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ピカピカの床

休み明けに、いつもと変わらず汚れのないオフィスの廊下を歩く。自分の部屋のドアを開けて、目を見張った。床がピカピカに光っていた。

ワックスしたばかりの床を、廊下やほかの部屋でも見たことはある。でも、その時は、私の部屋だけ。

フルタイムで仕事に戻った年だった。


笑顔にさせてくれた人は、清掃員のMさんだとすぐわかった。

夕方からフロアの掃除を始めるMさん。見たことがない道具も、掃除用のカートにあった。工夫ぶりがおもしろく、時々言葉を交わした。クリスマスで、私は休みになった。その時オフィスに、Mさんへのお礼を置いておいた。

お返し、だとしたら、もらいすぎだ。
お礼を言いたいのはわたしのほうだったのに。

ありがたくもあり、申し訳なくも思った。


Mさんは、私が喜ぶだろうとしてくれた。その時の、私の顔も反応も見られないのに。想像するだけで、うれしく思えたのだろう。

そして、Mさんが、わたしからの感謝に反応しているのだとしたら、ありがとうという気持ちを持つことも、そして、それを相手にきちんと伝えることも、大切だなと思った。


私は、自分の仕事を、私でないとできないとは思っていない。もちろん、その頃もだ。

再就職はできないと思った時もあった。それでも、手に入った仕事に、やりきれなさとか自嘲とか、さめた気持ちになることもあった。

自分がしていることのすべては、特に賞賛を浴びることも、高給につながることもないことを、心得てもいた。

しなければ人が困るのに、してもあたりまえのようにしか思われない仕事は多い。考えてみると、仕事の多くは、そんなことばかりかもしれない。



再就職の一年目の、光る床。
ドアを開けたときの驚き。

その思い出は、自分への覚え書きだ。

感謝は伝える。
特別にしてくれたことに。
いつもしてもらっていることに。

そして、自分への励ましだ。

わたしの仕事は、だれかを笑顔にしているのだろうか。
だれかを笑顔にできるのだろうか。

わからない。でも、そう信じたい。

わたしは、床をピカピカに光らせてくれたMさんほどには、誰かの目をまるくさせたり、思わず感謝されたりすることは、ないかもしれない。

でも、だれかが、わたしのした仕事で笑顔になっていると、信じていたい。
その顔が見られなくても。言葉がなくても。



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