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「ダラダラしない人」になりたい人へ

あなたは、「ダラダラしてしまう時間」をなくしたいですか?

「ああ、ダラダラしてしまう時間をなくせれば、もっといろんなことができるのに!」

なんて思ったりしませんか?

私もそう思っていました。少し前までは。でも、最近は、こんな心境です。

こんなことを言うと
「佐々木さんはいったい、なんのためにあの、ちょっと病的とも見える詳細な記録をつけているんです? ダラダラする、ダメ人間のような時間をもっと有意義な使い方にアップデートしたいからじゃないのですか?」
と尋ねられます。

そう見えるかもしれませんが、そうではありません。

ただ私自身、そう言われてつぶさに「病的に詳細な記録」を見返してみると、そこには法則のように

✓ハードな仕事
✓ダラダラ
✓ミドルな仕事
✓ダラダラ
✓軽めの仕事
✓ちょっとダラダラ

といった、当たり前と言えば当たり前の、アップダウンの規則性らしきものを見つけました。

私はこれは「一時的な退行」なのだと思います。心理学の、それもフロイトの言葉ですが。

ハードな仕事というのは要するに「適応が難しい現実」です。私たちの「自我」は、そういう厳しめの現実と格闘した後では、少し傷ついたりエネルギーを失ったりするため、もう少し幼いころに戻って「充電」するのです。

私たちは一日に一度は、最大の退行である時間を長く過ごします。それが睡眠です。赤ちゃんに戻ると言っていいくらいでしょう。

うちの子どもも宿題を何時間もやったり、定期試験が終わったりした後では、かなり長い時間カービィに明け暮れます。退行は必要な時間です。

このちょっとした退行に対していちいちPDCAを適用して「ムダな時間を消去」しようというのは、自我に対してずっと困難な現実と格闘し続けているよう迫るものです。

ですが私たちは毎日「ねる」ように、退行するのが自然の生き物です。おそらくそうしなければ生きていけないのでしょう。

ダラダラ時間をなくすべきでもなければ、なくなりもしないと思うのはこうしたわけです。
「ダラダラ」はなぜ「悪く」て、それなのにPDCAを繰り返しても消せないのか?

佐々木正悟さんという方の文章なのですが、私はこの人に勝手にシンパシーを感じており、その著作をちょくちょく読んでいます。

最近の私的傑作はこちら。何度も読み返してます。

佐々木さんの面白いところは、〈本当のこと〉を言っちゃうところだと思っています。

ここでの〈本当のこと〉は、《ダラダラ時間をなくすべきでもなければ、なくなりもしないと思うのはこうしたわけです》というところ。

こういうことを言うと、「いやいや、そんなんじゃ社会人としてやってけないよ」という反論が聞こえてきそうです。

実はこの、(職業倫理的側面からの)反論が聞こえてきそうということ自体が、逆説的に、これが〈本当のこと〉であることを示してしまっていると思うのです。さきほどの反論に、反論している当人の心の声を補えば、こうなるのではないでしょうか。

「いやいや、たしかにそうかもしれないけど、そんなんじゃ社会人として…ごにょごにょ」

反論している当人は、《そうかもしれないけど》と奥歯に物を挟めつつの同意をしている(したい)にも関わらず、何かが邪魔してそうとは言えないがゆえに、《社会人として》という大きすぎる主語が登場してしまっています。

佐々木さんの別の著書からも一節。

仕事を着実に前進させるうえで「情緒的な安定」というものは意外に大事なのですが、この点が強調されることは、必要性に比べて少ないです。おそらくそれは、「感情に振り回されるような人間は、そもそも仕事人としてなっていない」というような、高邁にすぎる理想論が半ば「常識」と化してしまっているため、まともに取り上げることすらできなかったせいだと思っています。
なぜ、仕事が予定どおりに終わらないのか? ~「時間ない病」の特効薬!タスクシュート時間術

ここでも《仕事を着実に前進させるうえで「情緒的な安定」というものは意外に大事》という〈本当のこと〉を言っちゃってます。そしてそれに対する反論として、《仕事人としてなっていない》という、大きすぎる主語が、同じように登場しています。

もちろん、《ダラダラ時間をなくすべきでもなければ、なくなりもしないと思うのはこうしたわけです》や、《仕事を着実に前進させるうえで「情緒的な安定」というものは意外に大事》が、どちらも〈本当のこと〉だとして、それを職場で声高に叫ぼう、わかってない上司が悪い、というつもりはありません。私だって、そんなことをしようとは思いません。

ただし、《ダラダラ時間をなくすべきでもなければ、なくなりもしないと思うのはこうしたわけです》も、《仕事を着実に前進させるうえで「情緒的な安定」というものは意外に大事》も、いったんは、「真なり」として受け止める、あるいは、受け容れる、ということが必要なのでは、と思うのです。

それを受け容れたうえで、「で、現実ではどうする?」と考えるのと、そもそも受け容れずに、あるいはそういう〈本当のこと〉を知らずに、職場で歯を食いしばるというのは、大きく違うと思うのです。直視すべきものを直視しないから、認知的不協和が起きるのではないでしょうか。

ちなみに、さきほどの2つの引用で共通して登場していた〈大きすぎる主語〉というのは、反論している人の中に認知的不協和が起きている紛れもない証拠だと、私は思っています。

リモートワークやら成果主義やら心理的安全性ということをつなぎあわせていくと、〈職場で歯を食いしばる〉という状態は今後、どんどん望ましくないものになっていくと思います。

リモートワークでは、歯を食いしばっている様子は見えません。どれだけ歯を食いしばっているか、ではなく、何を生み出したか、で評価するのが成果主義です。歯を食いしばるという緊張状態は、人間関係におけるストレスフリーの大切さを謳う心理的安全性とは相容れないものです。

仕事中にダラダラしましょう、とは言いません。けれども、自分も相手も、仕事中にダラダラしてしまうものだ、ということを受け容れたうえで、どうやって価値を生み出していくのか、ということを考えていきましょう、とは言いたいです。

「ああ、ダラダラしてしまう時間をなくせれば、もっといろんなことができるのに!」

冒頭の嘆きは、切実な嘆きというよりは、無邪気な妄想に過ぎないのです。問うべきは、ダラダラしてしまう時間をいかになくすか?ではなく、ダラダラしてしまうなかでいかに価値を生み出していくか?だと思うのです。

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