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心理的安全性と責任

羽田と成田を間違えたときに、あなたならどうしますか?

何か困ったことがあってお店の人とかに聞くときわたしはいつも「あなたならどうする」って聞く。

「わたしはどうすればいいですか」っていうとその人はお客さんであるこちらの行動の責任を取らないといけなくなっちゃうので、答えにくいのだ。

だから「ご自分だったらどうなさいますか」って聞き方が一番いいと思っている。

家電で迷ったときも、病院で複数の治療法を提示されたときも、羽田と成田を間違えた時も。

「ご自分だったらどうなさいますか」というのは、心理的安全性を醸成するテクニックの一つだなと感じた。

責任って不思議な言葉だと思ってて。

それこそ「無限責任」というトートロジーな言い回しがいちばんそれを表していると思うのだけど、この「責任」という言葉が持つ暗黙的な暴力性(だから、責任という言葉というか、この言葉を安易に持ち出す人を好きになれない)をうまく飼いならすことが、心理的安全性を確保するひとつの方略だと思う。

まことに逆説的なことですが、私たちが「責任」という言葉を口にするのは、「責任を取る」ことを求められるような事態に決して陥ってはならないという予防的な文脈においてだということです。それ以外に「責任」という言葉の生産的な使用法はありません。

責任という言葉は、上記のように予防的に用いられるのであれば、胃がキュッとなるような感覚は受けない。

しかし実際は、このように、呪詛の言葉として使われている感覚。

だから、人が不始末を犯したときに、「おい、どうすんだよ。責任取れよ」と凄んでいる人がいますけれど、あれは「私がこうむった損害について、あなたが原状回復をなすならば、すべては『なかったこと』にしてあげよう」と言っているわけじゃないんです。

「どうすんだよ、お前、こんなことしやがって。どうやって責任取るんだよ。でも、おまえがどのようなかたちで責任を取ったつもりになろうしても、オレは『それでは責任を取ったことにはならない』と言うからね」と言っているんです。

http://blog.tatsuru.com/2015/08/18_1336.html

「わたしはどうすればいいですか」という聞き方は、責任という言葉が孕む呪詛的ニュアンスによって相手を縛り、結果として《答えにくい》状況を生み出してしまう。

一方で、「ご自分だったらどうなさいますか」という聞き方は、相手を呪詛的ニュアンスから解放し、それがすなわち心理的安全性を担保することにつながっているのだろう。

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