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責任という言葉が苦手です

責任という言葉、もっと言うと、「誰の責任だ」「責任を取れ」という言葉が苦手です。

「誰の責任だ」「責任を取れ」という言葉は、「その言葉を発している側こそが、責任を放棄している」という矛盾をはらんでいるからです。

これも考えればすぐにわかりますが、構成員全員が「オレには責任ないからね」と言い募り、不祥事の責任を誰か他人に押しつけようと汲々としている社会と、構成員全員が自分の手の届く範囲のことについては、「あ、それはオレが責任を持つよ」とさらっと言ってくれる社会で、どちらが「誰かが責任を取らなければならないようなひどいこと」が起こる確率が高いか。

まことに逆説的なことではありますが、「オレが責任を取るよ」という言葉を言う人間が一人増えるごとに、その集団からは「誰かが責任を取らなければならないようなこと」が起きるリスクがひとつずつ減っていくのです。集団構成員の全員が人を差し置いてまで「オレが責任を取るよ」と言う社会では、「誰かが責任を取らなければならないような事故やミス」が起きても、「誰の責任だ」と言うような議論は誰もしません。そんな話題には誰も時間を割かない。だって、みんなその「ひどいこと」について、自分にも責任の一端があったと感じるに決まっているからです。「この事態については、オレにも責任の一端はあるよな」と思って、内心忸怩たる人間がどうして「責任者出てこい」というような他罰的な言葉をぺらぺら口に出すことができるでしょうか。

「困難な成熟」予告編』より

とは言え、責任という言葉は人口に膾炙するものであり、避けては通れません。「私は責任という言葉を使う人が苦手なので、その人には近寄りません」という言葉は、人と人の距離を遠ざけるという意味において、「誰の責任だ」「責任を取れ」という言葉との相似に堕しています。

私の仕事である人材育成においても、責任(感)という言葉は、肩で風を切りながら、そこじゅうを歩き回っています。

「あいつは責任感がない」
「自分の仕事にもっと責任を持ってください」

私もついつい、「最後まで責任を持ってやってね」と口にしてしまうことがあります。でも、その後には必ず、自分の方こそがしっかりと教える/伝える責任を放棄しているような、どんよりとした気持ちになります。

だから常々、責任という言葉が意味するところを分解することによって、責任という言葉を使わずして、それでいて本来求めているはずの効果(教える/伝える)をもたらす言葉を探していました。

そんなときに出会った一節がこちら。

実は、会社であれ学校であれどんな組織でも、結局は、その人間の能力を見て評価しているのではなく、その仕事に向かう姿勢や態度を見ていることが多い。
特に新人に対しては、物事に向かう態度が評価の基準となり得る。

物事に向かう態度や姿勢を、アティチュードという。
フォロワーであるときは、スキルやノウハウよりも、アティチュードが圧倒的に大切だ。

なぜなら、リーダーになれば、自分の組織という意識が高くなるため、大半はアティチュードは高いレベルで保たれる。
しかし、組織に対してあまり忠誠心や帰属意識がわかない人間だと、仕事一つひとつに心が込もるはずがない。
少なくとも、リーダーよりもその作業に魂は込められない。

アティチュードで大切なのは、質である。
質の高いアティチュードとは責任を持ってやること。
責任を持ってやることとは、そのものに対して、準備し、実行し、改善するという三つのフェーズが組み込まれていることである。

では、そのアティチュードの質がどのような場面で影響するかを考えてみよう。
◆準備段階:「あらかじめ言ってくれれば、私だってやりましたよ」
◆実行段階:「時間がもっとあれば、私だってきちんとできたのに」
◆改善段階:「え、すみません、前回はどうやったか忘れました」
上司と新人との会話でありがちな発言だ。

多くのフォロワーは、真ん中の「実行フェーズ」だけが自分の責任だと思っている。
課された仕事を「やる」だけ。
そういう姿勢でいると、準備を怠り、次につなげようとしない。

だから、その仕事の周辺にある課題にも気付かなければ、時間配分もできない。
なおかつ、やりっぱなしで、引き継ぎや次への改善の発想など浮かびもしない。
やっかいなのは、それでいて、「やりました感」「できました感」が強い。

責任を持つということは、準備に責任を持ち、実行に責任を持ち、改善に責任を持つことだ。
この三つのフェーズ全てに責任を持つことができれば、それがどんな雑務であっても己の魂が宿り、こだわりが現れる。
そして、アティチュードの質は自然と上がり「真のできる人」につながるだろう。

新版 リーダーシップからフォロワーシップへ カリスマリーダー不要の組織づくりとは』より

なるほどたしかに、「あらかじめ言ってくれれば、私だってやりましたよ」「時間がもっとあれば、私だってきちんとできたのに」「え、すみません、前回はどうやったか忘れました」といった言葉を耳にしたときに抱く印象は、責任の対岸、すなわち「責任感がない」といったものでしょう。

《責任を持ってやることとは、そのものに対して、準備し、実行し、改善するという三つのフェーズが組み込まれていることである》というのは、秀逸な分解のひとつだと膝を打ちました。責任という無責任な〈概念〉が、準備、実行、改善という〈手続き〉に落とし込まれているわけです。

自分の仕事の範囲を、実行だけに留めずに、準備、実行、改善と広く捉えれば、《仕事の周辺》が広がる。《仕事の周辺》が広がるとは、その人の視野が広がるということ。視野が広がることによって《この事態については、オレにも責任の一端はあるよな》と《内心忸怩》たる思いを抱く機会が増える。その思いこそが、自らを引き上げる。

〈概念〉のレベルで語られる「責任感が足りないよ」「責任を持ってやってね」という言葉は、人を育てるうえで、いかほどの意味を持つのでしょうか。それよりは、「準備はなにをする?」「実行はどうやって進める?」「なにが改善できる?」と、〈手続き〉を問いかけたほうがよっぽど、責任感のある仕事につながるのではないでしょうか。

育てる側が責任を放棄しないために、あるいは、育てられる側に責任を丸投げしないために、責任という無責任な〈概念〉に頼らず、準備、実行、改善という〈手続き〉を丁寧に問いかける、あるいは教える。普段のフィードバックや、研修のデザインに取り入れていきたいなと思います。


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