野府二郎(やふ・じろう)

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ある「ギフテッド」当事者の半生(15) どうしてこうなった

初出勤の日。 店舗の開店時間は11時である。遅めに店を開けるのも秋葉原流だ。 10時半に行くと、まだシャッターが完全に閉まっていた。近くのタバコ屋で一服しながら、10時45分に行くとシャッターが半分だけ開いていた。 腰を屈め、店内に入る。1階は真っ暗で、そのまま店内の階段を登って2階へ。 メガネをかけた、とてもガタイが良い人−。どうやらこの人が店長なようだ。 「あっ、◯さん?店長のSですー。みんなギリギリに出勤だからさ。俺が来てシャッター開けておいたよ」  ラグビー部にでも居

    • ある「ギフテッド」当事者の半生(14) どうしてこうなった

      結局のところ、私はその会社に採用されることになった。 二次面接では事業部長と人事部長が対応してくれたが、面接の段階で内定が出ているようなものだった。  帰りの電車の中で読んだメールには「先ほど口頭でもお伝えした通り〜」と書いてあった。思わずニヤリとしてしまった。 それから、入社に関する書類を集めて再び本社へ。一次面接のNさんは、関東地区のマネージャーだという。Nさんから社内規則の説明を一通り受けて、書類にサインと捺印。希望通り、無期雇用の社員として働けることが決まった。

      • ある「ギフテッド」当事者の半生(13) どうしてこうなった

        2014年1月の終わり、母の葬式が営まれることになった。 場所は父の会社の近くにある斎場で行うことになった。高齢のために来ることが出来ない母の母(つまり祖母)からも、儀礼的ではあるが取引先の方からも、花を送ってもらった。  通夜と告別式は、二日とも父も私も出勤することが出来ない。  – それを助けてくれたのは、かつて母と働いていたパートさん達であった。彼女たちは自主的に出勤と通夜告別式出席のためのシフトを組み、参加してくれた – 。  頭が下がる思いとは、このことなのだろうと

        • ある「ギフテッド」当事者の半生(12) どうしてこうなった

          2013年の初め。 母が腹痛を訴え、定期通院中の病院に救急車で搬送され、そのまま入院するということが起きる。  恐れていたことが起きてしまった。つまり、がんの再発である。 母は、抗がん剤と共に麻薬性鎮痛剤を使いながら、自宅で休養することになった。 父と私二人で動かしているのを見て、母は毎朝私に「ありがとう」と声をかけてくれていた。私は寝起きが悪く母に起こされることもあったし、母にとっては「自分の代役」を担っている息子に、精一杯の言葉がそれだったのだろう。 そして、抗がん剤

        ある「ギフテッド」当事者の半生(15) どうしてこうなった

          ある「ギフテッド」当事者の半生(11) どうしてこうなった

           そんな具合で、私は日本に急遽帰国することになる。 7年前に母が泣きながら送り出してくれた成田空港へ、このような形で戻るとは思ってもいなかったし、何より母の状態が不安でたまらなかった。 翌日。母が入院している病院に行くことになる。そこは、かつて私が世話になった児童精神科がある大学病院でもあった。 母に面会する。体型は変わっていなかったが、顔色は明らかに悪かった。  – 開口一番「ごめんね、ごめんね」と言われた。  母は何も悪いことをしていないし、むしろ私に関することでスト

          ある「ギフテッド」当事者の半生(11) どうしてこうなった

          ある「ギフテッド」当事者の半生(10) どうしてこうなった

          ここからはある程度端折って書くことにしよう。 あまりに長いと、途中で飽きられてしまうから。 結論から言うと、ドクターロバーツにロンドンで再会、なんと彼は医師であった。 オーストラリアで会った時には緊張していたのか、すっかりそんなことを忘れていたのかもしれない。 そこで、ドクターロバーツから意外なことを言われる。 「オックスブリッジに興味はないか?」 オックスブリッジとは、英国の2大大学であるオックスフォード(向こうの発音的にはオックスフッド)とケンブリッジ大学のことである

          ある「ギフテッド」当事者の半生(10) どうしてこうなった

          ある「ギフテッド」当事者の半生(9) どうしてこうなった

          2007年、夏。私はブリスベン国際空港で香港行きの旅客機の搭乗待ちをしていた。直行便の設定がないくらい遠いのだ。 ちなみに乗客の殆どがコモンウェルス各国かBNO(英国海外領土)パスポート持ちで、出国審査は別の列。私は殆ど待つことなく出国審査を終えることができた。 搭乗が始まり、私は通路側の席を指定してチェックインしたのだが私の隣もその隣も人がいる状態だ。毎日運行ではなかったので結構乗っているな、と思った。  -いよいよ、ヨーロッパの土地を踏むんだ。 日付変更線を跨ぐことは

          ある「ギフテッド」当事者の半生(9) どうしてこうなった

          ある「ギフテッド」当事者の半生(8) どうしてこうなった

          次の土曜日から、運転免許を取得するための特訓が始まった。 とは言ってもオートマチック車は日本とアメリカ以外では殆どない。AT限定免許と言うものも存在しない。私は、必然的にクラッチの繋ぎ方から始めなければいけなかった。 ただ、ローギアの場合は非常にシビアなクラッチ繋ぎを要求される一方、トップギアに近づくにつれてクラッチ繋ぎが楽だと言うことはすぐにわかった。つまり、一度止まってしまうと1stから2ndへのシビアなクラッチ操作が要求されるが、止まらないようにすれば問題はあまりない

