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2773文字、政治経済や人に関する在り方像の提示が、修正余地を取り違えた主張のまき散らしではないと言える為の条件

2023-7-006

代替不可能な内外事情にしか応じない実存を生きてない人は、理想と現実、という関係構造における現実ポジションに自己を置いた場合に、
理想ポジションに何を置こうが、置かれてるものに対して必ず過剰に割り引く形でしか接する事ができない(例えば、尊重は必ず形骸化してしまう)ので、

有限の与件性からくるもの以外の割り引かれがない状態(割り引きの縮減における下限)を基準に据えられない事態に事実上ある、
例えば、日常レベルでの不満を覚える覚えないの中身も、必ず修正余地についての取り違え(要求の過不足の反映物)であり続けてる、そう見なして良いように思います。



(その実存は、外在場の疑似でない個別性に即させる整合への支持を含んでる、
もちろん、外在場の疑似でない個別性を損なう形で外在場の上に立ち上がってるものを肯定する妄信系にも、
損なわない形で外在場の上に立ち上がってる部分まで否定する反動反発系にも、修正余地見出すという内容の、存在有り様への受容条件を含んでると言える為、

民主制や市場に限らず、主体個々の事情が場の性質有り様に関わってる部分についての、代替不可能な内外事情にしか応じない主体像の割合最大化への志向、
さらには、真善美を過剰に割り引く認識場において選抜された対象位置づけに対し、その過剰部分だけを否定対象として取り上げるのではない、
との意味で過大要求過小要求が生じてる対他者の集積空間からの知性倫理美意識の解放への志向まで含む、と考える事ができるように思います。)



とはいえ、不当なクレームや改善対象見逃しに関する責任(能力、物資、時間をはじめとする有限性への過小評価や過大評価が、
有限の与件性レベルの強さ持つ受容せざる得なさをもって自他の負わされを肯定する態度の欠如故に生じてる事態、

つまり、限定の前後関係に対する抽象化具体化の不十分さだけを、自己や過去時空未来時空の誰かを含む対人で言うと冒頭の実存からの乖離だけを、否定対象にしてるとは言えない事態の責任)の一端は、

義務教育において想定されてる知性倫理美意識の内容が、有限の与件性レベルの受容せざる得なさへと受容条件の実態を持ってく働きではない
(能力や情報や可能性の獲得具合を、冒頭の実存と整合させる個性観が採用されてない時点でこれが言える)以上、教育にもあるはずで、



同様の構造は社会制度や人間一般、世界そのものへの肯定否定反応にも言えるとすると、
上の意味で知性倫理美意識が形骸化してる状態のまま、政治経済や人についての有り様なり在り方なりに対する肯定否定が発されてきた、

この枠組みの内か外かでもって、修正余地取り違えの混入物なのかどうかを在り方像の提示、
あるいは、在り方像に対する評価の提示に関しても判断できるのでないかと思います。



ちなみに、内在不問外在軽視な通念的自由観も、実存の内実を気にしない通念的平等観も、
内外境界(有限性)に対する上の働きの結果と言える冒頭の実存を志向してないので、それらを内包してる提示は枠組み内ですし

(有限の与件性レベルの強さ持つ受容せざる得なさを主体の有限性形態が持つかどうかを気にしないでも、
帰属操作に繋がらない量文脈と繋がる質文脈を、局面に合わせて使い分けれてない権利感覚、

特に、冒頭の実存からの乖離具合や下で言う人間性の機能不全具合と関係のない用い方しかなかった、つまり、事実上量文脈一辺倒な人権のように、量文脈と質文脈の二層構造という図式からして持たないそれは、
自身に帰属してるしてない等のより根本的な判断の歪さ、ひいては、反応の過大過小を含んでしまう理解力が示唆される)、


個別性を保障するという文脈が、自由系(まとめ上げの拒否)であれ平等系(軽視ポジション発生の拒否)であれ、内実無検討故に疑似化してる個別性の保障に利用されるのは、
個別性が根拠になる局面と着目無視との合致が論点になってないせい(論点になってる場合、個別性捨象も個別性内実無検討も否定対象になるはず)ですから、

やはり冒頭の実存(における局面事情に対する態度)への志向の不在が言えるので、利用してる形の提示は枠組み内です。



そもそも、同種の他との共通要素捨象(これに個別性をさらす処理、ひいては、先の量質図式)の意義を認めてない既存の文系空間は、
個別性が根拠になる局面であっても、個別性捨象と個別性内実無検討との二択の外に出れない

(この事情で、通用領域の広狭と確からしさとの相関を何の差異に関して持ち出すかという観点設定が局面と合致しないという、
次元設定自在性を人間性として見た時の、人間形式へのいらぬ制約を対文系に強いる有り様してる)為、

既存の文系空間が持つ価値体系と整合的な知性倫理美意識(文系の教育実践に対する先の量質図式が機能してない類の肯定否定の結果である知性倫理美意識)は、先の意味で形骸化してる
(対主観でのそれをはじめ理系者にとっての特化対象である、同種の他との差異要素捨象も、
冒頭の実存を介して文系的局面に持ち込む分には少なくとも、不当合理となるのを最大限回避してるとは言える)のであって、


個別性が根拠になる局面で同種の他との共通要素捨象を不足なく機能させられる事が、上で見た枠組みの外にいると見なす為の必要条件なのだと解しましょう。
(その捨象を用いた抽象化具体化の不十分なものを十分な状態へと持っていける程、

例えば、利己利他を個々具体とする抽象次元に一旦遡り、そこから引き受けざる得ない具体化条件、つまりは、冒頭の実存が付し直された具体形を引き出せるので、
利己利他について修正余地を取り違えた主張に遭遇しても真に受けずに済むようになる。


また、付し直し処理を個々の秩序有り様踏まえた、置かれてる時空性の付し直しとして捉え直せば、
変化不変化の不十分な秩序の受容程度を過去や現在について把握する話になるし、

もちろん、否定反応の具体化条件を冒頭の実存にしてる場合、例えば、先の量質図式が機能してない内容の理念が組み込まれてる主張などの、
抽象化具体化の不十分な代物と分かってるもののまき散らしに、余裕ある局面でなお加担する展開もなくなる、そう解しましょう。)



有と無が完全一致でない、つまり、有は無でないし無は有でない場合、有無枠組みは有限性の範疇なので、対無限者で持ち出すのは基本的には矮小化なのでしょうが、
冒頭の実存を生きてない人が持ち出すのは矮小化でも、冒頭の実存を生きてる人(確からしさが上限である為、有限性形態に修正余地がない人)が持ち出す分には、

(余裕がない局面での次善の策がそうであるように)限定理由の確からしさが上限である為、限定前後で確からしさが保存されてるので、
いらぬ割り引きの許容である非尊重には当たらず、問題ない事になるのでないかと想像します。

ご支援の程よろしくお願い致します。