見出し画像

4184文字、善悪枠組みに振り回されない為に必要な理解について

2024-3-002

人であれ世界であれ、修正余地のある状態とない状態とがあるだけ(どういう能力を得たか、どういう生活有り様を得たか、どういう実績を得たか、
これら自体はここの差異を説明してないので、内実の確からしさの上限を肯定条件にする場合、

つまり、張りぼてを張りぼてとして扱う場合、肯定否定を判断する情報が足りてない)、
こう捉える事を通して、この差異以外に囚われてる知性倫理美意識を解放しましょう。


修正余地がない状態の上限を、有限の与件性(AであるというだけでAの内と外が生じる事実)とより確からしいものが取って代わる運動性から成ってる状態、
つまり、内在性質と外在性質とがそれぞれ存在するのと引き換えとは言えない要素を帰属させる事なく統合してる状態

(不十分でない抽象化と不十分でない具体化条件割り出しとの総合状態)と解した上で、
その上限に向かってる知性倫理美意識と向かってない知性倫理美意識とを分け、


後者の産物(例えば、これが善でこれが悪といった分別枠組みを踏まえた主張)を、
中には次善の策として要請されるものもある(例えば、余裕あるならあるなりの、ないならないなりの振る舞いという具体化精度確保を組み込んでない助け合い推奨であっても、

内在性質としての本筋が、取り違えでない外在性質としての緊急事態をもって割り引かれた結果な次善の策となり得る)にせよ、
真に受けるのは、修正余地のあるものを確からしいものとして扱わせる働きに付き合わされてしまうので止めましょう。




誰であれ不完全さを持った一人間として捉えつつ(社会的地位によらず人間扱いしつつ)、
存在するのと引き換えとは言えない要素まで尊重させられる存在尊重となるのを防いでくれる、

修正余地のない不完全さは受容し、修正余地のある不完全さは受容しない態度に、
実質を与えるのが、代替不可能な内外事情にしか応じない実存を受容条件とする対人である
(この対人を持たない他者尊重は帰属関係の修正余地を保存した結果、人間扱いを欠くか、存在扱いを肥大化させてるかのどちらかとなり、泣き寝入り発生のない尊重にならない)との理解を押さえましょう。

(実力について、情報量増大に対するルール保持の耐用度のように捉えていた場合、都合のごり押しと表裏になってしまい、
都合の悪さの無視、ひいては、修正余地の保存という側面が実力向上を阻害すると想像されるので、

行動原理を仮説として見た時の、仮説改善の上限化を取り込んでない対実力は形骸であり、
仮説改悪に繋がる、実験精度の低い実験結果に相当するものの受容に等しいのが、代替不可能な内外事情にしか応じない実存を自己に求めてない生であるとの理解、

有限性に先立つ何らかにも開いた話にするならより抽象的に、通用領域の広いものほど、
具体化という限定作用の精度が高いものは受容し、低いものは受容しない分別を伴わないと、通用領域が広いという自身の性質を保てない、
との理解は、その人が自身に、あるいは、自身の所属先にいらぬ劣勢を負わせない為に重要であるはずです。)


また、こちらとあちらが共に、代替不可能な内外事情にしか応じてない主体像の体現として在る、
当然、具体的振る舞いにも獲得喪失有り様にも、その主体像の反映とする事で修正余地なさを持たせてるなら、

分かり合えないという現象も、こちらの言ってる事があちらに理解されないとかこの逆関係の現象も、
たまたまそういう表層形をしてるだけで内実の確からしさとしては上限であり
(例えば、曖昧さを持たせてるのに明晰さを要求されるといった齟齬も、そもそも曖昧明晰スペクトラム上の点選抜が局面次第なので、齟齬自体でなく上の体現が論点になる)、受容に値すると解しましょう。

(この場合、社会から受容に値しないものを負わされない為に、あるいは、社会を通して受ける何らかに修正余地なさを持たせる為に、自分ができる事の上限は、
その主体像だけから成ってる社会との遠近を社会有り様に関する論点とし、代替不可能な内外事情にしか応じない実存を自他に求める事、

自身の獲得喪失有り様を代替不可能な内外事情にしか応じない実存と整合させる必要性から、
求めるという主題の具体化条件はこの実存になるので、事情次第では表面上求めない事も全然あり得るこれと推測されます。)


逆に、内実の確からしさの上限を維持しているいないを論点としてない、したがって、内実の確からしさの上限が維持されてさえいれば、
ほとんど変化がないという表層形をしてようが、大きく変化してるという表層形をしてようが、受容に値する、
という変化不変化観も踏まえてない政治的言動に付き合うのは、都合の良い表層形の押し付け合いに利用されるだけなので避けましょう。

(騙されるのを楽しむ領域でないなら、修正余地なさを先立たせないと、マジシャンよろしく、あるいは、推理小説家よろしく、
ある印象を受け手に持ってもらう為に何かを見せたり見せなかったりをはじめ諸々を整合させた秩序を構築する、
という側面は、修正余地のあるものを確からしいものとして扱わせる為に知性倫理美意識を注ぎ込む隙に相当してしまうとの理解を押さえましょう。)




