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部下の考えが浅くて困っている人へ

前回、人を育てるときのNGワードとして、「なぜなぜ5回」「深堀りして」を取り上げました。

今回は、「なぜなぜ5回」「深堀りして」がNGワードである理由を、もう一歩踏み込んで考えてみます。(私もついここで、「NGワードである理由を深堀りしてみます」と言ってしまいそうになります。それくらい馴染みのある言葉だということですね)

誤解があるといけないのですが、「なぜなぜ5回」「深堀りして」という言葉は、「いついかなる時でも絶対に使ってはいけない」というわけではありません。あくまでも、「本人(育てられる側)がいまどんな状況にあるのか」に依存します。具体的には、「守破離における守の段階では早すぎる」となります。守の段階では、本人から「引き出す」のではなく、本人に「与える」ことが先決です。

守破離で言うところの守の段階が終わるまでは、コーチングではなくティーチングの時期なのです。本人から何かを引き出そうとする、〈なぜ〉という問いを投げるのではなく(だってまだ引き出しうるものがないのだから)、型を見せ、やらせてみせ、そのときに本人が戸惑っているようであればその戸惑いを言語化してあげることが大切です。

人を育てるときのNGワード』より

部下育成の文脈ではありませんが、「引き出す」と「与える」のバランスが崩れてしまっているコミュニケーションの例がこちらです。

攻撃の手段としてしか質問をしない人が会議の席上にいると、例えばこういう会話が頻繁に発生します。

「この資料に〇〇という記載がありますが、これはどういう意味でしょうか?」

「ええと、その〇〇というのはこれこれこういう意味で」

「いや、それは違いますよね?〇〇なのだから××でないとおかしいですよね?何故そうなるんですか?」

「いえ、それはこれこれこういう意図で」

「それはおかしい。ここは××でないと意味が繋がらない。直してください」

こんな感じです。

もちろんここには幾つか検討しなくてはいけない要素があるんですが、一番大きな問題は、「自分は最初から「××」という確固たる回答をもっており、そこから譲るつもりがない」のに、最初から「それは××ではないですか?」と指摘する訳ではなく、わざわざ「問答」というプロセスを経ていること、ではないかと思うんです。

確固たる回答があって歩み寄るつもりがないのであれば、わざわざ質問をする意味がありません。
時間の無駄でもあり、相手からすると「わざわざ質問に答えているのに重ねて否定される」という徒労感の原因にもなります。
「質問→相手の回答に対する否定→自説の押し付け」
というプロセスが必ずワンセットになっているので、この人が質問をすると、相手は必ず「あ、これから否定されるんだな」と身構えてしまう、という状態でした。

「攻撃するために質問する人」が職場にいると何が起きるか』より

この場合、不要な《「問答」というプロセス》からなる上辺だけのコーチング(引き出す。引き出せてないけど)などせずに、《ここは××でないと意味が繋がらない。直してください》と、どストレートなティーチング(与える)をすればいいわけです。

ここで、話を前回の続きである〈なぜ〉という問いに戻します。

「引き出す」ではなく「与える」の段階においては、〈なぜ〉という問いに答えるべきなのは、まだ機が熟していない部下の方ではなく、すでに《確固たる回答》を持っている上司の方なのです。

「□□なので、××にしてください」のように、《確固たる回答》の根拠を、上司の方こそが説明すべきなのです。《型を見せ、やらせてみせ、そのときに本人が戸惑っているようであればその戸惑いを言語化してあげる》ことの一環として。

「いちいち説明するのは大変じゃない?」
「そんなことまで言わないとわからないの?」

育てる側のこんな嘆きが聞こえてきそうです。

「なぜなぜ5回」や「深堀りして」が悪手である理由が、ここに潜んでいます。NGワードが散りばめられた、上司と部下のやり取りを読んでみてください。

「○○なのは、△△だからだと思います」

「うーん、なぜなぜ5回で、もうちょっと考えてもらえる?」

(部下がしばらく考えたあとに)
「もう一度考えてみたら、○○なのは、××だからじゃないかと思いました」

「うーん、まだよくわかんないなあ。もっと深堀りして考えてもらえる?」

この会話例からわかるように、「なぜなぜ5回」「深堀りして」は、相手(育てられる側)の回答の如何に関わらず、どんな場面でもオウム返しできてしまう応答なのです。

育てられる側の考えが、△△から××に変化したのですから、育てる側の応答にも、本来なにかしらの変化があるべきです。ところが、育てる側の応答は「なぜなぜ5回」や「深堀りして」のオウム返しで変化がない。これは、育てられる側からすると、道標も出口もない、永遠の問答に映ります。

このオウム返しは、文型こそ問いの体裁(疑問形)を取っていますが、もちろんコーチングにはなっていません。コーチングとは、相手にあわせて問いを変えることによって、相手が変わることを促す行為だからです。ティーチングになっていないことは、言わずもがなでしょう。コーチングにもティーチングにもなっていないこのオウム返しは、人を育てるという文脈において、一体どんな効果を生んでいるのでしょうか。

「なぜなぜ5回」や「深堀りして」という応答は、相手(育てられる側)に対して考えることを求めている割には、その実、育てる側が考えることを放棄している、という矛盾をはらんでいます。なので、NGワードなのです。

育てる側は、育てられる側以上に、考える必要があります。「引き出す」ではなく「与える」段階ならなおさら。育てる側が、育てられる側の状況を踏まえて、教えようとしている内容について、しっかりと考える。そして、考えた内容を、しっかりと説明する。それが、育てられる側にしっかりと「与える」ということです。

育てる側であるあなたは、《確固たる回答》(絶対の正解である必要はありません。〈私〉の回答であればよいのです)を持っていますか?

育てる側であるあなたは、《「□□なので、××にしてください」》のように、《確固たる回答》の根拠を説明できますか?

育てる側であるあなたは、育てられる側からの「なぜ、こうするのですか?」という〈なぜ〉に答えられますか?

育てる側には、育てられる側に対して〈なぜ〉を問う前に、できることがけっこうたくさんあります。「なぜなぜ5回」「深堀りして」という言葉でそれらを濁してしまっていないでしょうか?


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