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ものの価値とか、値段とか

幼稚園か、小学校にあがったばかりぐらいのときだろうか。デパートで両親と買い物をしていて、メロンを見かけた。見た目はほとんど同じなのに、書かれている数字が違う。それも2倍とか、3倍ぐらいの大きな開きがあった。
 
見た目は同じなのに値段が違う。「どうして値段が違うの?」と親に質問すると、「高いほうは美味しいから高いんだよ」という回答が返ってきた。そこで僕はすかさず「じゃあ、高いほうを買おう」と提言した。名案だと思った。高いほうが美味しいのだから、高い方を買うべきだ、と(笑)。価値の高いものは値段が高く、安物は価値が低い。価値が数字を通して即座にわかるのはすごい仕組みだな、と幼心に感動したのを覚えている。
 
人間社会では、あらゆるものに数字がつく。ものの値段もそうだし、人間にだって数字がつく。いまだと、「年収」がその人の価値を表す尺度になるのだろうか。年収を公けにする人間は、僕の周囲ではほとんどいないが、たまにSNSなどで見かけることもあるので、それはその人の価値を確かに示しているのだろう。たいていの場合、自分から公言しているタイプの人は僕の年収よりも2倍とか3倍の人ばかりなので、僕よりも2倍から3倍の価値のある人々なのだろう。
 
年収に限らない。あらゆることが数字、またはそれに準ずる指標で表現できる。TOEICの点数。ツイッターのフォロワー数。学歴の高さ。勤めている会社が上場企業か否か。これはいまの時代だから、ということではなく、おそらく有史以来続いていることだ。江戸時代の大名は「◯◯万石」みたいな単位とともに説明されることが多いが、あれが要するに領土の豊かさ、ひいては国力の指標ということになると思うので、いまでもそういった数字が残っているということは、当時からそれが指標として重要視されていたのだろう。

僕は学生のときに、ニコニコ動画という動画サイトの、「ニコニコインディーズ」というタグの動画を「すべて」見ていた。これは、アマチュアで活動する音楽家が音楽動画をアップするときにつけるタグのひとつで、いちおうひとつのジャンルとして認識されていた(当時はボーカロイドが全盛だったので、それと区別するために誕生したようだ)。
 
だいたい、一日に30曲から50曲が投稿される。月間にすると1000曲を超える。それらをすべてチェックして、ランキングにして自分のブログで紹介していた。やり方はこうだ。毎日、すべての動画をダウンロードする。そして、すべての曲を10秒ずつ聞いて、気になったものを選り分けておく。最終的に、月間で100曲を選別して、最初から最後まで通して聞き、コメントをつけたうえで、ランキングにして発表していた。
 
なぜすべての動画をダウンロードしたのかというと、「動画の再生数やマイリスト登録者数を見ないようにするため」だ。再生数などをみてしまうと、どうしてもバイアスがかかる。「再生数がたくさんあるからいい曲なんだろう」とか、「ぜんぜん再生されていないから期待できないな」というバイアスがかかってしまうのだ。それを防ぐために、純粋に、10秒間ではあるが音を聞いて、選り分けるようにしていた。10秒聞くと、だいたいの実力がわかる。もちろん最終的には最初から最後まで聞くのだが、最初の選別は10秒あればじゅうぶんだ。
 
結果からいうと、やはり再生数が多い動画はクオリティが高く、少ない動画は低い。これは傾向として間違いなく、否定はできない。ただ、たまに、再生数がおそろしく少ないのにものすごくクオリティの高い楽曲も混じっている。だが、僕はバイアスを極限まで減らす工夫をして、分け隔てなくレビューすることを心がけた。
 
すると、ランキングは不思議なものになった。再生数がたくさんあるクオリティの高い曲と、再生数はぜんぜんないがクオリティが高い楽曲が渾然一体となったのだ(当たり前だが)。それを一年ほど続けると、「ここで紹介されるために頑張ってきました」みたいなコメントを残してくれる人も出てくるようになった。僕は、とりあえずバイアスを克服し、「自分の判断で」「価値を見出すことができた」ことがただうれしかった。数字ではなく、ものの良し悪しを見分ける能力を身につけたのだ、と。それが正しいかどうかはさておき。

あなたは自分の目で価値を判断しているだろうか? あなたが価値があると判断しているものは、本当にあなたが判断したものか?
 
これは訓練すれば誰でもできる。ただ、意識しないと、バイアスに流される。数字は指標であり、絶対的な価値ではない。自分で価値を見極める訓練は、しておいても損にはならないだろう。(執筆時間20分25秒)

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