ところで、理想と現実の関係が、限定される前状態の準備とそれが負わざるを得ない限定条件の割り出し、
これらの上限化を内容にしてる時、修正余地がない状態の上限を達成してると言えますから、

理想を割り引く程度を最小にしてる現実から見て、割り引きの過不足としてあるもの
(例えば、個々人の具体的問題の持ち方に関する、個々人が代替不可能な内外事情にしか応じない実存、

場の疑似でない個別性に即した割り振りを越えないという意味で、フェアを越えてまで自分を助けなくて良いとする態度をもって、
付け込まれたり自ら追い込んだりする隙となる解決への志向の肥大化に相当する、疑似問題に振り回されるのを抑える対応も内包してるこれを具体化条件に、
修正余地についての上限化させた抽象像から具体的問題を切り出す処理を踏まえてない言動)は後者的知性倫理美意識の産物です。


天候が悪いという時、気候に対する人間の影響が指摘されて久しいわけですが、
天候有り様に経済活動の落ち度(安易な理想現実関係で済ませてる態度)の反映部分を見る見ないは当然に局面次第であって、

社会有り様に含まれてるいらぬ劣勢を負わされてる部分についても同様なのに、
自己責任論など、局面とは無関係に社会に対して不満を持つのを咎める理論(乳児は母語の発音体系に自身を特化させるらしいといった最初期のケースは除くとして、
ローカル性の影響を前景化してるか背景化してるかによらず、社会有り様の妄信的内面化を前提にしてる理論込み)は実在するわけです。

他方で、奪うという事象が帰属関係の操作である事から分かるように、対善悪は、
割り振り原理になってるものについての受容に値するしない(修正余地がないある)問題の一種に過ぎない為、

足の速さが問われてる場で薬の効き具合等の他の差異が評価基準に混入してるとか、理科の実験で必要な差異が取り出されるようにセットアップを組むのに失敗してるとか、
こうした観点設定(着目無視設定)のミス全体を問題状態として見ていないと、

言わば、林檎を数えると蜜柑やまだ見ぬものを数えるとが分離してる、さらには、数を数えるという原理
(この場合、観点設定ミスに修正余地なさを持たせる事による先の過不足からの解放)とも分離してる、という意味で二重に大騒ぎしてる様相を呈してしまいます。



この両者は見て見ぬ振り系(疑似解決)と大騒ぎ系(疑似問題)という表面上真逆な関係ではありますが、
各場において価値があるとされてるものへの着目という具体化精度確保の不在の現れである点では同じものであり、

ひいては、論点に対する抽象度不足(通用してる領域の広狭と確からしさとの相関という第一原理を、
何の差異に関して持ち出すかを決めてる観点自体に対するこの相関の適用の厳格化しか、我々にできる事はないとの理解の不在)の弊害でないかと考えます。



例えば、有名なトロッコ問題は、理想現実関係を修正余地がない状態の上限に持ってくだけの話を、
損得計算(妥当な損失の引き受け、不当な利得の受容拒否、これら側面の捨象)や共通性立脚(個別性捨象)といった量を根拠にする理論が影響力を持つ現状を踏まえて、
わざわざ量を比較可能という問題設定にした上で、落ち度のなさという観点をぶつけてるような印象を受けますが、

落ち度のなさ具合は結局のところ、観点設定ミスに修正余地なさを持たせているいない
(次元設定自在性をはじめとする人間形式、および、個々人の内外事情の下で可能なだけの場と齟齬のない秩序の確保と言える言えない)の差異であるとの理解の不在の下で話を持ち出してしまうと、

カント的処理不全(個別性が根拠になる局面での個別性捨象)とデカルト的処理不全(個別性が根拠になる局面での疑似化込みな個別性の根拠化)の二択という、
典型的な近代性枠組みに話が閉じてしまい、議論が近代性(個別性が根拠になる局面と齟齬のある秩序の構築)の再生産に過ぎなくなるように思われます。


グローバルとローカルの対比や状況立脚と内面立脚の対比をはじめ、文系空間は現状この二択
(どちらも個々の個別性に修正余地の有無を見ない点は変わらないのに、他方の批判にかこつけて押し通すロジック)に溢れてますから、
実社会や学問世界に参加する前までに、この二択枠組みの産物に丸め込まれない、かつ、議論をこの二択から解放できる状態となるよう、

人や概念の具体的有り様を内在性質(抽象物)と外在性質(具体化条件)とに分離する処理
(具体形が局面次第であるものを局面無視で捉える傾向は、前提である内外性質統合としての現象観含めた、この不在が原因)、

および、AにもBにも言える要素をAに固有の性質と見なされてるものから取り除く処理
(個別性が根拠になる局面では同種の他との共通要素捨象、根拠にならない局面では同種の他との差異要素捨象が要請されてるとの文理観、近代性に対する修正像でもあるこれが前提)をもって、

文系者は実質を得る(文系者の知性倫理美意識は、修正余地がない状態の上限に向かってる類となる)との評価軸を文系教育に組み込みましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。