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第4回「西部軍司令部 九州大学医学部事案 米軍機搭乗員犠牲者慰霊法要」

今年は「西部軍司令部 九州大学医学部事案 米軍機搭乗員犠牲者慰霊法要」に参加させて頂いた。すでに4回開催されている。私は一昨年以来、2回目の参加である。開催地が福岡市と遠距離なので、毎年は参加できない。今年は息子が「参加したい」と言い出したので、参加することを決めた。父親の祖父に対する思い入れを継承してくれようとしているのが嬉しかった。そこで九州在住の従兄3名にも声をかけて5人で参加した。







 当日は来賓代表として、以下をメッセージさせて頂いた。
1️⃣私は油山事件に関与した左田野修の息子である左田野渉です。本日は慰霊祭に出席させて頂きありがとうございます。左田野修は、油山事件で米軍捕虜となった青年を処刑して、戦後にBC級戦犯として指名手配されました。岐阜県多治見市に3年半逃亡して隠れたため、日本最後の横浜裁判で裁かれた人物です。逃亡期間が長かったため、絞首刑を免れました。この経緯が小林弘忠先生によって「逃亡」が出版されて日本ノンフィクション賞を受賞され、それを読んだNHKの柳川強ディレクターによって「最後の戦犯」というドキュメンタリー番組となりました。父が生き延びたことによって、私が産まれたわけです。今日は私だけではなく、私の息子である育つまり修の孫、そして修の兄であった久叔父の息子である明、修の姉であった恵美子叔母の息子である格と徹が出席させて頂いております。5人とも修と同じく名前が一字です。今日はよろしくお願いします。
2️⃣私は二十歳になった時に、父である修に呼ばれて、自分が戦犯であった過去を告げられました。そしてダンボール箱に入った数々の記録を「読んでみなさい」と渡されました。戦犯ということ自体に疎く、関心も持っていなかった私は、父の話しに動揺し、渡された資料を衝撃を以って貪り読みました。父は驚くばかりの記録魔であり、事件や逃亡記を多数残していました。そこには初年兵として従軍していきなり処刑の任を担わされた、懊悩と怨念が綴られていました。まだ若く怯えていた若者に日本刀で処刑せねばならなかった怯えと憐憫。嫌な役目は全て下士官に押し付けた上官への想い。殺された者と、殺さねばならなかった者の追い込まれた理不尽。処刑後に血で塗れた日本刀が、処刑された若者の身体の脂で、いくら洗っても血が流し落とせなかったという描写が自分を戦慄させました。作家の吉村昭先生から資料の提供を求められた父は「上官に迷惑がかかるから」と断ったそうです。それでも父の死後に、作家や新聞やテレビに父の残した記録を私が開示したのは、父が明らかに公表を意識して、自身の体験の記録や資料を残したと確信できる意志を感じたからでした。
3️⃣今、世界では多くの戦争や紛争が起こっています。ロシアによるウクライナ侵攻、スーダンでの内戦、ミャンマーの軍事クーデター、イスラム国によるシリア紛争、中国の台湾侵略の怖れなど、枚挙に暇がありません。これらの紛争は、いずれも国と国との紛争です。しかし実際に戦っているのは個人と個人です。戦争を指示した為政者が、自らが銃を取って戦場の最前線に赴くわけではありません。結局亡くなるのは庶民であり、有望な若者たちです。われわれは太平洋戦争のような過ちを繰り返してはなりません。
4️⃣今日の慰霊祭をボランティアで主宰して下さった深尾裕之さまに深く感謝を申し上げます。おかげさまで処刑された搭乗兵のご遺族であるヘザー・ブッキャナンさんと、書簡を交わすこともできました。彼女から父にまつわる質問を10個ほど受け、その回答への返事に『I forgive you』と告げられた時は、天国にいる父に伝えたいと思ったものでした。そのことで戦後68年の悲劇が無くなったとは思いませんが、亡父が処刑した若者に申し訳なく思った慚愧の念は代弁できたのではないかと思います。また今日ご列席頂いている中央大学の松野教授は、ゼミ活動の中で父の残した記録を映像化してくれています。次第に忘れ去られてゆく戦争の記憶を、後世に伝えて頂けるという意味で感謝しています。銃や剣を交えた日米ですが、この先の平和と友好が永く続くことを祈り信じます。ご清聴ありがとうございました。


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