある種の「疑似餌」なのではないかと少し疑っている。確かに歴史的な固有名や作者特有のテーマをテクスト上で追走し解釈することは惹かれる。しかしここでは、そうした人物の名に則して語られる思想やテーマをテクストのモチーフと突き合わせて検討するような方法はとらない。それはそのような比較思想史的記述の重みにはここでは耐え切れないのが主な理由ではあるのだが、ここでそのような読み方を封印するもうひとつ積極的な理由として、いま少し小説世界の登場人物の時間をつぶさに眺めながら語る方法を選びたいのである。つまり、現実の思想史的な解釈よりも、テクストのなかで選ばれた出来事や概念の連鎖、配置といった記述の方法に注意を向けておきたいのだ。そのような読解の視点を持つことで、テクストが現実と密かに通底しあったり、反目しあう場所の論理がよく見えてくるだろうとおもうからである。

前置きは以上のものである。このような立場による仕事として、小説の読解を始めたい。

†未来への射程

あらためて、『クリュセの魚』はどのような物語だったのか。これからの記述の便のために梗概を示してみる。

地球歴二四四五年八月。火星歴一〇八年牧草月。火星に到達した人類はテラフォーミングを完了させ、地球の政治や経済の影響が及ばない、個人主義と独立不羈の精神によるユートピアを作り上げ満喫していた。

研修旅行でクリュセ低地の開星記念堂に訪れていた一一歳の少年葦船彰人は、ボランティアとして働いていた一六歳の少女大島麻理沙と出会う。お互いに孤独を感じていた二人は惹かれ合い、記念堂近くの丘の自由水面に棲む名前のわからない魚を共に見て、恋に落ちた。

その後二人は幾度かのやりとりを通して数年間を過ごしていたが、彰人は、麻理沙がなにものなのかというような個人情報や彼女の気持ちを知ることのできないままであった。そのようなあるとき、彰人は軌道エレベータの中継基地にボランティアとして勤めることになり、そこを訪れた麻理沙と、戦争と象徴についての奇妙な会話を交わし性的関係をもつことになった。

しかしその出来事の数か月後、二四五一年一月、麻理沙は地球で自爆テロを起こし死亡してしまう。実は麻理沙は滅びた日本の「失われた王朝の末裔」であり、地球と火星のあいだのワープを可能にするワームホールゲートの曳航を阻止しようとする火星の独立主義者や地球の政治勢力に担ぎ上げられ、テロリストとして火星で密かに育てられていた経歴をもっていたのだった。テロをきっかけに太陽系の政治状況は深刻さを増すが、麻理沙の名は太陽系秩序の変革の象徴として広まった。それから彰人は数年間廃人のようにして過ごす。

だが死亡したはずの麻理沙は彰人の子供を残していた。彰人と関係をもった晩に麻理沙は妊娠しており、胎児を人工子宮に移植させ生んでいたのだった。彰人は子供を栖花と名付け、麻理沙の出自を知る協力者・Lのバックアップを受けながら娘と共に暮らすことを選択する。

そして二四六八年。一六歳になった栖花は、麻理沙の情報公開とともに栖花を反太陽系秩序運動の象徴に担ぎ上げようとするLの目論見もあって、地球で自らの身分を明かすことを選択する。

彰人は麻理沙の「呪い」から栖花を解放させることを願い、栖花の身分公開を阻止しようとする。しかし彰人は栖花の考えを誤解していた。栖花は、異星の技術によりネットワーク上で疑似人格として再構成された麻理沙とコンタクトをとり、人間の脳の結線を移動の度に密かに書き換えるワームホールゲートを異星による「侵略」と認識し破壊しようとしていたのだった。

彰人は再構成された麻理沙と出会うが会話は噛み合わず、栖花を取り戻す試みは失敗に終わってしまう。地球のワームホールゲートは破壊され、栖花は彰人の前から姿を消す。

しかしそれでも彰人は麻理沙と再び会い栖花を取り戻すため、異星技術の遺構であるワームホールゲートがまだ残されていたオールト雲に単身向かう。果たして麻理沙に会うことに成功した彰人はそこで彼女と対話をおこなう。異星の知性体は人間の「複数の現実を単一の現実に変える観測者機能」が欠けておりそれを必要とするために、人間を走査する「集約儀」(ワームホールゲート)へおびき出すための「疑似餌」として、太陽系でもっとも有名だった麻理沙の情報をインターフェイスに選び利用していたのだった。

だが彰人は麻理沙の「サブルーチン」として働く、彰人が出会った通りの麻理沙の感情に触れ、過去に麻理沙を離し自死へ追いやった過ちを彼女に謝罪する。麻理沙は集約儀の技術で「タイムトラベル」が可能であることに触れ、二人の関係をやり直すことができると提案するが、彰人はそれでは現在の栖花が生まれないことを理由に提案を拒絶する。彰人の意志を確認した麻理沙は集約儀を太陽系から離脱させ、彰人を火星に送る。

