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「怒りっぽい人」はなぜ怒っているのか?

世の中にいる「怒りっぽい人」について、なんでそんなに怒りっぽいんだろう? と考えていたら、ある仮説に行き着いたので、少しそれについて考えてみたい。

怒りっぽい人は、基本的にあまり人望がない。というより、怒りっぽいために、「めんどくさい人だ」という扱いを周囲から受けているケースが多い。怒りっぽい人は、物事を多面的に見ることができないので、やや疎まれている傾向にあるように思う。

「物事を多面的に見れない」程度だったらいいが、ほぼ一方向から物事を見ないタイプもいる。こうなってくると、日常生活でも支障があるだろう。そもそも、世の中にはいろんなものの見方があるということさえ認識していない人もいるのではないか、と思う。

とても怒りっぽい人は、もはや理屈ではなく、脊髄反射的に怒っている感じである。自分の思想や信条に反したことを言われた瞬間に、沸騰的に怒る。ひどい人になると、ある特定のキーワードだったり、許せない概念に触れた瞬間に怒り始める。

ネットなどで有名人に粘着する人もこのタイプに分類されるような気がする。特定のキーワードに反応するので、わかりやすいといえばわかりやすいのだが。

「怒る」ということの原理を考えてみたい。最近の研究だと「感情」は他人をコントロールするために、自らが作り出すもの、という解釈があるらしい。「怒る」という感情が生み出されるとき、何が起きているのだろうか。

要するに、自分の許容するレンジの外にあるものを許さない、ということなのだと思う。怒りっぽい人は、自分の許容レンジから外れたものや人を見た瞬間に、「怒る」ことによって、自分が許容しているレンジに現実を引き戻そうとする。つまり、怒りによって周囲をコントロールしている、ということだ。

世間一般の「頑固親父」の原理はこれである。頑固親父にある程度の社会的地位があった場合、部下の人間は常に顔色を伺い、ちょっとでも怒りだしそうな気配を感じ取ったら、すぐに自分の発言を修正したりして、彼が怒らないレンジに戻そうとする。

僕も、ある程度以上の年齢の人としゃべるときには、結構気を遣うことがある。馴染みのない概念を話題にすると、不機嫌になる人がいるからだ。また、年齢が上の人ほど「怒りのスイッチ」は多い。相手の知識レベルや怒りポイントを探りながら、わけのわからない話にならないように気を遣うのだ。

その点、同年代の人と話すときはそういった配慮があまり必要ない分、気が楽だと言える。

こういう構造は幼児でも大体同じだと思う。幼児も基本的には怒ったり泣いたりすることによって自分の心地良いところに周囲の現実を持っていこうとする。ヒステリックな人全般はこれに当てはまるだろうか。

なので、「怒りやすい人」と「怒りにくい人」の違いは、つまり自分が許容するレンジが広いか狭いか、ということである。「心が広い」という言葉があるが、あれは結構的を射ている、ということになる。

心が広いというのは「許容するレンジ」が広い、ということを意味する。人間であれば必ずそのレンジは有限であって、無限に広いわけではない。大きさがあるわけだ。

もし許容するレンジが無限に広い人がいたとしたら、それはお釈迦様とかそういうレベルになるだろう。何があっても所詮は宇宙のなかでは瑣末なこと、ぐらいに思ってしまうと、もう何も怒りようがない。

しかし、人はこの「許容レンジ」を自分であえて調整していることもあるのではないかと思う。例えば仕事においては、会社の業績などは個人的には誰もが正直どうでも良いと思っていると思うのだが、それだとプロ意識に欠けるため、会社の業績なども気にしたりする(ふりをする)わけである。

部下を効果的に動かすためには、許容レンジを狭め、自分を怒りやすくしたほうがいい。そのため、自分の許容レンジを自ら狭くする、ということもあるのではないだろうか。

例えば、自分の部下がスマホを頻繁にいじっていたり、私語が多かったりすることも、本当はどうでも良くても、あえて許容のレンジを狭くして、注意する必要があるので、そうしているともいえる。子どもの教育などについても似たようなことが言えるだろう。

サイバーエージェント社長の藤田晋が会社の事業でどれだけ赤字が出ても、広いレンジでものを考えるとあまり気にならなくなる、と言っていた。ただ、常識的な範疇を超えて、宇宙レベルでものを考え、所詮は地球上の話だしな、みたいな感じになってしまうと今度は無責任になってしまうため、そこは自分で調整しているということだった。確かに自分で意識して変えられると便利かもしれない。

以前は仕事でよく東南アジアに行っていたが、たいていの国にはコンビニ(らしきもの)はある。しかし店員の質は国によってかなりまちまちで、日本くらいの練度のところはまずない。しかし、アジアのコンビニでどういう接客をされても、基本的にはあまり気にならない。

ひどい場合だと、昔の中国のコンビニで夜に入店したら、店の奥のほうに段ボールを敷いて店員が寝ていたことがある。しかしまあ中国だしな、ということである程度許容してしまい、怒るということはなかった。

ところが日本の場合、ちょっとでも店員がぞんざいな態度をとると結構気になったりする。これは自分が日本のコンビニ店員に対して許容しているレンジが狭いということを示しているのだろう。

怒りっぽいから悪いとか、怒りにくいから良いということではなく、構造を抑えておくことが大事だと思う。生理的にどうしても受け付けられない、みたいなパターンもあると思うので、構造を把握していたからといって対応できないケースもあるだろう。

もしも自分が非常に起こる出来事があったとしたら、許容レンジをどうとるか、といったことを考えてみると、行動のヒントになるかもしれない。

いずれにせよ、相手の「怒り」にあまり敏感にならないことが大切だと思う。どれだけ相手が怒っていても、ひるまずに冷静に対話することが必要だろう。

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