見出し画像

「AIの補欠」になってしまった人類は、何をして暇を潰すのか?

ネットで「近い将来、人間社会はAIを主役にして、人間は『補欠』のような役回りになるんじゃないか」という意見を見た。

難しいことを考えたり、実務上の手続きなどは基本的にAIが行い、人間が何かしようとすると「人間様にそんなことをさせるわけにはいきません」などと言って、AIが制止してくる。「(迷惑なので)頼むから何もしないでください」と。 

突然そういう社会がやってくるんじゃなくて、徐々にそういう世界に移行していくのだと思う。では、人間は仕事をしなくてもよくなるかというと、仕事はたぶんずっとあるのだと思う。いまと同じように。

だんだんと仕事の性質が変わってきていて、昔と比較すると「本質的じゃない仕事」の割合が増えてきたんじゃないかと思う。この傾向は今後も進んでいくのだろう。

わかりやすい例が「専業YouTuber」だ。専業YouTuberはどういう面で社会に貢献しているのだろうか。彼らもお金を得ているわけだから、なんらかの価値提供を行ない、その報酬として対価を得ているはずである。

彼らにお金を払っているのはGoogleだ。ではGoogleはどうやってお金を得ているのかというと、スポンサーから広告料をもらっている。スポンサーはなぜ広告を出すのかというと、製品やサービスを知ってもらい、買ってもらいたいからだ。なぜ広告を出す必要があるのかというと、そうしないと知ってもらえず、買ってもらえないからである。

つまり、ほんらい必要のないものを企業は売り、それを売ったお金で広告を出してYouTuberを養っているとも言える。人々が本当に必要としているものであれば、広告など出さなくても、人々は検索して購入するだろう。

もちろんこれは極論ではある。これだと広告をすべて「意味のないもの」として否定することになってしまう。お金の循環が生じる以上、経済活動が成立しているということで、れっきとした「社会貢献」「仕事」なのだが、客観的に見るとなんかギアが入っていないトルクが高速回転しているようで、これって本当に意味ある仕事なの? と思ってしまう。

たとえば江戸時代にはこういった「ギアが入ってない状態」というのはほとんどなかったはずで、もっと実用的な交換が行われていたはずだ。何度も言うようだが、だから職業として成り立っていないというわけではなく、むしろそれで職業が成り立つということは、「社会」が成熟してるんだろうな、と思うのである。

たとえば世界中が戦争で焼け野原になってしまったら、そういう仕事は成り立たない。そういう場所では、たとえば「家を建てます」とか、「ものを運びます」とか、「屋台でうどんを作って食べさせます」みたいな仕事が主流になるはずだ。

人が何かを「価値あるもの」と信じる限り、値段はつく。たとえば、僕はポケモンカードに興味がないので、どんなレアカードでもただの紙切れにしか見えないが、レアなカードは50万円、100万円ぐらいで取引されているものもある。美術品などもそうだ。

もっといえば、会社の株価がそうだ。会社というのは何か実体があるわけではなく、ただ「法人」として法務局に登記されている虚構の存在なのに、そこに価値を見出す人々がたくさんいて、値段がつく。世の中がいま以上に「働く必要」がなくなっても、「何か」を価値あるものと信じる限り、お金の流通が生まれる。

つまり、それが「仕事」になる。人々が生きるために必要な活動はすべてAIに任せて、人間の仕事は「価値」の交換をするゲームになる。

なので仕事はいつまでもなくならないだろう、と思うのだ。当然、貧富の差もなくならない。人間の仕事はゲーム化し、ゲームに勝っている人が大金持ちになるだけだ。ただ、貧しい人も「貧しい」とされている状態なだけで、決して悪い生活ではない。それは現在もそうだろう。

人間が仕事をやる必要がなくなったら、人生はいま以上に壮大な暇つぶしになる。創造的な仕事をやるしかない、というような意見もみられるが、その「創造性」の分野さえもAIが占めるようになっていくだろう。

最終的には、あらゆることを「学ぶこと」が人間の目的になったりして。学生が延長される。50歳ぐらいまで学生として過ごす。

個人的にはだが、「遊ぶ」というのは限界があるのでは、と思う。じゃあいまから遊んでください、と言われて、10年も20年も遊ぶことができる人は少ない。何か社会に貢献したい、仕事がしたい、と思うようになる。その仕事とは、工場でライン工をするというようなものではなくて、プロゲーマーになるとか、YouTuberになるとか、デイトレーダーになる、みたいなことだ。

実務的でつまらない仕事はだいたいAIがやってるから、人間ができる仕事は少ない。だが、上述の「価値をめぐるゲーム」の仕事は存在するので、それに飛び込む。それが嫌な人は、もはや「学ぶ」ことしかやることがなくなるんじゃないかな、と。

あなたはどう思いますか?

サポート費用は、小説 エッセイの資料代に充てます。