          ある「ギフテッド」当事者の半生(8) どうしてこうなった

          番外編 私とルーク

          ルークと初めて出会ったのは、2004年4月の秋である。 4月といえば春だろう、と言われるかもしれないが、出会ったのが南半球のオーストラリアだったのだ。彼とは同じソーデン家にホームステイする、ある種のルームメイトだった。 私はアジア人のルームメイトがいるとは聞いていたが、中国の人とは思わず最初はとても驚いたものだ。 ルークは中国上海生まれである。1985年生まれなので私より3歳年上だ。 「ルーク」と言う名前は中国圏独特の英語名である。ブルース・リーやジャッキー・チェンといった

          ある「ギフテッド」当事者の半生(7) どうしてこうなった

          よし、行く国は決まった。 …でも、どうすればいいんだろう? どこの大学に?なんの試験を受ければ良い?ビザはどうするの? 当時の自分はわからないことだらけだった。 そりゃそうだ。異国の地から異国の地へと留学を続けるのだから。  結論から話すと、学校で色々と調べてくれた。Aレベル試験、Oレベル試験、IELTSなど…4回ほど試験を突破しないと、イギリスの国立大学には行けないようだった。 まず初めに、IELTS(アイエルツ、英国英語の資格)を取ることにした。地元(ブリスベンのシテ

          ある「ギフテッド」当事者の半生(7) どうしてこうなった

          ある「ギフテッド」当事者の半生(6) どうしてこうなった

          閑話休題、私の家族の話をしたい。 私は横浜の片田舎に住んでいるが、ここは父も、父方の祖父も、その前もずっと住み続けているという古い家である。パスポートを申請するときに戸籍謄本を取ったわけだが、明治戸籍以前よりどうやら住み続けているらしい。言い伝えによると元禄年間に今の場所へ定住したという。 父方の祖父は1928年生まれ。4男7女の4男なので、兄3人は皆太平洋戦争に従軍したらしい。私からみた曽祖父は日露戦争に従軍したと聞いた。 祖父は終戦時17歳だったが、農家の4男ということ

          ある「ギフテッド」当事者の半生(6) どうしてこうなった

          ある「ギフテッド」当事者の半生(5) どうしてこうなった

          〜前項(オーストラリアに着いて)の続きです〜 流石に詳細を書くとものすごい量になっちゃうので、ざっくばらんに書くようにしますw 着いた翌日に色々手続きをしたが、全てスムーズだった。 ただ驚いたのは日本円の凄さ。ブリスベン郊外の田舎町にあるANZ銀行の支店に日本円で10万円持っていったら、10分も待たずにオーストラリアドルに換金されて出てきた。 日本円の信用度には本当にびっくり。 その後、翌週になって学校の語学試験を受ける。結果はダメ。 付属の語学学校に入ることになる。

          ある「ギフテッド」当事者の半生(5) どうしてこうなった

          ある「ギフテッド」当事者の半生(4) どうしてこうなった

          〜前項(留学先探し)の続きです〜 6.オーストラリアに着いて 成田を21時半過ぎに出発するブリスベン行きに無事乗り込む。ほぼ定刻の出発のようだ。日本航空とカンタス航空のコードシェア便だが、乗務員も機体もJALのようだった。ブリスベンまで所要9時間弱、時差は日本標準時からマイナス1時間。ここまで長いフライトに乗るのは初めてだった。  余談だが、当時使用されていたボーイング747-400はエンジンが4機で、現在主流の2発機よりも遥かに騒音がでかい。そのため、ちょくちょく目を覚

          ある「ギフテッド」当事者の半生(4) どうしてこうなった

          ある「ギフテッド」当事者の半生(3) どうしてこうなった

          〜前項(中学校卒業から国外追放まで)の続きです〜 5.留学先探し 自分にとっても母にとっても、いまいち掴みどころを得ない診断結果だったので、特にそれを悲しんだりすることはなかった。 当時は発達障害という言葉も、ギフテッドという言葉も日本に馴染みはなかった。 ただYドクターの言う以上、日本にこのまま居ても仕方がない。 水曜日に結果を告知され、木曜日は学校を休み考えに考え、金曜日に学年主任のY先生に母同伴で結果を伝えた。  学年主任のY先生は「ああ、やっぱりそうでしたか」と

          ある「ギフテッド」当事者の半生(3) どうしてこうなった

          ある「ギフテッド」当事者の半生(2) どうしてこうなった

          〜前項(生まれてから中学受験まで)の続きです〜 4.中学入学から国外追放まで 2001年4月、私はJ中学の入学式にいた。 そして3クラス中C組だった(受験の成績は関係なかったみたいだ)。 担任のO先生は少し変わっていて、かつて医薬品メーカーのMR(営業)から学校の教師に鞍替えしたという経緯を持っていた。理科が専門で、自分の担任が好きな教科の担当だと聞いて嬉しく感じた。 その中学校は当時としてはとても異色で、付属高校が甲子園優勝をしたことあるほどの強豪校なのだが、その試合

          ある「ギフテッド」当事者の半生(2) どうしてこうなった

          ある「ギフテッド」当事者の半生(1) どうしてこうなった

          最近、「ギフテッド教育」なるものが認知されつつある。というのも、文科省が「特異な才能のある子供への支援に乗り出し」たからだ。だから教育関連のニュースで『ギフテッド?ああ、頭のいい天才でしょう』と認識されている方も多いと思う。 実際はそんな簡単なものではない。ある意味「ギフテッド」という言葉が一人歩きし、ステレオタイプなイメージが形成されつつあるのには大変な違和感を覚える。 私は1988年(昭和63年)生まれで、平成の年と年齢が一致する歳だ。 そんな"古い教育を受けた"者の、あ

          ある「ギフテッド」当事者の半生(1) どうしてこうなった