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2453文字、理性概念の内容を変える事で、理性概念が持ち出される際の弊害を抑えよう

2023-8-005

個別性が根拠にならない局面では同種の他との差異要素捨象を、なる局面では同種の他との共通要素捨象を、引き受ける論理像の不在が、

分離処理への過大評価(科学の在り方や個人の精神を分離した際の成功体験による、
あるいは、局面と着目無視との合致など、局面との一致不一致に鈍感なのに方法採用の是非判断をまき散らす越権的影響力による、
近代始点で見られた単なる分離という次善の策の居座り)によって強化された、

個別性が根拠になる局面での、前者捨象の領域侵犯(個別性捨象)と後者捨象の埋没(個別性内実無検討)、
というパラダイムの形をしてる(理系は前者捨象な次元設定空間内に立ち上がってる体系であると解せるので、
前者捨象特化な着目無視傾向でも理系的には問題ない)のが、近代性と思いますし、


この外に出ないから文系事象について具体化精度の差異を取り出せない(分離した双方の有り様について具体化精度が問われない点にその過大評価の弊害があるのに、
問われてないままなものの統合という表層形反転でしかない対分離に、余裕がある為次善の策に頼らずに済む状況ですら、疑問を持たないなどが起きる)し、

出てない人達から成る空間にいるから取り出せてない有り様(例えば、場に合わせる合わさないの表層形二択でしか問題を捉える事ができず、
どちらであれ修正余地を保存する有り様)を咎められないだけなのだと思います。



理性については、内在場の産物を局面の性質をもって具体化する能力に過ぎないものとして扱えば、

感情なり経験なりが、具体化の結果に全く反映されないように処理する事を求められてる局面も、
具体的有り様の根拠として、さらには、根拠に値する状態になるよう処理を施して、扱われるべき局面もあり、

こうした局面に合わせる具体化精度を、機能してる限りにおいて保障してくれるもの
(上で見たパラダイムは前者局面用に特化させる為、機能不全の原因)という位置づけになるので、


感情なり経験なり(これらはこれらで、抽象化具体化の不十分さの解消具合、という内実の確からしさを問われる対象であり、
やはり上で見たパラダイムが、前者捨象を用いた抽象化具体化に特化させる為、解消されない原因になってる)と、

理性との間の上下論枠組みから、内在場と外在場の上下論の外、または、外在場に合わせる合わさないの表層形二択の外に理性概念を解放する事
(ひいては、代替不可能な内外事情にしか応じない主体像に寄せる試み以外の対主体や対主体集積への、良くて次善の策、という扱い)も可能になると考えます。

(ちなみに、非対等性に対する単なる無化は、縦関係を分離として見た時の単なる統合と解せるでしょうから、先に見た議論が言えて、つまりは、近代性の範疇です。)



また、自分に帰属してるとか帰属すべきといった感覚について疑似化してる(特に、内在性質や外在性質を同種の他との共通要素捨象に十分さらしてない)のに正当化してる、
かつ、倫理なり倫理を包含してる何らかなりへの尊重を自負してる場合、

奪う奪われる世界(帰属関係の操作が前提な世界)の保全と倫理の尊重とは整合してると主張してるのに等しく、
さらには、倫理の矮小化の結果に関する責任を矮小化させた本人に帰すのでなく、倫理に擦り付けてる形が言えて、


近代性から成ってる空間(冒頭の後者捨象用いた抽象化具体化の十分不十分の差異を、
取り出せなくても咎められない空間)においては、倫理やそれを包含する何らかは形骸尊重以上の扱いを受けられない事になる為、

近代性からの脱却を果たしてる空間(場の疑似でない個別性との遠近についての、分離処理への過大評価によって強化されてる、隠ぺいや偽装を、
不当合理や実態主義として棄却できてる空間)への志向を事実上欠いてるなら、
それらへの形骸でない尊重を望んでるとは言えない(権威を、したがって、影響力を認めるに値しない)ように思われます。


(もちろん、帰属修正を装った帰属操作のパターンの除去が不十分、この意味で矮小化したまま展開されてる、
知性倫理美意識の権威化が、あるいは、知性倫理美意識をひっくるめた自身の優秀さ宣伝の鵜吞み連鎖が、上で言う隠ぺいや偽装を正当化してしまう点に、

言わば、理系においてガリレオ登場に相当する出来事のない歴史での権威等の提示した原理がごり押しされる迷惑な事態が、文系の日常であり、
実際、同種の他との共通要素捨象という、個別性の疑似化除去に必要な処理が機能してない状態で個別性を把握する、
したがって、個別性に関する帰属関係を雑にしか把握できない地平で為す経済有り様や政治有り様の肯定否定がまかり通る等、

質の観点を欠いたままの空間である以上、その空間における権威は、量的な観点の反映に過ぎず、
先の主体像と整合してない獲得喪失なり、局面に即した有り様と整合してない反応大小なり、先の主体像同士から成ってない協調競争なりへの、
形骸扱いをパスしてない為、文系域では基本的に、権威と質とがバッティングしてる点に、

問題があるので、倫理に限った話ではありません。)



聖書立脚(個人の精神への教会由来の縛りの捨象)もある中で、方法的懐疑は、
通用領域の広狭と確からしさとの相関立脚での個人神理性等の関係再構築の試みと言えるのでしょうが、

自我の実存有り様に対する内実確からしさの差異に関する観点(代替不可能な内外事情にしか応じない実存への志向)の不在、
その相関の持ち出し方次第では防げるのに生じてるそれは、修正必要が認められてない事もあり、
今なお実態主義(例えば、現象学系)に権威が生じてしまう原因になってるように思いますし、


分離の他方側についても、信仰を無限者等との間の関係性改善試みと解した時の、
理想を割り引く程度を最小にする現実(代替不可能な内外事情にしか応じない実存)への志向の事実上の不在が、
宗教的説明の権威保全と合理性の台頭、という関係における対立縮減(質偽装と質隠蔽との同時否定)の機会を奪ってるように思われます。

ご支援の程よろしくお願い致します。