彰人がオールト雲に向かっていた間、火星では四二年の月日が経過していた。火星は統一戦争を経て王国として成立しており、栖花は「終身主権者」として選ばれていた。Lと再会した彰人は栖花に会うために、麻理沙が住んでいた家の扉を開ける。

物語をこう要約してみると、なるほど壮大な「スペースオペラ」のようである。火星への植民の歴史や地球の広域国家との軋轢などの政治動向もそこかしこに書き込まれている。しかしその構築された世界は突飛なものでもなく、グローバリズムや排外主義、テロリズムが覆う私たちの現在を、時間軸の上で未来の側から照らし出すことに成功している。この意味で『クリュセの魚』が選んだSF世界は、現実を相対化し批判的に再考するための想像力を使用するための手がかりとして差し出されている。

この小説に書き込まれた地球と火星の歴史や政治、戦争の枠組みを私たちの現在と比較し、それぞれが具体的にどのように展開され帰結するのかという予測をきちんと位置付け想像してみることは、複雑で難しいことではあるが、重要な価値を含んでいるだろう。そのようなシミュレーションの基礎づけのために小説の想像力を使うことは許されてもよいのではないか。

しかし、物語を貫くメインプロットは、正統的なボーイミーツガール物語である。『クリュセの魚』は複雑な歴史や政治の流れを描くために、SF文学の系譜による想像力を駆使しながら、シンプルな恋愛のプロットで包んで記述しているのである。

とはいえ、ことはそうシンプルではないようだ。飛浩隆が評するように、この小説は「直線的ではあっても単純な物語ではない」のである(注1)。果たして歴史や政治が主なのか、恋愛が従なのか。この小説はどのような枠組みで読むのがよいのか。

 注1 飛浩隆「解説 火星への帰宅――クリュセの魚の棲む家へ」(東浩紀『クリュセの魚』河出文庫、2016)

†小説の枠組み

この小説は恋愛を描いていると述べた。では、なぜこの小説は恋愛小説として読めるのか。あるいは、読んでもよいのか。ごく当たり前のことを言うようだが、それは登場人物のあいだで恋愛と呼べるものがなされているからだとしてもいい。しかし読むことのレベルにおいて、そう単純にたかをくくってもよくないだろうということも述べた。

以上のことはパラテクスト、つまり読者を誘惑しながら読解の枠組みをそれとなく規定する小説の周辺のテクストに触れながらどうやら言えることだった。しかし、ことこの『クリュセの魚』においては、小説がどう読めるのかという問題は思いのほか何重もの要素から問いかけられており、そしてその読解のコードをどう扱えばよいのかということが、物語内容より前の地点から重要なメッセージとして発信されているようなのである。

どういうことだろうか。それは小説の構成にかかわっている。

『クリュセの魚』の始まりと終わり、つまり「プロローグ」と「エピローグ」は、彰人が崖を登り麻理沙の住んでいた家に向かうシーンで成り立っている。この意味で、『クリュセの魚』は「家」をめぐる枠小説として読むことができる。枠は、その小説を読むための情報とともに読解のコードを提示し、読書行為における意識の方向付けを調整する機能を担っている。枠にしまい込まれた意味に忠実に従うなら、この小説は「家」に関係するイメージ、それにまつわる家族の記憶が宿っており、その情報に誘われつつ読者は小説を読むことを陰に陽に期待されていることになる。事実、『クリュセの魚』において家族とは何であるかという問題は重要な主題として示されており、その限りにおいて枠の持つ意味を信じることは正しい。

しかし彰人が強調して語るように、麻理沙の住んでいた家は「小さ」く「おもちゃのような家」なのである。それは「家族を奪われ、ひとり人形のように育てられた麻理沙が、虚構の情報だけを頼りに作り上げたままごとのような家のイメージ」から成り立っているものだった。とすれば、この小説の「家」やそれにまつわるイメージは、実質を欠いたゲームのような生活だったことになる。少なくともこの語りからは暗にそのような意味を読み取ることができる。だが、それはこの小説における家族がまるごと偽物のような存在であることを必ずしも示しているのではない。当然のことながら、たとえ家族の生活が、歴史というゲームの上で翻弄されるようなものであったとしても、麻理沙や彰人たちはそのゲームこそ真剣に生きてきたのだから。

『クリュセの魚』のストーリーは、恋愛や家族を主題としている。しかし枠物語の構成とその語りからは、物語内容に対してアイロニカルな視線を投げ返す自己意識を読み取ることができる。ストーリーに対して枠が自己主張することで、主題が本物と偽物のステータスをめぐって語りのなかで引き裂かれて提示されているのである。構成に注目するなら、小説としての『クリュセの魚』は、この二つの項の偏差こそを主題としているように見えるのだ。この小説の読者はその構造に敏感でなくてはならない。(続)

② ズレの方法



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