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ピアノは心と身体のトレーニング

私はいわゆる運動やスポーツが苦手だ。
それでも、ゆったりとしてヨガなら合っていると思える。

数少ない運動経験の中からだが、ヨガから学んだ「体を隅々まで意識して使うこと」はピアノとリンクするものがあった。

例えば裸足でヨガマットの上に「正しく」立とうとする時。

足の先についた5つの小さな指が、実はどれほど機能しているのかに気づかされる。

かかと、足の側面、指が床に設置する力の均等さに意識を配る時、
自然と太ももの骨から背骨、首の骨、頭の先が「正しく」立つのだ。

無駄なもののないヨガウェアは、自分の体の少しの傾きも教えてくれる。

筋肉のある部分を伸ばすために必要なポーズをとる時も、
少し手を置く位置をずらすだけで、ストレッチが影響する範囲が変わるのがわかる。

そんな風に、自分の体の隅々まで意識して、狙った効果を期待して、意図的に体を使うこと。

運動が上手な人たちは、自分の体のことをとてもよく理解している人なのだろうなと想像できる。

このことを、私はピアノにも置きかえて見ている。

難解なフレーズや、なぜか上手く弾けないところ。

これらを克服するのは、とても苦しい。

弾ける箇所や好きなところの追求に自然と時間を割いてしまう。

私は長いこと、弾けないところというのは、楽譜の難しさのせいだ、と決めつけていた。

それはつまり「私にはできるはずがない。」というのと同じだった。

この精神はまさに私の弱点。

ピアノだけでなく、たぶん人生のあらゆる面で、私はこの精神を発揮してきたとやっと気づいている。

この弱点に気が付いたきっかけは、とても大好きな曲のリベンジ練習にあった。

リストの「愛の夢」

この曲は3年前に一度練習して、なんとなく形になったのだが、まだまだ未完成だった。
それで同じ曲に再び取り組み始めたのだ。

2回目というのは、すでに基礎はできている上で始まるので、それはなんとも楽しいものだった。

だけれど、その分、「弾けないところ」が明らかにわかるのだった。

初めて練習するときというのは、譜読みをして全体をつかむのに精いっぱいなので、いろいろなところが不安定、何か月も向き合ってもうへとへと、そしてある程度のところでいったん完成、終わり、次の曲へ、となる。

しかし2回目はそれらのすべてを省くことができる。

本当の完成を目指すには、もうこの苦手なところをヤルしかないんだ、という事実から逃げられないし、それに取り組む力が今まさにここにあるという状態。

そこから始めたリベンジ練習によって、私は苦手な箇所との向き合い方を、なんとも初めて体得したのだった。

・・遅い、遅すぎる(汗)

それでも苦手の克服はなんとも気持ちがよく、自分に自信を付けさせることなのか、ということがありありとわかった。

そして、私が苦手に取り組もうとする時の障壁が何なのかも理解できた。

例えば、パニック・焦り・冷静じゃないこと。

難しい・できないということに対する感情が大げさすぎるのだった。

「あああぁぁぁ~~~もうダメだ~~何をしても無理、もうできない!!!」

この感情が先行して、まず気持ちの部分で希望を閉ざしてしまう。

だから難しいフレーズに取り組むが何度やっても弾けない時、感情の波がやってくるのだけれど、それを制し、スポーツ選手をイメージしてとにかく「トレーニング」に励むことが効果的だった。

苦手を克服するには、結局は何度も何度も練習するしかない。
手を変え品を変え、いろいろな方法で弾いてみる。
何がミスの原因なのかを探偵のように探り、仮説を立て、トライ&エラーを繰り返す。
昨日できなかったところが、今日は少しできているようになる。
やっぱりできないところもある。
それでも諦めずに、何度も何度も繰り返す。
10本の指、脚、手のひら、手首、腕、肩、頭、目、耳、脳。
すべてを隅々まで意識して、適切に使いこなす。
そして感情、過去・今・未来、到達(完成)したい場所への思い。
それらを総動員すると、最後は頭から湯気が出る。

その結果現れるのは、華々しく、軽やかで美しい音楽なのだが、
その裏で、特に苦手な箇所の克服というのは、辛い。
意識がもうろうとするのも珍しくないほど苦しい。

さっき書いた私のオーバーな感情というのは、結局のところ、この辛い努力をしないためにとてもよい力を発揮していたのだった。

ただし、私は今回のことで、それに気づくことができた。

これはピアノ以外にも言えること。

これまで脇に置いてきた「克服したいこと」に、少しずつ向き合ってみよう。


ピアノは私にいろいろなことを教えてくれる。

だからやめられない。








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